パリ東京雑感|宗教戦争を生きのびるには ロシアが待ち望むアメリカの内戦|松浦茂長
宗教戦争を生きのびるには ロシアが待ち望むアメリカの内戦
Text by 松浦茂長(Shigenaga Matsuura)
ロシアのジャーナリスト、ミハイル・ジガルによると、プーチン大統領の周辺は、トランプの当選に熱狂したそうだ。「トランプがプーチンを熱愛するから」などという些細な理由からではなく、これで「アメリカの崩壊は間違いない」と確信したためらしい。「トランプはアメリカのリベラル・イデオロギーにとどめを刺す。ちょうどゴルバチョフが共産主義イデオロギーに致命的打撃を与えたように……」。終末期ソ連の共産主義のように、独りよがりの不毛なイデオロギーと化したリベラリズムに、トランプが最後の一撃を加え、アメリカは無政府的内戦状態のなかで解体して行く――これがクレムリンの思い描くトランプのアメリカだ。近ごろモスクワではトランプを「アメリカのゴルバチョフ」と呼ぶのがはやりだとか。
アメリカで、どんな内戦が起こるというのだろう? 隣人、同僚が敵味方に分かれ、家族の中でもトランプ信者とリベラル派に分かれて、殺し合うのだろうか。
16世紀には、そんな陰惨な内戦があった。カトリックとプロテスタントが殺し合った宗教戦争だ。
宗教改革後の乱世にボルドー市長を務めた随筆家モンテーニュは、自分の家で、自分のベッドで、召使いに殺されるかもしれないと恐れたそうだ。
わたしは、わたしの家で、今晩あたりひとがわたしを裏切って、わたしをなぐり殺すかもしれないと想像しながら床についたことが数えきれないほどある。(中略)うちつづく内戦は、われわれが自分自身の家にいながら見張りに立たなければならないという点で、ほかのいろいろな戦争よりももっとこまったものだ。(モンテーニュ『エセー』第3巻第9章)
戦場で兵士に殺されるのではなく、自分の兄弟に、妻に、隣人に殺される。敵はすぐ身の回りにいて、しかも目に見えない。見えない敵に四六時中囲まれる恐怖に、耐えて生きるのが、宗教戦争時代の日常だった。
トランプから宗教戦争に飛ぶのは無茶に見えるかもしれない。でも、ここ十数年、宗教を掲げる暴力がはびこるので、16世紀の宗教戦争が、にわかになまなましく感じられるようになり、宗教戦争の歴史が書き直されつつある。宗教戦争は、遠い昔の野蛮な出来事ではなく、いまの野蛮と響き合っているのだ。
私たちは、ISイスラム国などの残酷な処刑にぞっとさせられたが、聖バルテルミーの虐殺(1572年)はもっと怖い。殺した敵の性器を切り取り、はらわたを取り出し、妊娠した女性の腹を裂く。子供まで大人にならって、残酷のかぎりをつくす。
なぜ、殺すだけで満足できないのか?
去年10月7日、ハマスは、千人規模の戦士をイスラエルに侵入させ、赤ん坊を殺し、首を切り落とし、親の目の前で子供を殺し、子供の目の前で親を殺し、自分たちがやった殺戮(1200人)の場面を録画し、その映像をSNSで流した。なぜことさらに残酷さを誇示するのか? イスラム主義者(ハマス)がユダヤ人を抹殺する――宗教を掲げた殺戮に独特の残酷さなのだろうか?
歴史研究者たちは、極端な残酷さを誇示するイスラム主義者の姿をつきつけられ、16世紀のキリスト教徒がなぜあれほど残虐な殺戮をしたのか、問い直す責任があると考えたに違いない。そこにどんな意味が込められていたのか? かれらの心の中は?
当時のキリスト教徒たちは、世の終わりは目前だと信じていた。終末がすぐ来るとしたら、救いを急がなければならない。世の終わりの前に救済を! 信者たちは強い終末論的不安の中に生きていたという。この激しい宗教的不安の中で起こった暴力について、歴史学者ディアーヌ・ルーセルはこう解釈する。
あのおぞましい場面、殺戮の行為が何をめざしたのか、その意味を問うとしたら、空間の浄化でしょう。信者全体の救いを脅かす異端(プロテスタント)を一掃することによって浄化するのです。(ラジオ・フランス10月24日の番組『宗教戦争 プロテスタントが生きのびる知恵』)
浄化の意味をはっきりさせるためには、敵の不浄を示さなければならない。敵を切り刻み、醜い姿をさらさせることで、異端の醜悪さを白日の下にさらけ出そうという奇怪な理屈だ。
さて、モンテーニュは、召使いの中に、カトリックの振りをしたプロテスタントがいて、自分を殺すのではないかと恐れた。平和な社会に暮らす我々には、妄想に近いように思えるが、宗教戦争の時代には、疑うことが生きのびる知恵だった。実際モンテーニュは隠れプロテスタントと一緒に旅行し、途中で偽装を見破った経験を書き残している。
われわれの内戦の時期、旅をしている途中のある日のこと、人品いやしからぬひとりの貴族とでくわした。彼はわれわれの教派とは反対の教派に属していたが、そうでないふりを装っていたので、わたしはそれにはまったく気がついていなかった。この内戦のいちばんよくないところは、トランプ・カードがすっかり混ざりあってしまい、あなたの敵は、あなたと同じ法律、習慣、同じ風土のもとで育っているため、うわべのどのような特徴からも、風采からもあなたと区別がつかず、混同、混乱を避けることがむずかしい、という点だ。(中略)
