特別寄稿|追悼文 安倍オーペル節子(1933-2021) ― 熊本からドイツ・バート・ゾーデンへ 演奏、通訳、文化仲介者としての生涯(1)|デトレフ・シャウヴェッカー
追悼文
安倍オーペル節子(1933-2021) ― 熊本からドイツ・バート・ゾーデンへ
演奏、通訳、文化仲介者としての生涯(1)
In Memory of Abe-Opel Setsuko (1933-2021). From Kumamoto to Bad Soden (Germany) ―
A Life as a Singer, Interpreter und Cultural Mediator
Text by デトレフ・ シャウヴェッカー(Detlev Schauwecker):Guest
始めに
19世紀後半に日本がクラシック音楽に親しむようになってから、次の世紀には早々にヨーロッパ人もその熟達を知るようになり、遠い国から来た才能ある演奏者が繰り返し話題になった。オペラ歌手の三浦環(1884-1946)、田中道子(1909-1988)、ヴァイオリニストの諏訪根自子(1920-2012)、あるいは指揮者の近衛秀麿(1898-1973)など。これらの一流演奏家たちは殆どが才能ある若者たちが成功への道を開く事のできるコネと富を持つ上流階級の出身者であり一般庶民には簡単に入れない世界であった。
第二次世界大戦後から今日に至るまで、日本の音楽大学を卒業後、西洋の音楽大学で学ぶ若者が増えた。ドイツ系の音楽教育の影響がまだ続いていて、ドイツ語圏の音楽大学への留学も珍しくない。その中には、親の庇護から離れて、夢を見ていた西洋音楽界で足場を固めることに成功した女性が少なくなく、中には大きな舞台に立つ者もいた。しかし大多数は小さなステージでの演奏者またはオーケストラのメンバー、音楽学校の教師、音大マスタークラス発表専属のピアノ伴奏者、またはバレエ学校のピアニストや教会の音楽担当(カントール)の仕事についていた。
安倍節子、のちのオーペル(Opel)節子の素晴らしい功績は、音大卒業も金銭的援助もなく、若くしてドイツの音楽界に飛び込み、それ以降、老後まで声楽家や声楽教育者の道を多少なりとも歩み続けたことにある。結婚していた二人の夫は経済的な安定を与えてくれなかったので生計を立てることが彼女の生活に伴っていた。日本からの旅行団体のガイドに加えて国際見本市や会議などに通訳として勤めた。節子の二人の夫は音楽の才能に恵まれていた。一人はピアノで彼女の伴奏をし、もう一人はオーケストラを指揮し、彼女の歌をピアノやオーケストラでも伴奏した。はじめはF.シューベルト、R.シューマン、山田耕筰などがコンサートプログラムによく登場し、後にオーケストラのステージでもJ.シュトラウスやF.レハールが加わってきたが、いずれの時期にも日本の歌を組み入れた。夫婦の間に音楽の話題がよく交わされたと考えられる。老後、未亡人になった彼女は倹約的な生活を余儀なくされたが、子供から大人までの生徒に愛されていた。「節子先生」は歌の訓練の明確な発想を持つ精力的な教師として尊敬され、また彼女自身の経験を通して、困難や危機に直面した生徒を助け、そして自分自身に子供がいなかったせいか、子供たちを愛していた。
節子は、音楽に加えて、日本の文化に係わるものを周囲のドイツ人に紹介した。特に老後になって独日姉妹都市交流の顧問としての貢献が大きかった。同じように、彼女は逆に日本人の団体にホームコンサートなどのドイツの風習を紹介していた。この交流の話題は節子に限らない。若い頃に日本から音楽留学の目的でドイツや好きな国に行って住み着いてしまった彼女らの多くは、音楽活動を超えて、近所の人、女性のグループや市民講座などに、自国の文化を紹介したのだ。日本出身の女性音楽家達によるこの異文化交流は今でも大きいと思う。
節子についてのエピソード
