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五線紙のパンセ|音の声、声の音――生の死、死の生|桑原 ゆう

音の声、声の音――生の死、死の生

桑原 ゆう(Yu Kuwabara):Guest

本年6月、ウィーンの現代曲レーベルKAIROSより、はじめての作品集「桑原ゆう:音の声、声の音(Yu Kuwabara: Sounded Voice, Voiced Sound)」をリリースした。
私は中学生のときに作曲家になると「決めた」のだったが、KAIROSはその当時から意識していたレーベルだ。ドビュッシーとラヴェルにはじまった私のクラシック音楽聴取体験とその興味は、それから過去に遡るのでなく、なぜか近代、現代と、自分が生きる時代へ向けて辿っていった。最初から現代曲、つまり、いまの芸術音楽を書く作曲家になろうとしていた。手当たり次第にCDや楽譜を収集して聴いていくと、やがて、手元に集まった資料にある傾向が見えてくる。――この作曲家もこの作曲家も、このレーベルからCDを出している――そのころは遥か遠くに感じたクラシック音楽の本拠地、憧れの欧州の現代作曲家がこぞってCDを出しているレーベルが幾つかあり、そのひとつがKAIROSだった。マットな質感の紙のカバー、オーストリアの作家によるアートワークを配したおもて表紙、その左上に作曲家の名前が印字され、左下にひとまわり小さな文字で演奏家の名前が羅列されている。潔く統一されたデザインが格好良かった。ここからCDを出せれば作曲家なのだと、中学生だった私は信じ、それが作曲家になるという夢、いや「決定事項」における、ひとつの指針となった。そういうわけで、最初の作品集はどうしてもKAIROSから出したかった。自分は作曲家であると自ら認めてあげるために必要な手続きのひとつだったと思う。

もっとも、実際の契機をくれたのは、本作品集で独奏3作品を演奏したヴァイオリニスト/ヴィオリスト、マルコ・フージ(Marco Fusi)だった。2020年、彼のためにヴィオラ・ダモーレ独奏曲《逢魔時(おうまがとき)の浪打際(なみうちぎわ)へ》を作曲した。折しもコロナ禍で、ヨーロッパも日本も、演奏会の開催がままならない状況のなか、マルコが《逢魔時の浪打際へ》を録音しておきたいと言った。すでに彼は、私の既存のヴァイオリン独奏2作品《水の声》と《唄(ばい)と陀羅尼(だらに)》も演奏していて、これらもあらためて録音しておこうと言ってくれた。そして、「アルバム、つくらないの?」と付け加えた。じつのところ、彼にそう尋ねられるまで、KAIROSから作品集を出すという中学生のころの「決定事項」なんて、とっくに滅多切りにされ、踏みにじられ、頭のなかから吹き飛んでいた。彼が当時の私の決意を呼び覚ましてくれたので、思い切って動いてみようと思えたのだった。
作品集を出すからには、桑原ゆうの音楽はこうであると、創作のど真ん中をストレートに表現し、伝えられる内容にしたかった。マルコが演奏する独奏3作品のほかはどうしようかと考えたとき、やはり邦楽器が必要だと直感した。ヴァイオリンとヴィオラ・ダモーレに三味線を対峙させ、「絃(いと)の東西」をテーマとする。それさえ決まれば、あとの選曲はすぐだった。ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロによる弦楽三重奏曲《三つの聲(こえ)》に対して、ヴィオラを三味線に替えた三重奏曲《はすのうてな》。ヴァイオリンを独奏に据えた室内協奏曲《影も溜(たま)らず》に対して、三味線を独奏とする室内協奏曲《柄と地、絵と余白、あるいは表と裏》と、ちょうど東西を象徴するように配して、8作品が決まった。総演奏時間を計算すると、ディスク1枚にはおさまりきらず、2枚組にしては少し短かったが、この8作品以外に考えられなかった。いずれかを減らすことも、ほかの曲を増やすこともできないと思えたので、2枚組で押しとおすことにした。私の作品は奏者にだけでなく、聴く人にも極度の緊張を要し、その時間と空間に入り込んで聴かないと何も得られないような音楽なので、結果的に4作品ずつ収録した2枚組でちょうどよかったと思う。

