Menu

Books|三月一一日のシューベルト|藤原聡

Books|三月一一日のシューベルト
音楽批評の試み
舩木篤也 著

2024年12月31日刊
音楽之友社
定価2,600円+税

Text by 藤原聡(Satoshi Fujiwara)

舩木篤也氏の文章を最初に読んだのはいつのことだったか。はっきりと覚えているはずもないが、内容はギュンター・ヴァントに関するものだったように思う。一切の曖昧さを排除し、楽曲のフォルムをあくまで明晰に立ち上がらせんとするこの指揮者のモダニズム。その明快さと構造への意志が究極まで突き詰められた時、音楽は逆説的にヴァント、あるいはブルックナーならブルックナーという個体に属する次元ではなく、匿名性あるいは普遍性をおびたものへと変貌する。それは個性的というようなものではない。世界の真理がむき出しになって現前する。

本稿の評者は舩木氏の文章にヴァントといくらか同質のものをみる。印象ではなく専門性にのっとった具体的でロジカルな記述による批評性。だが、舩木氏を舩木氏たらしめているのはその豊富な知識にもとづく確かな見識、認識が思いもよらぬ連想や一見異なる対象間の鋭い直感による関連性を浮かび上がらせ、より大きな「世界の本質」を可視化させる点だ(過程は違えどこれもヴァントと同じではないか)。それゆえ、その文章はつねに驚きと発見に満ちたものとなる。このたびの舩木氏の新刊『三月一一日のシューベルト 音楽批評の試み』はかつて『レコード芸術』に22回にわたって連載した「コントラプンクテ 音楽の日月」の全部を大幅に書き改めて1冊の本としたもの。既に四半世紀の批評活動を展開されている舩木氏の初の単著とは意外な気もするが、22項目の短か目、しかし濃密な評文それぞれの冒頭にはタイトル、そして取り上げる音楽家、そこに併記される形で「コントラプンクト」(対位法)的に音楽あるいは音楽外の人物名が記載され、そこから舩木氏の思索が広がる(ちなみに書名は11章の同名の評文に由来)。

すべてこれ唸らされる文章だが、評者がとりわけ膝を打ったのは「3 シュプレッヒゲザングの人 若尾文子讃 アルノルト・シェーンベルク(一八七四〜一九五一)×若尾文子(一九三三〜)」、そして「16 川上未映子のワーグナー 《パルジファル》としての『ヘブン』 川上未映子(一九七六〜)×リヒャルト・ワーグナー(一八一三〜一八八三)」。前者で舩木氏は書く、「あの声が、《ピエロ》の理想的シュプレッヒゲザングを思い描く際の、ひとつのよすがとならないか。」―なるほど、若尾文子のあの独特の発声―いわゆる「美声」ではなく少しくぐもって暗めの、そして時に舌足らず気味の―には評者もいくつもの映画作品でかなり馴染んでいたつもりだが、それを《ピエロ》と結びつけるなど想像すらしない。しかし、そう結論づける舩木氏の指摘はなるほど筋道が通っていて納得するしかない。あるいは後者。川上未映子の『ヘヴン』は主人公2人が直面するまったく救いのない陰惨な苛めが最終的に魂の救済(いや、結末は多義的で単純ではないが)に転じる構成をもつ曰く言いがたい傑作だが、その作中の登場人物「コジマ」、ある程度クラシック音楽に素養のある人なら他の登場人物は普通の漢字なのになぜ彼女だけが片仮名で「コジマ」なのか、リストの娘でワーグナーの妻となったあのコジマへのなんらかの目配せなのか、とは思うことだろう。そして、舩木氏はそこからハタと気づく、「この小説はワーグナーの楽劇の一つの解釈、いわば「演出」として読むことができるのではないか、と。対象は、ずばり、舞台神聖祝祭劇《パルジファル》。」

全22章がこういう連想〜指摘に満ちているので、読者は目から鱗を落としまくるしかなくなる。ところで舩木氏はあとがきにこう記す、少し長いが引く。

「きょうび、音楽評論の多くは、もっぱら音楽のことだけを言っているように見える。聴き手として、音楽になにか切実なものを感じるとき、それはこの社会、この時代、あるいは私という個人の経験や歴史がそこに関係するからこそ、そう感じているはずだ。その関係を、交差を、もっと語り、もっと論じてもよいのではないか。逸脱を恐れず、赤裸々に、ただし批評家としてよく吟味し、正確を期しながら。」

―その最良の実践が本書に結実している。クラシック音楽やアート全般、批評について関心のある方/考察を深めたい方は必読と言っておく。なお、本書にはヴァントについての章も1つある。

(2025/1/15)