五線紙のパンセ|記譜と作曲――視えるものと視えないもの、聴こえるものと聴こえないもの|桑原 ゆう
記譜と作曲――視えるものと視えないもの、聴こえるものと聴こえないもの
桑原 ゆう(Yu Kuwabara):Guest
2024年も音楽が生まれ出づる多くの現場に関わらせていただいたが、とりわけ肝要だったのは、先月の寄稿にしたためた初作品集CDのリリースと、それにともなう記念企画であった。記念企画は、京都と東京の2箇所でまったく異なる内容の併催とし、「淡座リサイタルシリーズ Vol.3」と冠しておこなった。
ところで、淡座(あわいざ)とは、ヴァイオリンの三瀬俊吾、チェロの竹本聖子、唄・三味線・胡弓の本條秀慈郎、そして、作曲・編曲を担当する私の4名からなるクリエイショングループである。屋号が示すように、私自身の創作活動におけるモットーが、グループのコンセプトにそのまま反映されている。音と言葉、伝統と現代の「あわい」を探究しながら、洋の東西もない人間の本質や普遍性について思考し、音楽を通して人びとにこの世の物事について問いかけ、新しい気づきをもたらす表現を追求しようと結成された。そのうえで、三味線が象徴する江戸の文化からまなぶことにこだわり、活動をつづけている。じつは本年、結成15周年をむかえる。
サブカルチャーに熱い視線が集まる文化的状況なので、古くさい活動をしているように思われているかもしれないが、洋楽器と邦楽器とが音楽性を共有し、ともに演奏することに関して、ほかでは見られない成果をあげていると自負している。西洋音楽とは質のちがう、邦楽の音や音楽に対する思想、間合い、リズム感、音程感などを、西洋音楽の側から解釈せず、向こうの領域に出向いていってまなび、それに依って得たものを用いながら、洋楽器としてどう反応し、どう同調するか、もしくは、どのようにぶつかって化学反応を起こすか、あるいは、どう共生するか。また、古今亭志ん輔師匠の落語のカタリや本條秀太郎先生のウタに対して、音がどのように斬り込み、合いの手を入れ、言葉と音楽とが相互に働きかける新たな場を見い出せるか。そういうことを、この15年、ずっと試行錯誤してきた。淡座の演奏家たちと培ってきたものが、私の創作全体にそのまま還元されているので、たとえば、尺八、三味線、オーケストラのための《葉落月の段》 を聴けば、長年の探究からたどり着いた現在の地点を感じとっていただけるだろうと思う。
淡座は現在のところ、新春の「事始め」、夏の「川開き」、「江戸×現代音楽」をテーマとする「本公演」の3つの主催公演を軸に年間スケジュールをたてており、それらをふくめ年間4〜8企画に出演している。番外として「リサイタルシリーズ」を始めたのは2019年のことで、そのVol.1は、東京オペラシティリサイタルホールで開催した、私の個展だった。淡座のレパートリーは東西の古典曲と私の作品とが基本で、古典曲を演奏するときもほとんどの場合は私が編曲する(編成の都合、せざるを得ないともいえる)ため、じつのところ、毎回の主催公演が私の個展みたいなものではあるが、「個展」とはっきり掲げたのはこのときが初めてだった。奇しくも、その5年後に作品集CDをリリースし、記念企画をすることになった。気が早いかもしれないが、5年後の2029年にはきっとまた、なにか大きなことをしなければならないのだろう。
淡座についてはまだまだ書き足りないが、それはさておき、作品集CDリリース記念企画で目指したのは、京都篇と東京篇とを併せて、作曲家としてのこれまでの営みを、多角的、包括的に振り返る機会となるよう提示することだった。結局のところ、作曲とは「人となり」だ。とくに私の創作はすべてが連関している。自身の内部にどこまでも深い壺があって、なかには日々の思考が発酵しどろどろになったのが、マグマのように煮えたぎっている。どの作品のアイデアも、それに手を突っ込んで引っ張り出してくるところから始まる。つまり、ひとつの母体から生まれる。掴み出したものを眺める角度を変えればべつのアイデアになり、前作品に取り組む過程で新しく湧いて出た課題や、やり切れなかったことに、次の作品で取り組む場合も多々ある。そういうわけで、ひとつの作品だけでひとりの作曲家の音楽を、こうと決めつけてほしくない。長期的に創作全体を見てもらいたいと、常々考えている。
