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清水多吉による評伝について
Text by 西村紗知(Sachi NISHIMURA)
2024年12月3日、立正大学名誉教授で哲学者の清水多吉が逝去した。氏は日本のフランクフルト学派研究の第一人者である。私にはM. ホルクハイマーの『道具的理性批判』の翻訳(編訳)で馴染み深い。その他、日本語で読めるフランクフルト学派関連の研究業績が多く、面識はまったくないが氏の仕事にはお世話になった。早々に大学院から居なくなった私には、現在の日本の社会学並びにフランクフルト学派研究において、清水の仕事がどれだけ参照されるものかはわからないが、ここにて多大なる功績に敬意を表したい。
今回、清水の仕事のなかでも「評伝」という、フランクフルト学派研究とは直接関わりのないタイプの労作を取り上げてみようと思う。これは、単に私がこれまで読む機会を持たなかったという以外に、以下のような理由がある。
1973年にホルクハイマーが亡くなったのち、清水は「ある焦燥感と自壊」(『現代思想』1(9)、1979年、140-153頁)という文章を残している。そこで清水は、「市民的個人主義への後退、保守主義への頽落、袋小路、悲惨さ、ペシミズムへの逆転など、あらゆる種類の批判あるいは非難が示している通り、「批判理論」の四〇年代以降は、何ら積極的なものを提示することなく、その歴史的制約にしたがって、自壊作用を起しつつ、今、無化されようとしている」(140頁)と、60年代末頃からフランクフルト学派全体に対して寄せられていた批判的な意見に同調している。実際にそうした非難が妥当だったのかどうかはこれから検証しても遅くないと思うが、当時清水がそれらに首肯したのは事実である。
それでは、批判理論のプレゼンスが決定的に失われたと判断して以降、清水はいかなる仕事に向かっていったのか。こうした関心のもと、清水の仕事を振り返ってみたい。以下、出版年順不同で、ごく簡単にではあるが紹介する。
●『西周――兵馬の権はいずこにありや』ミネルヴァ書房、2010年
クラウゼヴィッツの『戦争論』の全訳・出版の実績がある清水は、兵学・戦争論に専門性がある。そんな清水が本書で試みたのは、西周の哲学と軍事参謀としての実績を結びつけることだ。
西は、徳川慶喜の目付として鳥羽伏見の戦いの敗戦を経験し、のち沼津兵学校の頭取として日本の軍教育の礎を築いた。それから陸軍参謀局の課長に着任。今度は、西南戦争、竹橋騒動といった武力反乱を経験する。こうした激動の日々を、森鴎外の『西周伝』(森にとって西は大伯父筋にあたる)から抜け落ちた要素を西の『自伝草稿』で補いつつ、辿っていく。
明治6年(1873)7月に結成された啓蒙学術団体「明六社」の社員であった西。同じく社員であった福沢諭吉に、西は「「明六社」員の身の処し方(啓蒙家であることと政府の中級官僚であることの矛盾)で皮肉られたことがある」(207頁)という。清水もまた福沢と同様、西の思想家と軍事参謀の二つの側面に着目する。そうして読者の目の前に開示されていくのは、西の行動におけるダブルスタンダードともみえる、いくつかの「たじろぎ」である。
1878年、「竹橋騒動」の6ヶ月前の講演「兵家徳行」で、西は「従命法」の重要性を説いた。しかしその後、「軍人訓戒」の草稿を執筆した際、上官に対する「異議申し立て権」を兵卒に認める記述を加えていた。清水はここに、啓蒙思想家と軍事参謀との間で、自己同一性が揺れるのを読み取っている。
実際にそういう人物だったのか、私には検証する素養がないが、清水は西周という人物を「たじろぐ人」として記述しようとする。福沢諭吉は『学問のすゝめ』で、洋学者が官に頼ってばかりで、民間事業へ参画しない現状を憂い、彼らを「あたかも娼妓の客に媚るがごとし」と痛烈に批判した。このとき、この批判を真に受け止めて最も動揺していたのは、西だったのではないか、と清水は考察している。
●『岡倉天心――美と裏切り』中公叢書、2013年
岡倉天心という、右翼反動思想や日本ファシズムの参照先とされていった人物もまた、清水にとっては「たじろぐ人」である。
本書は、岡倉が明治36年(1903)に英文で出版した『東洋の理想』にある「アジアは一つである」という記述が、いかに大アジア主義のイデオロギーに回収されていったのか、検証する内容。清水が特に関心を寄せているのは、「アジアは一つである」と岡倉が主張する際の、内容のぶれ、つまりはイデオロギーに変わっていく際にこぼれおちた要素の数々である。清水は、岡倉の文言にある「美学」「美術史」的意味と、「政治論」的意味の両方に着目し、記述を進めていく。