マルコとのレコーディングは、2023年5月、ゲント(ベルギー)のオルフェウス・インスティチュート[https://orpheusinstituut.be/en/news-and-events/new-publication-yu-kuwabara-sounded-voice-voiced-sound]でおこなった。エンジニアは、アコーディオン奏者でもある、ルカ・ピオヴェサン(Luca Piovesan)。ちょうど、ケルン(ドイツ)のアハト・ブリュッケン音楽祭より委嘱された独奏新作3作品の世界初演があり、コロナ禍以降はじめての渡欧がかなったので、それとタイミングを合わせた。レコーディング前日にマルコと打ち合わせをし、2日間にわたったレコーディングの翌日にブリュッセルに移ってルカと大まかに編集をするという計4日間だった。その後の細かい調整はメールのやり取りでおこなった。
《やがて、逢魔が時になろうとする》《三つの聲》《はすのうてな》の3作品は、翌6月、やはり2日間かけて東京でレコーディングをおこなった。演奏は、淡座(あわいざ)[https://awaiza.com/]のメンバー(三瀬俊吾、竹本聖子、本條秀慈郎)と、ヴィオラに山縣郁音さん。おそらく、淡座の演奏者たちはそうは意識していなかっただろうが、私はこの作品集を淡座のデビュー盤にもしたかった。(淡座については、また次の2回のどこかで書くつもりだ。)エンジニアはnagie(永見竜生)さんにお願いした。知らず知らずのうちに、予想だにしない稀な機材トラブルが起こっていて、とくにミキシング作業においての負荷が大きく、nagieさんにはご迷惑をおかけすることになってしまったが、こちらも、大まかな編集をレコーディング直後におこない、その後の調整はメールのやり取りを介した。
比較的大きな編成の室内楽曲である《影も溜らず》と《柄と地、絵と余白、あるいは表と裏》は、2019年に東京オペラシティリサイタルホールで開催した個展のライブ録音を使用し、ノイズの除去作業等の調整をnagieさんにしていただいた。これら2作品については、ライブ録音であることを活かし、演奏終了後の拍手をのこした。最後の音が消え、拍手が起こるまでの息を呑むような沈黙に、音楽を聴くことのすべてが顕れているからだ。

2枚のCDに8作品をどうならべるか悩んだが、最終的には1枚目に独奏曲4作品、2枚目に室内楽曲4作品を収めることにし、ここにも対比が色濃く反映されることとなった。作曲家、福島諭さんが、ご自身のウェブサイトに本作品集についての文章を寄せてくださったのだが、そこに、私が張り巡らした幾つもの対関係の的確な指摘があり、とてもうれしく読んだ。

桑原ゆうさんが長年テーマとして扱う領域の一つは、一般的には両義的な二要素と捉えられるものの間に潜む淡いに視点を置くものだ。独立した事象として認識されてしまう項の間に対峙して、そこに存在する(しないかもしれない)磁場を常に意識することは容易いことではない。タイトルとして冠された音と声の対関係はそのような視点を象徴するものだろう。楽曲を通して聴いていくと、そうした対比は「1」と「2」、「個」と「集合」、(音響による)「語り」と「叫び」、そして「音」と「無音」、様々な要素が拮抗しては絡み合い、解けていくように感じられる。厳格に楽譜に記譜されているであろう音響は緻密に練られているが故に、ある種の即興性にも近づくような自由さも獲得している。
[福島諭 http://www.shimaf.com/photo/20241031_text.html