京都篇「桑原ゆう個展『音の声、声の音』」は、「記譜と作曲」をテーマとし、全7日間の楽譜の展示個展と、3日間全7回のイベントとで構成した。一方、東京篇「言祝会(ことほぎえ)」は、「言論と作曲」をテーマとし、結果的に3時間半にわたる公演となった。「言論」は、「話し言葉」と「書き言葉」の両方のしかたで示すことを意図した。「話し言葉」と「書き言葉」とは性質のちがうものだからだ。いかにすみずみまで意識を張り巡らせて「言祝会」を演出したかについては、また来月書きたいと思う。
桑原ゆう個展「音の声、声の音」は、2024年10月26日から11月4日まで、京都は祇園にほど近い、月見町にある半地下の小さなスペース「monade contemporary|単子現代」 にて開催した。思想と哲学をベースにアートを展開するスペースなので、私の音楽にとって居心地がよい。休廊日もあったので、実際に開廊したのは先述のように7日間であった。「演奏会」という意味の「個展」ではなく(作曲家が催すなら、こちらの意味のほうが一般的だ)、まさしく展示の個展。楽譜を描画として美術的観点から捉える、作曲家としてはめずらしい試みだったと思う。
楽譜とは一般的に音楽家があつかうものなので、それを美術として問うことは、スペースのディレクターにとっては挑戦だったという。たとえば、アール・ブラウン、ジョン・ケージ、モートン・フェルドマン、クリスチャン・ウォルフなどによって生まれた楽譜や、いまも主に実験音楽というフィールドで用いられる図形楽譜などには、「視る」アプローチが元来含まれ、想定されているだろうと思う。しかしながら、私の楽譜はもっと純粋に「楽譜」なのである。私の楽譜が要求する視覚とは「読む」、もしくは「聴く」ためのもので、ほぼ100パーセント、演奏家に宛てている。そういう楽譜が、ただ「視ること」に耐えうるのか。そういう楽譜上の音符や記号は、楽譜を理解しない眼で、ただの線や点として強制的に先祖返りさせられても、何かを伝える力を持つのだろうか。
ところで、私は楽譜をつくることこそが作曲家の仕事の基軸だと考えている。楽譜というものについての自らの態度は、展示に向けたステイトメントとして書いた小随筆がこちらに掲載されているので参照されたいが、要約すると、作曲家にとっての楽譜には2つの側面があると考えている。
ひとつには、作曲をするための「道具」、あるいは「前提」にあたるものである。とくに、私は作曲すること自体が思考の手段であるので、この側面が楽曲の内容に直に作用するため、重要である。作品や編成がちがえば、用いるべき記譜のフォーマットが異なる。記譜のフォーマットを検討し、発明するところから作曲が始まる。いわゆる五線譜で書く場合も、当たり前のように、または、惰性でそうするのではなく、五線譜が必要だから「選びとる」。「道具」や「前提」が、思考のしかたや道筋や、その積み重ねで育まれる音楽の土壌となる。
もう一方は、楽譜は作曲者のところに留まるわけではなく、演奏者に渡るメディアであり、媒介者であるという側面だ。それを意識して第三者に伝わるように書くのと、自分だけにわかるように書くのとではまるでちがう。演奏者に伝わるように書くのは、その専門家である浄書屋さんに任せればいいという作曲家も、なかにはいるかもしれない。が、私は演奏者に伝わるように書くのも、作曲家の仕事のうちだと信じている。そのような作業をとおして、音楽自体が磨かれていき、真に「決定されていく」ことを、経験上知っているからである。作曲とは「決める」行為である。