以下はオーペル節子の人生の主なステップを述べるが、その情報は彼女の遺品(バート・ゾーデン市の市立資料館で閲覧できる)と彼女の知人達の口述に基づくものである。その情報をまとめて提供してくださったフランクフルト在住のDr. マーティン・レップ氏とその妻、雅代さんに感謝をする。雅代さんはオーペルさんの生徒の一人であった。Dr.レップさんはバート・ゾーデナー・ツァイトゥング紙にも追悼文を寄せられた。(Bad Sodener Zeitung, 2021年3月31日付)。
まずは節子の幼少期からドイツに渡るまでの青春時代を紹介する。
熊本 1933-1952
節子は、1933年2月28日に九州の大分県南西部にある竹田市で生まれた。数年後、この地域の文化の中心の一つである熊本市に移り、そこで子供時代を過ごすことになる。彼女の父親、良介は東京出身、化学が専門で、鉱山企業を経営していた。節子に姉がいた。四人家族が、美しい熊本城から遠くないところに住んでいた。
節子は十歳のときに母親を亡くした。父親は愛情をもって娘の面倒を見た。十三歳のときにピアノの個人レッスンを受けるように手配したりもした。しかし、彼も節子が十六歳のときに亡くなった。彼女が一学年を留年したことは、父親の死に関連していたと思われる。
彼女は勇気のある女の子であった。校庭にあった長い鉄の棒の上をバランスをとって歩いたのを先生に見られて「女の子にはダメだ」と怒られたりした時代であった。情熱的にピアノを弾く彼女に、クラスメートは「ベートーベン」のあだ名を付けた。数年後、彼女の性格を叔母が手紙の中で「頑固」、知り合いであったハンス・エッカート(後述)が「とてもエネルギッシュ」と特徴づけたがこの特徴は既に高校時代のあだ名に反映されたかのようだ。いきいきとした時期のようだったらしい。両親を亡くした後、早くから自立して成長するが、それが後の毅然として自分の道を選ぶ事につながったのであろうか。
その上、地元肥後地方の娘たちは強いという謂れがある:「肥後の猛婦」と。
彼女にピアノを教えた学校の音楽教師は一年後に歌の稽古も勧めた。数年後、ドイツで彼女の声楽指導教授になったパウル・ローマンPaul Lohmann(1894~1981、以下参照)は彼女が非常に高いレベルの才能を持ち、歌の練習中にとても強い集中力を持つことを手紙で表現したが、何年も前、熊本のピアノの教師も、同じような印象で、歌の練習を勧めていたのであろう。
節子に、日本に多い早期楽器教育、つまり、幼児のころにピアノを弾かせることはなかった。判断力のある十代半ばごろからピアノを弾き始めた。当時を振り返った彼女は「その後は音楽に専念する」と決心したと書いている。1951 年の高校卒業証書1)にも音楽に「非常に優れた」という評価を与えられた。「理解、歌唱、楽器」への採点の細かい区分から、日本の学校教育が音楽科目に大きな関心を払ったことが窺える。
高校卒業後はピアノと声楽の専攻で「熊本音楽学校」に通う。
しかし、父の死によって早くも経済的困難に陥り、十九歳の時に熊本を出て、姉が薬剤師として働いた神戸で、親戚七人の家に同居することになる。
神戸 1952-1955
クラシック音楽に関して近畿の三大都市に当時あった主なものとしては、三つの大きなオーケストラ(宝塚、大阪、西宮[神戸])があり、大阪音楽学校(1915年設立。現大阪音楽大学)の他に女子高等学校三校(現、大学)の音楽課程(現、音楽学部)もあった。九州から来た節子にはピアノ演奏で稼ぐには競争が相当に激しかったのではなかろうか。
1952年からヨーロッパへ出発する1955年の春までの神戸時代に、節子は「ピアノを弾くこと」で生計を立てていた。
戦争で破壊されていた神戸は、国際的でエレガントな雰囲気を当時ある程度取り戻していたであろうが、彼女はそこでバーやカフェ、あるいはホテルでピアノを弾いていたと考えられる。大きな高級ホテルではサロンで音楽をティータイムなどに提供するサービスが昔からあった。戦後の政治的な方針として、彼女の愛するベートーベンよりもモーツァルトを奏でる時期がまだ続いていたのであろうか2)。
