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パトリツィア・コパチンスカヤ(ヴァイオリン)&カメラータ・ベルン I|秋元陽平

パトリツィア・コパチンスカヤ(ヴァイオリン)&カメラータ・ベルン I
Patricia Kopatchinskaja(vn) & Camerata Bern 1

2024年12月7日 トッパンホール
2024/12/7  Toppan Hall
Reviewed by 秋元陽平 (Yohei Akimoto)
Photos by 大窪道治/写真提供:トッパンホール

<キャスト>        →Foreign Languages
パトリツィア・コパチンスカヤ(ヴァイオリン)
カメラータ・ベルン

<曲目>
ネルミガー(ヴィアンチコ編):死の舞踏
作曲者不詳(コパチンスカヤ編):ビザンティン聖歌 詩篇140篇
シューベルト:弦楽四重奏曲第14番 ニ短調 D810《死と乙女》第1楽章*
シューベルト(ヴィアンチコ編):死と乙女 D531
シューベルト:弦楽四重奏曲第14番 ニ短調 D810《死と乙女》第2楽章*
ジェズアルド:《マドリガーレ集第6巻》より〈わたしは死ぬ、わたしの悲運ゆえに〉
シューベルト:弦楽四重奏曲第14番 ニ短調 D810《死と乙女》第3楽章*
クルターク:リガトゥーラ―フランセス=マリーへのメッセージ(答えのない問いかけへの答え)Op.31b
クルターク:《カフカ断章》Op.24より〈休みなく〉
シューベルト:弦楽四重奏曲第14番 ニ短調 D810《死と乙女》第4楽章*
(ヴァイオリン独奏と弦楽オケのために、コパチンスカヤ自らが編曲した《死と乙女》*に、16世紀から現代にわたる様々な作品を各楽章間に挿入してのライヴ・パフォーマンス)

 

このコンサートで試みられていたのはまず音楽と死の文化史のつながりの問い直しであり、同時に油断すれば文化史のうえに間断なく降り積もってゆく黴を焼き払う、烈火のごとき音楽の「いま、ここhic et nunc」の開放でもある。アナール学派の泰斗フィリップ・アリエスは『死を前にした人間』において、19世紀初頭において<死>は苦しみから解放され、現世において失われた親密な人々との暖かな絆が回復される場所として、「麻酔性の心地よさdouceur narcotique」を伴うものとしてしばしば夢見られたことを指摘する。しかし、この時代を生きたシューベルトが仮に『死と乙女』のうちに幾ばくかそのような静寂と安らぎをひそませたとしても、コパチンスカヤはこの——あえて古くさい言い方を択ぶなら——プチ・ブルジョワ的夢想への安住を許さない。『死と乙女』の主題系に潜んでいる、そしてそもそもシューベルト自身にもまったく無縁ではないもうひとつの側面、つまり、恐怖と哄笑うずまく死のカーニヴァル的側面を、連綿と続く系列の発端にあたる中世まで遡って射貫くのだ。

この演奏会で上演される<死>は、死一般をただ抽象化したものではない。非常灯まで落とした暗闇のなかで、鈴を震わせ、奇声を上げ、足を踏み鳴らしながら奏者全員が入場する『死の舞踏』のお祭り騒ぎはペストの猛威にその起源を持つし、シューベルトは梅毒ないしその治療によっておのれの命脈が尽きようとするのを感じながらD.810にとりかかった。つまりその端緒をひらくのは病なのだ。病を得て死ぬ人は偶然によって選ばれ、怨むべき相手を見いだせないことを嘆く(「わたしは死ぬ、わたしの悲運ゆえに」)。さらに、ほぼ同様の特徴を持つ事故死と異なり、病人は多くの場合、死の瞬間が訪れるまで心の内で自らの置かれた運命に抵抗し続ける。出来ることなら死に服従し、夢うつつのうちにまどろんでしまいたい、だが死は穏やかな相貌をして近づいて、油断した病人を道化師のように嗤う——シューベルトの音楽は、カメラータ・ベルンとコパチンスカヤによって、こうした一種異様な緊張の中に置きなおされる。ヴィアンチコ編の『死と乙女』におけるコパチンスカヤ自身の誇張的な歌唱は、原テクストに漂う死の誘惑を、このような不意打ちの恐怖によって上書きするようだ。

また自身が歌わないときでさえ、彼女の奏でる音楽には無数の——そして無名の——声が響いている。ビザンティン聖歌をなぞる独奏の、線の細い掠れた響きのうちには、『死の舞踏』のお祭り騒ぎが終わって剥き出しになる死の孤独に怯える人の祈り声が、自ら編曲したD810第二楽章のオブリガートの高弦のざわめきのうちには、哄笑する悪魔とも導きの天使ともつかぬ囁き声が聞き取られる。弦楽四重奏から弦楽合奏への形態変更はそれ自体、複数の奏者が同一のパートを担当することによって音像に膨らみを与え、この匿名のざわめきを具現化しているようだ。クルタークによる『リガトゥーラ―フランセス=マリーへのメッセージ』はひびわれた声の複数性をコンサート全編を通じて最も強力に推し進めた音楽で、唐突な『カフカ断章』のよろめきを媒介に、シューベルトのタランテラの両義的な陽気さに、不気味な影をあらかじめ投げかけるようだった。

それにしても、コパチンスカヤという芸術家を説明するのに、超絶技巧と繊細なアンサンブル、そして奔放奇抜な身体表現の三位一体となった鬼才ヴァイオリニストという、たとえばグラン・マカーブルのパフォーマンスや、度肝を抜くリゲティvn協奏曲のカデンツァの実演などを通じて日本においても一般(?)聴衆にすらある程度膾炙したであろうイメージだけではいよいよ不足であるようだ。既にセント・ポール室内管との録音によって世界に知れ渡ったこのシューベルトの異化プログラムが証立てるのは、解釈者としての歴史的視野の広さと、そして歴史的解釈をふたたび鉄火場へ引き摺り出す実演者としての手腕という、ふつう別々の人間によって担われるはずの二つの能力が彼女の内で両立しているということだ。脱帽するほかない。

(2025/1/15)

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<Cast>
Patricia Kopatchinskaja, vn
Camerata Bern

<Program>
Augustus Nörmiger(arr. Wiancko): Toden Tanz
Anonymous (arr. Kopatchinskaja): Byzantine chant on Psalm 140
Schubert(arr. Kopatchinskaja): String Quartet No.14 in D minor D810 “Der Tod und das Mädchen”, I Allegro
Schubert(arr. Wiancko): Der Tod und das Mädchen D531
Schubert(arr. Kopatchinskaja): String Quartet No.14 in D minor D810 “Der Tod und das Mädchen”, II Andante con moto
Carlo Gesualdo: ‘Moro, lasso, al mio duolo’ from “Madrigali a 5, Libro 6”
Schubert(arr. Kopatchinskaja): String Quartet No.14 in D minor D810 “Der Tod und das Mädchen”, III Scherzo, Allegro molto
Kurtág: Ligatura-Message to Frances-Marie (The Answered Unanswered Question) Op.31b
Kurtág: ‘Ruhelos’ form “Kafka-Fragmente” Op.24
Schubert(arr. Kopatchinskaja): String Quartet No.14 in D minor D810 “Der Tod und das Mädchen”, IV Presto