「楽譜を書く」ことについても、2つの側面がある。ひとつにはもちろん、演奏に必要な情報をできるだけ「正確に」――といってもさまざまな意図やレベルがあるが、私自身はほとんどの場合、内部で聴こえている音楽とできるだけ差異がないよう演奏されるのが「正確に」とイコールなので、そうなるように、書けるだけの情報を書き入れる。
もう一方の「楽譜を書く」ことに「譜づら」を整える側面がある。ステイトメントでも述べたが、楽譜には「顔」があり、よい面構えの楽譜は、微妙なニュアンスや質感など、書かれている以上の情報を、作曲者の代わりに語ってくれる。「譜づら」については、こちらの随筆[「譜づら」というもの — 小林秀雄に学ぶ塾 同人誌「好・信・楽」2021年夏号掲載]に精しく書いたので参照されたい。「譜づら」とはつまり、楽譜の意匠なるものである。じつは、書き込まれた見える情報より、意匠なるものの見えない情報のほうが、音楽を伝えているのではないか。「譜づら」の精度は、演奏家が楽譜から受け取った音楽の精度と比例しているはずで、そのコントロールも作曲家の筆力のうちだ。
楽譜を成り立たせている幾らかの「譜づら」の部分は、「視ること」を知っていれば、音楽家でなくとも、おそらく視てとれるはずだ。おのおのの点と線とがどう書き分けられているか、どのような質と指向性とを託されているか。点と線がつながり、集まり、重なり合ってどのような流れをもたらすか。1ページ1ページにそれらがどうデザインされているか。デザインされた模様の動きや蠢きと、白黒の色彩感、それらの結合したところに、どのような美感が生じるか。視覚によって楽譜から「聴く」ものと、聴覚によって現実に聴くものとは、どのように関係するか。楽譜展示は、このような「視ること」と「聴くこと」についての問いを投げかけるものであった。また、楽譜から視覚的に音を「聴いて」もらうために、スペースには敢えて音源を流さなかった。
それでも「楽譜が読めないから、見てもわからない」と言われたりもしたが、そういう意見はすでに織り込み済みだ。これまで、音楽家ではない演奏者たちと、楽譜を介して音楽を実現することを、何度も実践してきた。楽譜をまったく読めない役者さんが、リハーサルを重ねるなか、「譜づら」を捉える力で難解な楽譜を追えるようになった例もある。それらの経験から、「譜づら」は演奏家でなくとも視えると信じている。「楽譜が読めないから、見てもわからない」のではなく、そもそも「視ること」と「聴くこと」が如何にむずかしいか、である。
展示には、三種類のしかたを組み合わせた。設計してくださったのは、デザイナーの細野一三さんである。細野さんは、2008年ごろからずっと私の音楽を追いかけつづけ、おそらく最も多くの作品を生で聴いてくださっている方だ。私の作品の音楽性と言語性とを、シンプル且つ効果的に伝える展示方法を考えてくださった。
メインは、戸口を入って右手の壁に展示した、厚口和紙による大型短冊ポスターであった。ポスター1枚につき1作品、楽曲全体からひとつながりの5ページまたは7ページを抜粋し、ページ順にポスターの上から下へと配置し、印刷した。もともと縦向きで楽譜を制作している作品は5ページ、横向きの楽譜を用いる作品は7ページで、500mm×2000mmにちょうどぴったりおさまっている。楽譜の各ページは、私が制作したままの大きさでなく、120パーセントに拡大してデザインされた。ポスター1枚にひとつの裸電球、いわば、音楽の「いのち」が灯され、生命体のようにそこに「在る」ように見せた。丈のあるポスターなので、最上部と最下部は若干視にくく、灯りがあたるところとあたらないところでも見え方がちがうが、それでよかった。どこをどう視るか、視るひとに託す部分があっていい。