岡倉は、仏教の渡来を軸にして、アジア全体の美術史を構想していた。ここにて岡倉は、ヘーゲルの美学講義にある「象徴的芸術形式」「古典的芸術形式」「浪漫的芸術形式」という有名な図式の応用を試みていた。精神が形式を乗り越えてしまった「浪漫的芸術形式」にあたるものは、アジアでは足利時代の山水画・水墨画にあたると、岡倉は考えたという。清水はこの点に関し次のような注釈を付けている。ひとつは、岡倉のヘーゲル理解が岡倉の師であるフェノロサを経由したものであること。もうひとつは、フェノロサのヘーゲル理解がスペンサーの社会進化論と結合してしまっているらしいということ。岡倉がヘーゲルの歴史哲学を、かなり独特な仕方で受け止めていたことがうかがえる。
その一方で岡倉は、「アジ文」のようなものも書いていたのだという。明治35年(1902)頃にカルカッタで執筆したと言われている『東洋の覚醒』では、岡倉はインド人の青年に反英闘争を呼び掛けていた、という。これは時勢を鑑みてか、生前に出版されることはなかった。
ちなみに副題にある「裏切り」とは、幕末での、幕府軍に対する裏切り行為ともとれる福井藩の軍事行動のこと。岡倉家は福井藩藩主・松平慶永の恩顧を受けた家柄だったという。松平慶永率いる福井藩の軍勢は、鳥羽伏見の戦いの際、幕府と薩摩藩の軍勢との間を取り持って調停する立場にあったにもかかわらず、兵を率いて国許へ帰ってしまった。それから、朝廷が組織した東征軍の味方について、長岡藩に攻め入るに至った。
岡倉とは論敵の関係にあった、画家・教育者の小山正太郎は長岡藩の生まれである。清水は、幕末の戦乱が「トラウマ」となり、明治以降の文化の発展に、ただならぬ影響を及ぼしているとして、歴史を記述していくのだった。岡倉天心にとっての「たじろぎ」とは、つまるところこの「トラウマ」に原因の一端があるのだ、と。終生、文化ナショナリストであり続けた岡倉の基本姿勢の根底に、父の代の裏切りを否認したいという「トラウマ」を透かし見るのが本書の試みのひとつである。
●『武士道の誤解――捏造と歪曲の歴史を斬る』日本経済新聞出版社、2016年
清水の先祖は会津若松藩士だったという。まさに清水こそ、幕末の動乱が自身のアイデンティティ形成に並々ならぬ影響を及ぼしたと自認する人なのである。評伝を書くことは、著者自身の家族史を相対的に捉える試みでもあるかもしれない。
本書では、学生たちとの対話形式で、「武士道」を文献学的に検証していく。古代に「ますらを」と呼ばれていたものから検討し直し、太平洋戦争中に忠君愛国精神として読み代えられるに至るまでの道筋を辿る。
清水は「武士道」の本懐を「忠節」にみるのではない。そうではなく、「正義」を実現しようとすること、つまり組織の治安維持よりも個人の主体性を重んじた概念であると考える。それで、いくらか杜撰な点はあるとしつつも、新渡戸稲造の『武士道』を高く評価する。新渡戸は、「義(rectitude)」と「正義(justice)」を重要視し、この由来を「道理(reason)に従って決断することだ」と林子平の言葉を借用して主張したのだった。
本書を締め括るトピックは、『葉隠』の受容について。『葉隠』の「武士道といふは、死ぬ事と見付けたり」というフレーズは、太平洋戦争中の特攻、玉砕や自決時に使われていた。『葉隠』はまた、三島由紀夫の愛読書としても知られているが、元々は佐賀鍋島藩内で少ない冊数が流通していたに過ぎないマイナーな書物だった。一躍メジャーになったのは、和辻哲郎・古川哲史による校訂のもと、岩波文庫から昭和15年(1940)に出版されたためであった。学徒出陣に際し、学徒兵たちは書籍の携帯の一切を禁じられていたが、『葉隠』だけは例外であったという。
清水は『葉隠』を「死に遅れた者の美学」の書であるとする。その根拠を、作者の山本常朝の経験に即して説明する。常朝は、鍋島藩藩主・光茂が病死した際、日頃の恩顧に応えて腹を切って死ぬつもりだった。だが殉死は武家諸法度で幕府から厳しく禁じられていたため、思いがけず生き永らえて出家する。そういう事情で、『葉隠』には、「死に遅れた」ことについての切々とした思い、亡くなった主人に対する恋慕にも似た心情が綴られる一方で、「死に遅れた」のであれば、後は好きに生きればいいだろう、という思いも垣間見える、と。後者の思いを読み取らねばならない、というのが清水の強調するところである。