本作品集のブックレットのために書き下ろしていただいた白石美雪先生による解説文にも、「…桑原の重要なモチーフが『あわい』である。二つのモノ、二つの状態の間にあって、二つのものが融け合った状態を表象する曲、たとえば『逢魔が時』という美しい言葉がタイトルに含まれる作品をこのCDでも聴くことができる。そして、それはおそらく『言葉と音楽』のあわいを探求し、東と西のあわいを自由に行き来する彼女自身の存在とパラレルなのである。」とあるように、ふたつの要素やふたつの領域のあいだをどこまでも掘り下げていくことは、創作における私のモチベーションである。ふたつの要素やふたつの領域は、東西、夢うつつ、この世とあの世、此方と彼方、生死などのように、あきらかに対比、もしくは対峙する(ただし、のちに述べるが、私の考えでは、これらはすぐ隣だったり、互いに触れ合うくらい近いところに存在する関係でもある)場合も、音と声、声と言葉、音と言葉、言葉とカタリ、カタリとウタのように、福島さんの言葉を借りれば「両義的な二要素と捉えられるもの」の場合もある。いずれにしても、ふたつの要素やふたつの領域の狭間の、ごく小さく微妙な差異を、できるだけこまかく、無数のレベルに分け、架空のフェーダーを繊細に操作しながらグラデーションをつくっていく、というのが、私の音や音楽における捉え方であり、物事の見方であり、すべての判断や思想の根底に、基準としてある。
「音の声、声の音」という本作品集のタイトルは、このような思想と、それによる音や音楽の性質とを表象したモットーである。じつは、2022年にスタイル&アイデア:作曲考に寄稿した論考のタイトルが「音の声、声の音」[https://styleandidea.com/2022/05/27/yu-kuwabara-si/]だった。言論と音楽との相互関係を発見してもらえるよう、その論考と本作品集のタイトルをわざと同じにし、仕掛けたのである。いま現在の私は、記譜と言論を主とした作曲家としてのこれまでの営みと、それらが結実したところの音楽作品とを一旦整理し、結びつけて提示しておきたい気持ちがある。

さて、「音」と「声」についてであるが、重要だと思う語や字については、白川静さんの「字統」「字通」「字訓」「常用字解」(いずれも平凡社)を必ず引いて確かめるようにしているので、まずはそれらを引用したい。

・こゑ[白川静「字訓」309頁]
人の声。また鳥獣の鳴く声などをいう。「おと」は音響一般をいい、「ね」は虫の音(ね)、琴の音(ね)のように特定の音色(ねいろ)をもつものをいう。【中略】声(せい)はもとの字は聲に作り、「けい(聲の上部)」と耳とに従う。【中略】声(けい)は磬(けい、石の楽器)を懸けた形、「けい(聲の上部)」はその磬を殴(う)つ形である。その音の耳に達するものを聲という。すなわち声とはもと器楽の音をいう。音は神にそなえた祝詞(言)に神の「おと(音の上部が一)なひ」があらわれる形で、神の「おと(音の上部が一)づれ」をいう字であった。反響音は響(ひびき)という。のち生物の発するものを声といい、物の発するものを音響という。国語では「こゑ」は生物が他にはたらきかけるとき発するもの、「おと」はものの内部から発するもの、「ね」はそのねいろをいう。…

・声[白川静「字統」511頁]
…声は口に発するもの、音は物によるものであるが、声がもと磬に従う字であることは、神を招き、神の声を聞くことを原義とするものであろう。音(「おと」音の上部が一)も古くは神の自鳴、神が自らの存在や神意を示すためのものであった。…

・声[白川静「常用字解」383頁]
…甲骨文字の字形に、磬の下に「さい(神への祈りの文である祝詞(のりと)を入れる器の形)」を加えるのは、神をよぶための祈りを示し、磬がもと神をよぶための楽器であったことを示している。…

・おと[白川静「字訓」141頁]
もののひびきや人畜の声。さやかに耳に聞こえるものをいう。類義語の「ね(音の上部が一)」は楽器などの情感を含んだもの。「聲(こゑ)」は人や獣の声。「おと」はその両者を含めていう。【中略】音は言の下部の口が曰(えつ)の形となったもの。曰は祝詞を収める器の形である「さい」。その中に小点を加えて、中に音のあることを示すものが音である。言は祝詞。その言の祈りに神の感応があって、その器が自ら鳴るのを音という。…

・音[白川静「字統」70頁]
言と一とに従う。言の下部は祝祷(しゅくとう)を収める器の形である「さい」であるが、その中に一を加えて、器中に自鳴の音を発することを示す。【中略】言は辛と祝禱の器である「さい」とに従う。神に告げ祈り、また誓約するときに、もし偽りがあるときは神罰を受けるという自己詛盟(そめい)が行なわれるが、その形式を文字化したものである。このようにして祈り、神の反応があるときには、「神のおと(音の上部が一)なひ(訪れ)」としての暗示があるとされ、その「おと(音の上部が一)なひ」を音という。意も音に従う字で、神の暗示を憶測する意である。暗(闇(あん))・諳(あん)諳はみなその系統の字である。…

