ベトナム便り|~映画「Don’t cry Butterfly」を観て|加納遥香
ベトナム便り ~映画「Don’t cry Butterfly」を観て
Text by 加納遥香 (Haruka Kanoh) : Guest
今回のベトナム滞在がはじまってもうすぐ1年になる。ベトナムに長期滞在できるという貴重な時間なので、現在進行形のベトナムをしっかり見ておかねばという気持ちが当初からあり、そのなかでも関心が高かったのが、ベトナムの文化芸術事情である。ということで、時間が許す限りではあるものの、ベトナムにいるからこそ鑑賞できるコンサートや演劇、映画などに足を運ぶようにしている。そのなかで今回は、少し前に映画館で観た映画のことを綴ってみようと思う。なお、私がこの映画を鑑賞したのは映画館で1回のみであるので、映画の内容に関する記述に若干の記憶違いがあるかもしれないことをご了承いただきたい。また、ネタバレの要素を含むので、これから観たいと考えている方には注意いただけたらと思う。

『Don’t cry, Butterfly』ポスター(公式Facebookページカバー写真より)
ベトナムには国営映画館から地場の映画館、韓国系の映画館など、映画館が数多くあり、そこでは多様なジャンルの作品が朝から夜まで上映され、かつては輸入映画が中心だったが最近では国産映画も増えている。あまり大衆受けしないインディペンデント系の作品も、多くはないが上映されていて、最近の作品のひとつに、2024年に第81回ヴェネチア国際映画祭の国際批評家週間で世界初上映された、「Don’t cry, Butterfly/Mưa trên cánh bướm[蝶の上に雨が降る]」がある。この作品は、1990年生まれのベトナムの女性映画監督ズオン・ジウ・リンによる初めての長編作品で、ヴェネチア国際映画祭でのIWONDERFULL Grand PrizeとVerona Film Club Prizeをはじめ、これまでに4つの賞を受賞、7つでノミネートされた。ベトナムでは2025年1月3日に商業公開され、約1か月間全国の映画館で上映された。今のところ日本での上映予定はないようだが、Youtubeなどで予告編 が見られるほか、公式Facebookページでは映画のシーンの一部を見ることもできるので、気になる方は是非ご覧になっていただけたらと思う。
この映画は、ファンタジーやホラーの要素を交えつつ、日常の生活空間に終始密着しながら静かにゆっくりと進行する(なお、ネット上ではファンタジー・コメディやホラー・コメディなどと紹介されているのだが、私にはコメディの要素はあまり印象に残っていない)。主人公は、ウェディングプランナーとして働く中年女性タムと、その娘のハー。夫が浮気をしていることを偶然知ってしまったタムは、直接夫と向き合うのではなく、ネット上の動画(Tiktokか?)で紹介されていた霊媒師を訪ね、その力で夫の心を自分のもとに取り戻そうとする。しかしその日から、タムとハーを取り巻く日常に、この世のものではない恐ろしい力が働きはじめる。その力は、男性には感じ取られることが一切なく、タムの家の中ではタムとハーによってのみ、雨漏りによる天井のシミを通して感知される。昼寝をしていたハーは徐々に拡がる天井のシミから伸びてきたどす黒い不気味な物体に首を絞められ、夫に女性として関心を持ってもらいたいと願うタムは、その黒い物体に犯される。これらのシーンは夢の中での出来事であることがはっきりしているが、物語の結末では、夢か現実かが明らかにされないまま、タムは黒い物体に首を絞められてそのまま天井に吸い込まれ、ハーは不可思議にもひたすら水が流れ込んで水位が上がる家の中に閉じ込められ、溺れていく。こうして二人は、精神的に、そしてもしかすると肉体的、物質的にも、超自然的な世界に飲み込まれてしまうのである。

主人公タムをモチーフにしたポスター(公式Facebook)
発想の面で大変面白かったのは、異世界につながる通路が、雨漏りの後にできる天井のシミであるというところだ。ベトナムのアパートや一戸建てでは、雨漏りのシミはよくある光景で、私が留学時代に住んでいた部屋では、(5階建ての4階だったにもかかわらず)大雨が降り続いた際に雨漏りが発生し、その跡のシミが天井に残っていたものだ。天井や壁のシミ。一般家庭にあっておかしくない日常風景。そこを異世界への通路として、タムとハーの心、そして体が囚われていくのである。