どの楽譜のどのページを展示するかは、最終的な判断を細野さんに委ねた。作品の選択については、記譜のフォーマットと楽曲の内容をもとに6つのカテゴリーに種類分けしておき、各カテゴリーから1曲をピックアップしていただいた。展示するページについても、「譜づら」の特徴と音楽の内容をわかっている主観的な眼で選ぶのでなく、客観的なデザイナーの眼で、音楽的推移が捉えやすい範囲を抜粋していただいた。
入口からスクリーンへ向かって、つまり、壁を正面に見て右から左へ、声明のための2作品《螺旋曼荼羅 —風の歌・夜の歌—》、《月の光言》 、そして、箏弾き唄いのための《言とはぬ箏のうた》、つぎに、尺八・フルート・テナーリコーダーのための《三巴退吹(みつどもえおめりぶき)》、作品集に収録した《はすのうてな》、《三つの聲》の順に、6枚のポスターがならんだ。来場者は、とくに天邪鬼なひとでなければ、その順に眺めていくことになる。
上記リンク先のNoteに各作品の情報を載せ(これらのリンクは、展示リストにQRコードで掲載し、来場者に配布した)楽譜の様態も垣間見られるようにしてあるが、声明のための2作品は、古典の「博士(はかせ)」からまなんだものを活かして発明したグラフィックな記譜法を用い、手書きしている。《言とはぬ箏のうた》は、箏の本質に迫るため、縦譜で書くことを「選んだ」作品だ。五線譜で作曲してから縦譜に浄書したのでなく、最初から縦譜で作曲し、フォーマットと思考との結びつきを最も実感した経験であった。逆説的に、五線譜に備わる西洋音楽の構造は、箏本来の音楽のそれとは違う文脈のものであることを再認識した。ちなみに、楽譜はイラストレーターで一から制作した。つぎの《三巴退吹》は、五線譜とグラフィックとを組み合わせ、音の発想や勢い、色などを視覚的にも伝えようとする記譜による。これも、イラストレーターで一から作成している。《はすのうてな》は一般的な五線譜を用いた記譜で、手書きによる初版を展示した。《三つの聲》も五線を主とする、いわゆる現代曲らしい楽譜である。こちらは、フィナーレとイラストレーターの両方を用いて浄書している。手書きの楽譜とソフトで作成した楽譜とのちがいや関わりについても述べたいことは多くあるが、これはまたいつかの機会にしたい。
グラフィックにより表現された楽譜から、五線譜へ。描画的に視ることが容易いフォーマットから、より音楽の言語を重視したフォーマットへと、段階的に眺められるよう、6作品がならんでいる。音の身振りが紙面上の線の形や動きとしてどう顕れるか、音響の時間的推移が数ページにわたって視覚的にどうデザインされるかの、フォーマットごとのちがいが、右から左への変化として見てとれるはずである。
記譜フォーマットの右から左への変化、上から下への時間の推移は、日本語の読み書きの身体性に照らしたものである。物事を考えるときに、日本語を上から下へ、右から左へ読み書きする感性が基盤となっていることを感じる。同時に、五線によって記譜された楽譜を左から右に読んでいく、イコール、時間は左から右へと進んでいく感覚も私には染み付いているので、作曲をしていると、その左から右への感覚と、日本語の右から左への感覚がぶつかるのを感じるわけである。そのぶつかりから自ずとはみ出たもの、もしくは溢れ出たものが、音や音楽としてのこる。また、私が好んであつかう音には、明らかに上から下への指向性があり、思いえがく音には必ず重力がかかっている。それにさからうか、さからわないかで、得られる音の質が変わってくる。
短冊型ポスターから、スクリーンのある向こうの壁に眼をうつすと、そこには額装した《螺旋曼荼羅》の楽譜が展示されている。6つの生命体として揺らめいていたものが、ここで額縁にぎゅっと押し込められる。この形式でも面白がって視てもらえるかが、スペースのディレクターにとっては重要だったという。これは「アート作品」としてエディションを付けて、サインを入れ、販売もした。結果、決して安いものではないのに、なんと3作品もご購入いただいたので、私は「アーティスト」と名乗ってもよいそうだ。楽譜は出版されるだけでなく「アート作品」としても世に出せる可能性があり、本筋から逸れない作曲家の仕事が、そのままアート市場に介入できるという結果を得られたのだった。