しかし、わたしのでくわしたその貴族は、ひどく動揺しおびえている様子だった。そして騎馬の兵士の一行に行きあうたびごとに、また王党側に属している町々を通り過ぎるたびごとに生気もないようなありさまだったから、わたしはとうとう、かれの良心から発する恐怖のためだと見ぬいた。このあわれな男は、彼の(カトリックの)仮面と十字架のしるしの奥に、彼の心のなかにある秘められたかずかずの考えが読みとられてしまいそうに感じていたのだ。(モンテーニュ『エセー』第2巻第5章)
カトリックが強い場所に来たら、プロテスタント信者はカトリックに見せかける。プロテスタントの町に入ったらカトリック信者もプロテスタントのように振る舞う。力関係に応じて、だれしもたくみに変身するから、外見や言葉をそのまま信じてはいけない。味方に見える相手が実は敵かもしれないから、手が小さく震えていないか、顔色が変わらないか、口ごもらないか、と微細な手がかりを見逃してはいけない。すべてを疑え! うそをそのまま信じると命を失う。
時と場所は変わり、現在のアフリカで、信仰を偽ったおかげで命拾いした女性のニュースを見つけた。
6年前、ナイジェリアのランにあるユニセフの診療所で看護師として働いていたロクシャさんは、同僚の二人の助産師といっしょに、ボコ・ハラムに誘拐された。ロクシャさんはキリスト教徒、助産師は二人ともイスラムだった。ボコ・ハラムとは「西洋式教育は罪」という意味だそうだから、真っ先にクリスチャンを処刑しそうなものだが、まず二人の助産師を殺した。ボコ・ハラムの戦士の言い分は「赤十字で働き、信仰にそむいた」――ユニセフであれ赤十字であれ、西欧の組織で働くのは掟にそむく罪なのだろう。他方、キリスト教徒は「礼儀も知らない不信心」のやからだから、戒律に従って罰する値打ちがないという理屈らしい。
ロクシャさんは、戦士の傷を手当てしたり、助産師として赤ん坊を取り上げたりしたので、ボコ・ハラム幹部の性的奴隷に格上げされた。捕まって1年ほどたったころ、行動の自由を得るためには、イスラムの振りをするしかないと覚悟を決め、改宗したいと申し出て、ハリマというイスラム名をもらった。同じ野営地にとらえられていた4人のクリスチャン女性にも偽装改宗を勧めた。人目のあるところでは、イスラムの身振りをして祈るけれど、心の中にはキリスト教の信仰を保とうと、5人で誓った。
去年10月のある夜、アキラウスという女性に出会って意気投合し、一緒に祈る。彼女も改宗に導いたため、ロクシャさんはいっそうボコ・ハラム幹部の信頼を得て、自分の藁小屋にアキラウスさんを同居させることが許される。アキラウスはそれまで何度も脱出を試みては途中で捕まり、連れ戻された経験の持ち主だった。どうしたら逃げられるか。二人は家のカーテンや敷物を売って資金を作り、遊牧民に道案内を頼む計画を立てる。
10月24日、二人は野営地を抜け出し、ロバの背に乗って2日間。広い森を抜け、ボコ・ハラムの支配地から出ることが出来た。そこから、牛にひかれた荷車に乗り、二つの川を越え、車に乗せてもらい、ようやく自分の町が見えたとき、二人は思わず声を上げて祈った。(『彼女はテロリストから逃れるために偽りの改宗をした』<ニューヨーク・タイムズ>11月23日)
生きのびるためには自分の信仰を隠し、偽らなければならない時代、世はうそと疑いと不安が充満し、視界ゼロ、人は息の詰まる日々を送る。宗教戦争の研究者ジェレミー・フォアはこう語る。
私たちの行動の大部分は信頼の上になりたっています。パン屋に行くとき、パン屋がどんな信仰を持っているか気にしませんし、小麦粉に何かまじっていないか確かめたりしません。それが、宗教戦争のときは、ごく当たり前のモノもいちいち疑ってかからなければなりません。パンに毒が入っているかもしれない。小麦粉の袋に爆弾が隠してあるかもしれない。牧草を積んだ荷車に武器が隠してあるかもしれない。
道で人とすれ違うとき、平和なときなら、チラッと相手を見てすぐ目をそらすでしょう。宗教戦争となると、そうは行きません。目をこらして相手を注意深く探らなければなりません。
パン屋に行くときも道で人とすれ違うときも、神経をとがらせ疑ってかからなければなりません。まともな状況ならパラノイアと診断されるようなこだわりを持って生きるのです。本来、社会は信頼の上に築かれているのに、信頼と正反対の疑惑で武装しなければ生きのびられません。(ラジオ・フランス10月24日の番組『宗教戦争 プロテスタントが生きのびる知恵』)
すべてがうそでおおわれ、信頼が消え去った社会……どこかの国を思い出さないだろうか? そう、ロシアだ。ロシアの権力は、ツァーリの時代から、民の自由を奪い奴隷化するために、うそと不信と不安の社会を作り上げた。(パリ・東京雑感|奴隷状態に酔いしれる永遠のロシア?|松浦茂長 |)プーチンの夢は、アメリカが内戦によってロシアのような不信社会に変わることなのでは?
(2024/12/15)