おそらく神戸に来て2年目の時に、20歳ぐらいの彼女は声楽のレッスンのためにお金を貯めることができ、定期的に電車で片道2時間以上をかけて京都まで通った。
声楽の指導者は、京都女子大学の高名な声楽教授である上村圭(けい)(1899-1985)である。上村は戦前の東京音楽学校の卒業生であった。節子がプライベートの生徒か京都女子大学の聴講生であったかは不明である。
節子は上村を通してドイツ系音楽教育に触れていた。もう少し詳しく言えば、上村圭が卒業した声楽科の基礎は1910/20年代にノルウェー人ハンカ・ペッツォルト(旧姓シェルデラップ)(1862-1937)が作ったがハンカは主にドイツ系の声楽教育を受けていた。上村はその教育を節子に伝えたであろう。更に、熊本時代のピアノの教師が彼女の関心をドイツレパートリーに向けたことを考えると熊本から神戸・京都を経てドイツ留学がより近づいたように思われる。元々のきっかけは子供の頃姉から初めてドイツ語の言葉と歌を聞いた事であったかもしれない。
もし熊本の教師がかりに例えばイタリアのアリアに生徒の関心を向けさせたとすれば彼女はミラノなどの留学を目指していたのかも知れない。その可能性もないではなかった。
西日本では、大阪音楽学校(後大学)は既に1915年の創立からドイツ音楽中心の教育に対して多様性を強調していた。
しかし節子はドイツ音楽を選んだ。
節子が持っていた住所録から数人の名前をとりあげる:
・マンフレッド・グルリット(Manfred Gurlitt, 1890-1972)。彼は1930 年代から東京に住んでいた著名なオペラ指揮者。接触があったかは不明であるが将来の夢がオペラの舞台にも走っていたことが示唆されている。
・ヘルマン・ヴヘルプフェニヒ(Hermann Wucherpfennig,1884-1969)。彼は上野音学校の元声楽教授、退職後ドイツ・カールスルーエ市に戻っていた。上村圭はおそらくヴヘルプフェニヒの生徒もしくは知り合いで節子にその住所を教えたのであろう。ドイツで連絡をしたかどうかわからない。
・エン・ウィルウェーバー(En Willweber)。彼女は神戸在住の(当時)大手前女子短期大学のドイツ語教師であった。ドイツの印刷業者と結婚した日本人女性であった。節子が個人レッスンを取ったか聴講生であったか不明。
・ハンス・エッカート(Hans Eckardt)。彼は当時ベルリン自由大学の日本学科主任教授。日本滞在最後の年、1944/45年に神戸に住んでいたようなので知り合いを通して節子へ紹介されたのであろうか3)。
一言で言えば、節子は、歌の訓練でも言語習得でもドイツ滞在の準備でも、正式に大学に入学しないまま、ドイツ留学を計画していた。
フランクフルト 1955-1985
渡航
1955年、ドイツで歌を勉強したいという22歳の彼女は希望が叶うような求人情報を手に入れた。バート・ノイエナール市の喫茶店の主人が若い日本人女性歌手を求めるという内容であった。春の神戸港出港の前に彼女に関する記事が新聞に掲載された。大胆な旅を祝福する手紙が20通近く熊本から届いたが、遠距離の旅に発つ彼女を案ずる手紙もあった。
心配していた人が節子の演奏(歌、ピアノ)の報酬として「ドイツ留学中の宿泊費、食事代、交通費」を負担することを約束していたが、数週間続いたヨーロッパへの船旅の途中、彼がその契約の書面を書き直し、喫茶店で演奏以外、ウェイトレスとしての仕事を義務づけた。さらに音楽を学校で勉強する時期はシーズンオフの冬だけにあると。しかし、節子は見慣れない世界の中でなんとかこの危険な状況を逃れることができた。その時、高校卒業成績表で高く評価されていた英語や神戸で習ったドイツ語の知識も役に立っていたであろう。「アジアのティールーム」の主人が東アジアの獲物を狙った罠から免れたことはこの若い女性の強い自立性を裏付けるであろう。
