東京・春・音楽祭2025 クラングフォルム・ウィーンⅠ ブーレーズ&ベリオ生誕100年に寄せて|秋元陽平
東京・春・音楽祭2025 クラングフォルム・ウィーンⅠ ブーレーズ&ベリオ生誕100年に寄せて
Spring Festival in Tokyo 2025 Klangforum Wien I—Celebrating the 100th Anniversary of Boulez & Berio’s Birth
2025年3月26日 東京文化会館 小ホール
2025/3/26 Tokyo Bunka Kaikan Recital Hall
Reviewed by 秋元陽平(Yohei Akimoto)
Photos by 平舘平/写真提供:東京・春・音楽祭2025
〈演奏〉 →Foreign Languages
指揮:ティム・アンダーソン
ソプラノ:サラ・マリア・サン
管弦楽:クラングフォルム・ウィーン
〈曲目〉
フィリップ・マヌリ:東京のパッサカリア
ベリオ:フォーク・ソングス
ブーレーズ:即興曲−カルマス博士のための
『ル・マルトー・サン・メートル』
順番こそ前後するが、ルチアーノ・ベリオの『フォーク・ソングス』の豊穣さときたら。民謡を異化の素材とするのでもない。美しく飾り立てるのでもない。各々の歌詞のうちにひそむ、いわば世知辛さを端的にえぐるようなオーケストラ伴奏である。クラリネットやオーボエによるわずかな非調性音の配置に、ベリオの並外れた耳の良さを感じとれる。例えば最後から二番目の糸紡ぎ唄、羊飼いの少女の純朴なコケットリーをうたったおかしみに溢れた歌詞とうらはらに、弦楽が基底にある単調な暮らしの持つ悲しみを告発する。こうして、ベリオの民謡の持つ生活感へのまなざしは、ベンジャミン・ブリテンと双璧をなす20世紀民謡編曲の雄として、透徹した輝きをもっている。
歌唱を担うサラ・マリア・サンは、ときに喉からの発声を活用し、一曲ごとに歌唱アプローチを大きく変えるのだが、それは単に各国の伝統衣装をまとうように異国情緒に身を任せるのではなく、むしろ一歩退いたところから、オーケストラ伴奏の歌唱というコンテクストにふさわしい緊張感を音楽に与えるようだ。『フォーク・ソングス』はこうして演奏会に組み込まれるとコンテンツとして圧倒的な起爆力があり、そのほかの現代音楽はこれに立ち向かわなくてはならず、これはなかなかに困難なことである。
この点、劈頭を飾ったフィリップ・マヌリによる『東京のパッサカリア』はどうか。パッサカリアといっても、聴取可能な特定の低音主題の反復というよりは、単音のオスティナートを基軸として音楽が展開されているように聞こえた。マヌリは各楽器にかなりの程度個別的で放埒なプレイを許容しつつ、それらを流れ、いわば都市のすばやい交通のようなストリームのような群としての運動として扱う。東京という都市からインスピレーションを受けたかどうかは知らないが、雑多に見えてきわめて整然としたスピード感がそこにある。これらを統括する役割を果たすのが、オスティナートの核になる単音を和音から見え隠れさせたり、素早いアルペッジョで音を繋いだりと八面六臂の活躍をするピアノであり、その意味でピアニストが今回のキープレイヤーであろう。個別性の高い楽器群を複数の流れとして操作する手腕は見事であり多少耳新しいが、例えば金管楽器の扱いを始め、楽器法に由来するサウンドはきわめてオーソドックスな現代音楽のそれといった感があり、果たしてフォーク・ソングスの後になると印象がやや薄れてしまう。
まして、その後に来るのが『マルトー・サン・メートル』となると。ブーレーズのこの代表作は、まったき古典でありながら、演奏会で聴くとそのサウンドの独特の艶においてマヌリよりむしろ斬新に響く。改めて集中的に聴取すると、そこではブーレーズの二つの方向性が互いににらみあっているようだ。かたや「孤独な死刑執行人たち」の補遺IIに代表される、異質な音色をもった諸楽器が鋭く互いを排斥し合いつつも並走することによって、いわば「散奏」のように音楽が成立する、そのような硬質な美学(思えばある時期の近藤譲作品に先んじるものがあるだろうか)。もう片方には、フルートと声楽のエロティックな絡み合いを中心とする、「前衛の後衛」としてのブーレーズが惜しげもなく古典的教養を披瀝する、そうしたロマンティックな美学だ。後者は他の声楽曲や『エクスプロザント・フィクス』にも通底する、ドビュッシーやラヴェルの衣鉢を継ぐ官能の巨匠としてのブーレーズであり、この点を咎めて彼を前衛の皮を被った保守本流と見做すひとがいてもおかしくはない。
だが『マルトー』ではこれらの二つの傾向が、互いを牽制し、引っ張り合った結果として、音楽がきびしく限定された表現の幅のなかで推移するところに面白みが感じられる。ルネ・シャールの詩を単なるアイコンと思ってはならないことにも気づかされる。シャールの詩集のうちから彼が選択した詩篇は、ふつう一体化しているはずの身体の部位同士が、行為とその効果が引き裂かれあい、互いが互いを睨め付け合う、硬質でしかも燃え上がるような悪夢の印象に満ちたものばかりだ。また導入されるアルトはシュプレヒゲザングからインスパイアされたと言われるが、『月に憑かれたピエロ』で狙われているようなきわめて人間的な屈託をもつ語りとはもちろんほど遠い。
サラ・マリア・サンは、声を器楽的な抽象性へと純化していくことによって、シャールが人間という単位に施したおそるべき分割を再現していくようだ。刃の上に置かれた夢見る頭(「激怒する職人」)、泣きながら頭を探す眼(「美しい建物と予感」)、遠のく「足取りpas」と黙りこくる「歩行者marcheur」の分離(「孤独な死刑執行人たち」)…。ブーレーズはこの詩に音楽を付したわけではない。むしろシャールのポエジーの一部を音楽に移植し、その拒絶反応と協働のせめぎあいのなかで創作したと言うべきなのだろうか。
(2025/4/15)
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<Players>
Tim Anderson(Conductor)
Sarah Maria Sun (Alto)
Klangforum Wien
<Pieces>
Philippe Manoury: Passacaille pour Tokyo
Berio: Folk Songs for Mezzo-soprano and Orchestra
Boulez: Improvisé — pour le Dr.Kalmus
Le Marteau sans maître