また、はっとさせられたのは、この映画が描きだすのが苦難に果敢に立ち向かう強い女性の姿ではなく、苦難にじっと耐え忍ぶ女性の姿であった点だ。実際に作品の中で娘のハーは、「誰がお母さんをそんなに苦しめるの?(“Ai bắt mẹ phải khổ?”)」と疑問を投げかける。これは監督自身の問いでもあるようで、鑑賞後にこの映画についての記事をいくつか読んでいると、監督のインタビューが紹介されていた。
私は、なぜそれらの女性たち[中年女性]がこれほど苦しまなければならなかったのかを観察し、疑問に対する答えを映画に取り入れようと努力しました。実際には、私が会う女性の大半はとても主体的な考えや性格を持っています。彼女たちは常に、問題や悲劇から逃れる方法を見つけようとしています。私はまた、彼女たちを苦しめているものは彼女たちの内側から来ているのか、彼女たちを苦しみのなかに閉じ込めている思考は何なのかということに答えたいという思いでこの映画を作りました。(An ninh Thủ đô 2025年1月12日付記事)
監督自身が明確な答えを見つけているのかわからないし、私も映画を観たからと言って答えがわかったわけではない。ただ、じっと苦しむ女性たちがいるという現実を突きつけられ、また、30代半ばの映画監督がそのような現実に真摯に向き合って作品化していることに、同い年の私としてははっとさせられる思いであった。
ところで、タムが疑うことなくのめりこんだ霊媒について、そんなことはあるのだろうかと思われるかもしれないが、霊媒はベトナムでは少なくないようで、私の知人の50代の女性は、不幸が重なった時期に周囲の何人もから霊媒師のところに行くよう勧められたと言っていた。なお、ベトナムには伝統的な憑依儀礼「レンドン(跳童)」がある。これは自然崇拝やシャーマニズムを基盤としてさまざまな外来宗教が融合して形成されたベトナムの民間信仰のひとつである、道教の男神を最高神とする女神信仰(聖母道)の儀礼であるが(大西 2012)、この映画で登場する霊媒はこれとは違う類のように見られた。かなり怪しげな儀礼に見えるのだが、極度の不安を発端にこのような迷信的な行為に走るタムの姿は、現代ベトナム、あるいは人間一般の心理の一端を捉えていると言えるかもしれない。
最後に、作品のタイトルに用いられている「bướm(ブオム、蝶の意)」というベトナム語は、女性器を指す隠語としても用いられる。あくまでも私の解釈であるが、蝶が女性を暗喩しているとすれば、ベトナム語タイトル「蝶の上に雨が降る」は、女性のみが感知する雨漏り、すなわち苦悩の現実を、英語タイトル「泣くな、蝶よ」は、苦悩の中に閉ざされた状況から抜け出せることへの希望を、表現しているのではないだろうか。
この映画に関して、ここには書ききれなかったことや、一度見ただけでは消化しきれなかったこともたくさんあるので、また機会があれば鑑賞したい。また、日本でも、ミニシアターやベトナム映画祭のような機会にベトナム映画が上映されたり、動画配信サービスで鑑賞できる作品が結構あったりするので、「Don‘t cry, Butterfly」をはじめ、より多くのベトナム映画作品が日本に届けられるようになればよいなと思う。
参考文献
大西和彦. 2012. 「ベトナムの民間信仰:聖母道」『現代ベトナムを知るための60章【第2版】』明石書店. 第32章. pp.199-202.
(2025/03/15)
*このエッセイは個人の見解に基づくものであり、所属機関とは関係ありません。
プロフィール
加納遥香(Haruka Kanoh)
2021年に一橋大学大学院社会学研究科地球社会研究専攻博士後期課程を修了し、博士(社会学)を取得。同研究科特別研究員。専門はベトナム地域研究、音楽文化研究、グローバル・スタディーズ等。修士課程、博士後期課程在籍時にハノイに留学し、オペラをはじめとする「クラシック音楽」を中心に、芸術と政治経済の関係について領域横断的な研究に取り組んできた。著書に『社会主義ベトナムのオペラ:国家をかたちづくる文化装置』(彩流社、2024年)。現在、専門調査員として在ベトナム日本国大使館に勤務している。