本書は概念史を詳述したものであって評伝とは言えないが、実際的には、本書の最後には、「わだつみ世代」たちの評伝の章が設けられているものだと私は読んだ。『葉隠』を、「平和の時代にこそその真価を発揮する一箇の教典である」とする、橋川文三の言いよどみから、清水は何か受け取ろうとしている。清水が『葉隠』を「死に遅れた者の美学」の書であると言うのは、橋川の存在が大きいだろう。実際、清水が自主講座を主宰した際に、橋川を講師に招いて『葉隠』について講演してもらった、という。
●『柳田國男の継承者 福本和夫――「コトバ」を追い求めた知られざる師弟の交遊抄』ミネルヴァ書房、2014年
先に岡倉天心の評伝について触れたが、岡倉の『日本の覚醒』は、福本和夫が獄中で精読した書物のひとつだったという。
戦前、「福本イズム」と呼ばれる分離・結合理論で左翼論壇を席巻した、マルクス主義理論家・福本和夫。昭和2年(1927)にコミンテルンの「27年テーゼ」によって失脚し、翌年には三・一五事件で検挙され、14年間にわたる獄中生活を送る。
文部省在外研究員として渡欧していた折、大正12年(1923)の夏にドイツのテューリンゲン州にあるイルメナウという町で行われた、マルクス主義の「研究週間」に参加した福本。そこでカール・コルシュ、ジェルジ・ルカーチらと交流し、その研究週間にいたメンバーの多くは、のち「フランクフルト社会研究所」のメンバーとなり、やがてこれは「フランクフルト学派」と呼ばれるようになる。清水は、ある種フランクフルト学派の初期のメンバーとも言える福本と、とりわけ福本の晩年に積極的に交流したという。
本書で特に焦点を当てるのは、出所後の福本の研究活動について。なんと、福本には「柳田國男の継承者」としての側面があったという。日本民俗学の創始者と左翼のイデオローグにいかなる接点があったかというと、出所後、福本は故郷である鳥取県(伯耆国)の郷土研究に打ち込み、柳田に助言を仰いでいた、とのこと。
「伯耆北條地方ノ訛言・方言・略語考」という仕事をまとめるにあたり、いくつか不明点を柳田に尋ね、柳田はコメントを寄せている。例えば、北條地方で「お灸」をする際のまじない言葉に「天竺のゲバ」とあるが、何のことかわからない、という福本に、柳田は「耆婆扁鵲(きばへんじゃく)」の「耆婆」のことだろうと回答している。他の回答をみても、柳田の博覧強記ぶりに驚かされるばかりである。
他にも福本は、倉吉の刀鍛冶職人たちの手技を調査したり、江戸時代の捕鯨についての研究、それから葛飾北斎の研究も行ったという。本書は、華麗なるイデオローグから庶民の「低い目線」で物を考える姿勢に変わっていった、その来歴に随伴するような評伝だと思う。何より、読んでいて、日本に生活する人々の「内発性」を探るために試行錯誤する福本の姿が見えてくるような心地がある。
さて、清水が評伝を書くことで達成したものは何か。ひとつには、評伝執筆とは、「武士道」や「アジアは一つである」といったテーゼの批判的検討にみられるように、イデオロギーを概念へと戻すような作業である。
概念へと戻した時、そこには「たじろぐ人」であった人々の姿が表れる。啓蒙思想家と軍事参謀との間で揺れる西周、「裏切り」をトラウマにもちつつ、「美」と「政治」の間の緊張関係のなかで行動した岡倉天心、死んでいった同胞への慚愧の念に駆られ口ごもる橋川文三。それから、今日でもなお、庶民の「マニファクチュア」についての研究が日の目を浴びる機会に恵まれない福本和夫について書き残そうとする清水もまた、「たじろぐ人」と言えるのかもしれない。
私は、清水の以上の評伝を読んでから、冒頭に紹介した「ある焦燥感と自壊」に再び目を通した。すると、以下のような記述が含まれていることに気が付き、意義深く感じられるのだった。
近代の合理、理性が陥んでいる「独断論」と「懐疑主義」の両者とも、徹底的なマテリアリストであった三〇年代のホルクハイマーにとって、無縁なものはなかった。人間の営為のテロスについて、皮相的な「懐疑主義」にも陥らず、不遜な「独断論」にも陥ることなく、マテリアリストとして、なおかつ批判的精神を貫くとすれば、何をもって合理、理性の基礎にすえようとするのであろうか。(143頁)
恐らく、ここで言われている問いを真に持つ人こそが、清水にとっての「たじろぐ人」だったのではないかと思う。独断論にも懐疑主義にも陥ることなく、「合理、理性の基礎」を追い求めること。清水は、終生三〇年代のホルクハイマーの姿を忘れず、フランクフルト学派の理論に忠実に従い、仕事をした人だったのではないかと私は思う。
最後に、清水が『ヴァーグナー家の人々』(中央公論社、1980年)を締めくくった一文でもって、本稿も締めたいと思う。
理解することだと言いつつ、共感することではないという、そもこの私はいったい何者か――。(212頁)
(2025/4/15)