おそらく親切な周辺の人々の助けによって、節子は数カ月後の秋、ようやくフランクフルト音楽大学にたどり着いた。援助者の一人は、上述のハンス・エッカートであった。
留学時代 1955~1959年
1955年12月、節子はフランクフルト国立音楽大学で前述のパウル・ローマンの試験を受けることができた。彼は、節子の「芸術的要件が満たされている」ので「ソロ演奏クラス」への「即時受け入れ」と判断した。節子は1956年の夏期から1958/59年の冬期まで、奨学金を得て音楽大学で学んだ。4)
ローマンは、彼女の年賀状に答えた:
楽しい366日を過ごしてください5)。努力しない日はないようにしてください。私はあなたを完全に信頼しています[…]! 勤勉、忠誠さ、冷静さ、そして目標があってこそ、才能のある人が芸術家になれるのです。
1956年にローマン先生は新たに「平均以上」の声楽能力と認めた。文章から才能のある生徒に対する先生の熱心な関心が窺える:
安倍節子さんは数か月前から私の所で声楽を勉強しています。彼女はオーディション中に特に美しい声と平均以上の音楽性と表現力を示したので、ソロクラスに受け入れました。私は、レッスン中、安倍節子さんが非常に強い集中力で勉強することができたことに気が付いて喜びました。その優れた才能と性格を備えて、素晴らしい演奏家に成長していくでしょう。
20年後、節子はフランクフルトの留学期間を履歴書の中でまとめた。
ドイツに移った後、私は1956年の夏学期から1958/59年の冬学期まで、フランクフルト・アム・マイン音楽大学のソロ演奏クラスでローマン教授の指導下勉強を続けました。大学外の他の声楽教師には、シュロスハウアー(Schlosshauer)女史(ザールブリュッケン市)とピッツィンガー(Pitzinger)女史(フランクフルト市)がいました。声楽授業に加えて、フランクフルト・アム・マイン―J.W.ゲーテ大学のウィッツサック研究所でv.ニッダ女史の指導でドイツ語とドイツ語シュプレヒクンデ(Deutsche Sprechkunde, ドイツ語話学)を学びました。
この文章から数点を取り上げよう。
・ローマンはかつても今も声楽教育学者として高く評価されている。彼の声楽論の概念として、「歌は魂の言語である」とか、または「声楽は人間教育である」などの本人の言葉で特徴づけることが多い。
後年、節子が指導した生徒たちに言った言葉で「歌う事によって人に温かい人間味を伝える」などを聞くとなんとなくローマンの言葉に近い感じがする。
・節子の話によれば、1956年の入学2年目に「ソプラノ」の発声指導の先生に合わなかったと思って変えたと。したがって、上述の2人の女史声楽教授は、その後の数年間に彼女の発声指導に当たっていたであろう。教師を変えることは長年の発声練習によくあることだ。ハンガリー出身のピッツィンガーさんとは生涯にわたる温かい友情が続くことになる。
・ドイツ語勉強についてだが1957年、彼女は夏休みの間フランクフルト大学の外国人向けのドイツ語コースに参加した。 ― そして、40年も経た後に、同じ町のゲーテインスティテュートでドイツ語を勉強しなおして、レベルの一番高い認定試験に合格した。
節子は長年の通訳の仕事からわかるように、ドイツ語を流暢に話せた。次の20年の間に夫に宛てた流れるような美しい字で書いた手紙を見ると、微妙な考えや感情がわかりやすく表現されている。文章は気楽な話しぶりに近いので実際に喋った温かい口調が響くかのようだ。言葉使いや構文にあるちょっとしたずれはドイツ語講師の眉をひそめさせるが、バイリンガルの研究者には一つの歓びであろう。ただ20年にわたって、妻が書いた応募書、履歴書、コンサートプログラムなどの下書きを夫のF.W.ニーベルが ― 国際結婚に少なくなかろう裏方で ― 適切な文章に直していたであろう。
