Menu

読売日本交響楽団 第644回 定期演奏会|藤原聡

読売日本交響楽団 第644回 定期演奏会
Yomiuri Nippon Symphony Orchestra
SUBSCRIPTION CONCERT No.644

2025年1月21日 サントリーホール
2025/1/21 Suntory Hall
Reviewed by 藤原聡(Satoshi Fujiwara)
Photos by (c)読売日本交響楽団 (撮影=藤本崇)

〈プログラム〉        →Foreign Languages
ショパン:ピアノ協奏曲 第2番 ヘ短調 作品21
※アンコール
ショパン:ピアノ協奏曲 第2番 ヘ短調 作品21〜第2楽章
ショスタコーヴィチ:交響曲第11番 ト短調 作品103『1905年』

〈演奏〉
読売日本交響楽団
指揮:上岡敏之
ピアノ:イーヴォ・ポゴレリッチ
コンサートマスター:林悠介

 

最初に白状しておくが、筆者は上岡敏之の熱心な聴き手ではない。いつのことだったか、ヴッパタール響と来日した際に聴いたブルックナーの交響曲第7番ではそのあまりに遅いテンポと特異な表現に戸惑い、 あるいは新日本フィルの音楽監督時代に接したマーラーやオルフなども、独特なのは分かるがその狙いがいまいち分からない。以後上岡を追うのはほとんど止めていたのだけれど、巷間言われる「上岡敏之と読響の相性は抜群」との言葉が気にはなっていた。そんな折のこのコンサートだ。前半にポゴレリッチと共演してのショパンの協奏曲第2番(しかしポゴレリッチを上岡にぶつけるなんぞ誰が考えたのか、毒をもって毒を制す?)、後半はショスタコーヴィチの『1905年』。とんでもない地獄絵巻に付き合わされるのは覚悟の上、はまれば異次元の凄演が展開されるであろうことは想像がつく。怖いもの見たさに恐る恐るサントリーホールに向かうしかない。

開演前にステージ上で普段着のままポロンポロンとピアノを爪弾くのはリサイタル時のポゴレリッチおなじみの「儀式」、協奏曲を演奏する際にもそうなのかとホールに入るなり面食らったが、それはともかくショパンの協奏曲第2番は想像した通りの独特の、しかし楽曲の思いもよらぬ美しさを引き出した非常な名演、これには驚いた。この作品にしては大きな編成のオケから上岡は迫力がありながらも極めて繊細な響きを引き出す。フレージングが独特の箇所も散見されるがそれも違和感がない。そしてポゴレリッチのピアノだ。高音の硬質な煌めきは依然として健在、そしてずっしりとした量感がありながらも非常にクリアで透けて見えるかのような和音。この演奏では特に第2楽章が出色であり、ショパンが愛する女性コンスタンツィア・グワドコフスカを想いながら書いたこの楽章、その演奏は直截なパッションの発露はない代わりにきわめて超俗的な雰囲気を醸し出す。このショパン若書きのセンチメンタルな作品の内実以上のものを引き出しているが、しかしその美しさは尋常ではない。特に中間部、上岡が弦楽器から引き出すニュアンスに富んだトレモロの上を滑るポゴレリッチのデリケートなピアノ。ここまでじっくりと入念な演奏も稀だろう。終楽章は想定外の軽やかさを聴かせ、それは爽やかですらあった。始まる前には一体どうなることかと危惧(!)していた全体の演奏時間、標準的なものよりは遅かったにせよ通常の範囲内である。終演後は喝采に応えて第2楽章がアンコールされたが―どうやらその場でのポゴレリッチのリクエストにより急遽決まったようだ―、これが本編の演奏にも増してしっとりとした情感を湛えており大変に素晴らしいものであった。

周知の通り、ポゴレリッチは精神的な不調からしばらく演奏活動を退いていた時期があるが、復帰してからしばらくの間、その演奏は異様としか形容できないものへと変貌してしまっていた。しかし、今のポゴレリッチはかつてのマニエリスティックな面白さと共に言葉の真の意味での円熟の境地に到達しているようであり、この日の協奏曲の演奏からはそれがまざまざと伝わってきたのであった。上岡のサポートも抜群であり、他の指揮者だったらここまで上手く行ったかどうか。明らかに2人は共振した。

後半のショスタコーヴィチではいよいよ上岡の妖気が炸裂だ。第1楽章の「宮殿前広場」では極めて遅いテンポを取り、弦楽器の音量も抑制させることでどの演奏からも感じ取れる「嵐の前の静けさ」とでも形容できる異様な空気感がさらに何倍にも強調される。そんな上岡の要求に万全に応える読響の底力にも驚かされるが、他のオケなら技術的な破綻やらそれに由来する緊張感の途切れなどが起きる可能性大であろう。続く第2楽章「1月9日」では想像通り―いや、想像をはるかに超えるような中間部の一斉射撃〜虐殺の箇所の阿鼻叫喚ぶりは凄まじく、もはやリミッターを超えているのではないか。明らかに上岡の精神は「あちら側」に持って行かれている。筆者は実演で『1905年』をそれなりの回数聴いているが、ここまで凄絶な演奏はない。そして続く第3楽章「永遠の記憶」。ここも冒頭から繰り返されるヴィオラによる革命歌「同志は倒れぬ」を異様に遅いテンポと抑えた音量、かつ抑揚も控えめにすることによりその絶対零度の暗さが嫌でも際立つ。上岡は完全に作品の精神世界にシンクロしている(それは指揮ぶりからも嫌というほど伝わってくる)。中間部の狂おしい高潮もただごとではない。終楽章の「警鐘」ではコーダ手前のバスクラリネットの乱舞以降の禍々しさが常軌を逸している。コーダは言わずもがなだ。上岡敏之はただでさえ禍々しい(この形容詞をまた用いるが)本作の考えうる最も禍々しい演奏を展開した。作品の精神世界と完全に同一化しなければ成し得ない演奏だろう。これを例えばブレヒト的な視点で再現したとして何の意味があるのか。そう断言させるほどの力がある(むろんさまざまなアプローチはあって然るべきだが)。上岡のケレン味はここではケレンとならずに作品の本質を再現することにのみ奉仕している。はまった時の上岡敏之のすごさがようやく分かった次第だ。ちなみに終演後の上岡はひどく消耗しているように見えた。当然ではないか、ずっとこんな演奏をしていたら身が持たなかろうが、しかし聴き手はそれを望んでもいる。誠に勝手なものだ。

(2025/2/15)

—————————————
〈Program〉
CHOPIN:Piano Concerto No.2 in F minor,op.21
※Encore
CHOPIN:Piano Concerto No.2 in F minor,op.21〜2nd movement
SHOSTAKOVICH:Symphony No.11 in G minor,op.103“1905”

〈Player〉
Yomiuri Nippon Symphony Orchestra
Conductor:TOSHIYUKI KAMIOKA
Piano:IVO POGORELICH
Concertmaster:YUSUKE HAYASHI