こうしてみると、「音」と「声」の各領域はほぼ重なり合っている。「声」は口に発するもの、「音」は物によるものであるが、「声」とはもと器楽の音、つまり、物によるものでもあるといわれている。加えて、「おと」とはもののひびきや人畜の声であるので、「音」の領域内に「声」があるともいえる。そのうえで、「おと」はものの内部から自ら発して鳴るもの、対して、「こゑ」は他にはたらきかけるとき発するものであったり、耳にとどいたものであったりするわけだ。白川静さんの記述から得た私のイメージに依ると、「音」とは物事が小刻みに振動し放射状に満遍なくエネルギーを発している状態で、「声」とは「音」よりも明確に身振りや方向性を携えたエネルギーである。
さらに、私にとっての「音」とは鳴っている現象の総体とでもいうべきものである。一方、「声」を鳴っている現象の内部の働きとして捉えている。言い換えると、「音」は自鳴の状態の身体そのものの全体的な在りようであり、「声」は身体に自鳴の状態を引き起こす内なる状態やエネルギーの在りようで、身振りや方向性を伴うものである。さらに、「音」とは何者かはわからないけれどすでに動いているものであり、その原動力となるのが「声」である。この「何者かはわからないけれどすでに動いているもの」を名づけるのが私にとっての作曲である。つまり、「音の声、声の音」というとき、現象の総体が内包するエネルギーの働き、また、内部の働きから見た総体のエネルギーと、外から内へ、内から外へと、鳴っている現象を捉えようとしている。
ところで、人間にとって究極の二要素というのは、おそらく生と死ではなかろうか。私には、生を象徴する「此方」の領域と死を象徴する「彼方」の領域とは、紙一重のきわを境にぴったりと隣り合わせで、連動して存在するイメージがある。生と死の区別は確かにあるが、紙一枚の厚さほどのごくわずかな隔たりしかないので、互いに両側に滲み出ている。本作品集には、「逢魔が時」シリーズから《やがて、逢魔が時になろうとする》と《逢魔時の浪打際へ》が収められているが、「逢魔が時」とは、「此方」の領域から「彼方」の領域へと足を踏み入れるための隙間がちょっと口を開いた時間帯である。また、私の音楽は総じて、「此方」の領域を切り裂いて「彼方」の領域の声を捉えようとするものであり、生に死に、死に生きることを考えようとするものでもある。

(2024/12/15)

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桑原 ゆう(くわばら・ゆう)Yu KUWABARA
日本の音と言葉を源流から探り、文化の古今と東西をつなぐことを軸に創作を展開する作曲家。第31回芥川也寸志サントリー作曲賞(旧名:芥川作曲賞)受賞。英国音楽レビューサイトBachtrackにて「2023年注目の女性作曲家8人」に選出。2024年、ウィーンの現代曲レーベルKAIROSより初の作品集アルバムをリリース。国立劇場、静岡音楽館AOI、神奈川県立音楽堂、横浜みなとみらいホール、箕面市立メイプルホール、ルツェルン音楽祭、ワルシャワの秋、アハト・ブリュッケン(ケルン)、ZeitRäume(バーゼル)、Transit 20·21(ルーヴェン)、I&I Foundation(チューリヒ)等、国内外で多くの委嘱を受け、世界各地の音楽祭や企画で作品が取り上げられている。東京藝術大学および同大学大学院修了。楽譜はEdition Gravis、Edition Wunn(共にドイツ)より出版。「淡座」メンバー。国立音楽大学、洗足学園音楽大学非常勤講師。
https://3shimai.com/yu/

桑原ゆう:音の声、声の音(Yu Kuwabara: Sounded Voice, Voiced Sound)
https://www.kairos-music.com/cds/0022202kai
https://save-it.cc/hne/yu-kuwabara-sounded-voice-voiced-sound