・節子が履歴書で取り上げた「ヴィッツサック研究所での勉強について。当時、フランクフルト大学にヴァルター・ヴィッツサック(Walter Wittsack)主任教授による、「ドイツ語話法(deutsche Sprechkunde)とドイツ語を話す事の教育(deutsche Sprecherziehung)」との講座があった。節子は単に音楽のための発声や正しい発音を学ぶにかぎらず、人が話す事そのもののプロセスやその研究に関心があったことになる。
これは、彼女の数十年後の歌の教え方にも反映されると思われる。例えば生徒が歌う練習に入る前に彼女は時間をかけて歌詞をその意味が明確に表れるように流暢に話せる厳しい練習をさせた。または、彼女は2年間に渡って、吃音のある日本人音楽家にドイツ語の歌と話し方による練習を通じて、再び流暢に話せるように助けた。どちらの場合も、ヴィッツサック研究所で学習したものを生かせたに違いないであろう。
節子のコンサート活動に入る前に、最後に彼女の発声の発想に関する変化に触れたい。西洋式の発声を習った彼女は年を取ると東洋のハラ6)もしくは丹田を中心にした発声の考え方へと移った。それは、横隔膜または腹筋から歌うという西洋の生理学的概念から、生命力の中心とされる(横隔膜のすぐ下の)丹田から歌うという東洋の概念への変更だ。東洋出身の洋楽声楽家に少なくない変更と思われる。彼女の書斎に「ハラ」に関するドイツ語の記事が収集されていた。― 洋楽声楽の東洋化というのか、異文化間のパラダイム変更の興味深い話である。
(続)
1) 節子が(現)熊本市立必由館高等学校を卒業した。
2)米軍の日本占領の時点から枢軸国相手ドイツのシンボルに利用されていたベートーベンを、日本放送協会NHKの音楽番組などがモーツァルトに入れ替えた。(堀内敬三(1897-1983)による方針)
3)ついでであるが住所録にグルリット、ヴヘルプフェニヒ、エン・ウィルウェーバー、エッカートの名前が穏やかに並んでいるが、十年ほど前までのドイツナチス時代に、前者の三人と後者の一人との間に深淵があった。
・エッカートはユダヤ人差別などナチス政策を積極的に日本で行った日本学者のひとりであった。
・グルリットは日本にいる間ユダヤ人とされた差別の時期があった。(マンフレート・グルリット – Wikipedia 参照)
・ヴヘルプフェニヒはユダヤ人の結婚相手として差別された。(シャウベッカーの論文 in: Gerhard Krebs/Bernd Martin (eds.): Formierung und Fall der Achse Berlin–Tokyo. ミュンヘン: Iudicium Verlag 1994. P. 233f.参照)
・エン・ウィルウェーバーの夫ヘルベルトは神戸到着のユダ人難民を助けたりしてナチス体制の反対者であり、夫婦ともドイツ領事館から差別扱いをされた。(German life in Kobe & Shanghai 1934 -1940 | by Tom Topol (passport-collector.com)、「Nigawa 9/3/1947」の手紙)。
4)音楽科目などの詳しい情報提供は当大学の資料室から、法的理由から断られて、確認できなかった。
5) 1956 年は閏年であった。
6) ハラ Hara とはドイツでは第二次大戦戦前から日本の弓道などが注目されたごろから武道に関連する禅の用語として定着した。
(2024/12/15)
—————————
デトレフ・シャウベッカー 1941年ベルリン生まれ。近松研究で博士論文修了後、1973年来日。以降、主に欧日交流史研究、関西大学名誉教授。現在、京都府で小規模の農業のかたわら妻とドイツカフェ経営(mitokiya.com)。