スクリーンには、楽譜と、作品集のフライヤーおよび日本語ブックレットのデザインに使用するために制作した墨流し作品とを、約1時間半のスライドに編集したものを常時映写した。楽譜が拡大されて映るので、ポスターでは小さくて視にくい細部を、これで確認してもらうことができる。さらに、墨流しの抽象的な画が挿入されることで、また楽譜の見えかたが変わってくる。このスライドの編集は、どの画面を何秒映し、どの順で並べるかを、音の要素を選択、決定し、展開していくのと同じようなしかたで構成したので、私にとっては「作曲」であった。
展示と合わせて、11月1日から3日にかけて、全7回のイベントをおこなった。11月1日と2日におこなった5回のパフォーマンス・トークでは、淡座の演奏家が京都に集結し、それぞれに独奏作品を披露した。アンサンブルで演奏するスペースは確保できないとの判断で独奏となったわけだが、独奏という、最も奥行きが深い(と私が感じる)編成の演奏がすぐ目の前で繰り広げられる、濃密な時間だった。演奏後は、スペースのディレクター主導のトークと質疑応答とで、作曲家と演奏家、双方の目線から「楽譜」について解きほぐしていると、あっという間に時間が過ぎていった。議論に花が咲き、次の回がはじまるまで話しつづけることもしばしばだった。
11月3日の2回は、アーティストトークにはじまり、声明作品と作品集の音源の一部を、楽譜を追いつつ耳を傾ける試聴会とした。直前まで「視ていた」楽譜が、演奏によって如何に現実の音楽となりえるかを追体験し、楽譜から視覚的に「聴いた」ものと実際に聴こえるものとの隔たりを埋める機会となった。これら全7回のイベントすべてに参加してくださった方もいた。
全7日間の展示期間中、私は5日間在廊した。さまざまな分野に属する人びとが入れ替わり立ち替わりおとずれ、楽譜や作品についての多くのやりとりが交わされた。コンサートや公演のようなある種刹那的なイベントとはちがう醍醐味を感じる、これまでにない5日間だった。6つの生命体を宿したスペース全体が渦巻き、日ごとに成長して、巣のようになっていった。
(2025/01/15)
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桑原 ゆう(くわばら・ゆう)Yu KUWABARA
日本の音と言葉を源流から探り、文化の古今と東西をつなぐことを軸に創作を展開する作曲家。第31回芥川也寸志サントリー作曲賞(旧名:芥川作曲賞)受賞。英国音楽レビューサイトBachtrackにて「2023年注目の女性作曲家8人」に選出。2024年、ウィーンの現代曲レーベルKAIROSより初の作品集アルバムをリリース。国立劇場、静岡音楽館AOI、神奈川県立音楽堂、横浜みなとみらいホール、箕面市立メイプルホール、ルツェルン音楽祭、ワルシャワの秋、アハト・ブリュッケン(ケルン)、ZeitRäume(バーゼル)、Transit 20·21(ルーヴェン)、I&I Foundation(チューリヒ)等、国内外で多くの委嘱を受け、世界各地の音楽祭や企画で作品が取り上げられている。東京藝術大学および同大学大学院修了。楽譜はEdition Gravis、Edition Wunn(共にドイツ)より出版。「淡座」メンバー。現在、国立音楽大学、洗足学園音楽大学非常勤講師。
https://3shimai.com/yu/
淡座リサイタルシリーズ Vol.3 作品集CDリリース記念 特設ページ
monade contemporary | 単子現代:桑原ゆう個展 音の声、声の音 | Yu Kuwabara Solo Exhibition Sounded Voice, Voiced Sound
淡座は、1月21日(火)に本年の「事始め」を開催します: 淡座事始め二〇二五