マクシミリアン弦楽四重奏団|多田圭介
マクシミリアン弦楽四重奏団
〈ベートーヴェン作曲 弦楽四重奏曲全曲シリーズ Vol.3〉
Maximilian String Quartet
<Complete Beethoven String Quartets Series Vol.3>
2024年5月14日 ザ・ルーテルホール
2024/5/14 The Lutheran Hall
Reviewed by 多田圭介(Keisuke Tada):Guest
Photo by K.Seki / 写真提供:平和ステージオフィス
<演奏> →foreign language
マクシミリアン弦楽四重奏団
桐原宗生 土井奏(Vn)、物部憲一(Va)、猿渡輔(Vc)
<曲目>
ベートーヴェン
弦楽四重奏曲 第4番 ハ短調 作品18-4
弦楽四重奏曲 第16番 ヘ長調 作品135
マクシミリアン弦楽四重奏団の”ベートーヴェン弦楽四重奏曲全曲シリーズvol.3”を聴いた。同クァルテットの主宰は札響のヴィオラ奏者の物部憲一。2023年5月に今回と同じルーテルホールで旗揚げ公演が行われた。メンバーはいずれも物部と同じ札響の楽員。ベートーヴェンの没後200年にあたる2027年まで足掛け5年をかけて年に2回、2曲ずつのペースで、ベートーヴェンの弦楽四重奏曲を全曲演奏する。ちなみに物部は、すでにロメウス弦楽四重奏団でベートーヴェンのチクルスを達成しており、これが2周目となる。また、彼は他にもムジカ・アンティカ・サッポロという古楽のアンサンブルも主宰しており、札幌の音楽ファンにとっては演奏者としてだけではなく、プロデューサーとしても馴染み深い存在となっている。
5/14の演奏会のプログラムは、ベートーヴェンの弦楽四重奏曲の第4番と第16番。このプログラムについて、物部は会場でこの2曲の組み合わせは当初から決まっていました、と述べた。だがその意図は語らなかった。
2023年6月の旗揚げ公演については筆者が主宰する「さっぽろ劇場ジャーナル」のvol.9にレビューを掲載している。繰り返すと「4人の気合いが高いレベルで合流するよう」な立派な演奏だった。それと比べると今回のvol.3は、やや課題を感じさせる部分もあった。とはいえ、後半の第16番は、作曲者最晩年の何ものにも捉われない達観したような境地が歪みなく会場に満ちた。
第1楽章の序奏部は62小節に渡って素材が並ぶが、音楽に目立った展開はない。ここが、必然的な論理の連鎖から自由に、あたかも彼岸からたまに此岸を思い出すかのように響いた。4人は積極的に歌おうとはしていない。だから1つ1つの素材が独自の手触りを持って戯れるように聴こえるのだ。冒頭はヴィオラから始まる。物部は第1楽章の主題の32分音符をはじめ各動機の細かいリズムまで堂々と、だが静けさを伴って奏してゆく。それが他の3人に伝播してゆく。第16番の成功を確信させる開始だった。
飄々とした全曲中唯一、深い内省がある第3楽章は殊さらに意味深かった。特に第3変奏は、人生への訣れの感情が浄化されるように歌いあげられ最大の聴きどころとなった。終楽章の最後に出てくるピッツィカートの旋律は、52小節で最初にチェロに出てくる。これがごく控え目だがどこか喜びを湛えている。困難に満ちた苦渋の人生の最後に土に還ってゆくように。最後のコーダは、スコアは弱音指定だが腰の強いピッツィカート。人生を、このチクルスを肯定するように締めくくった。
前半の第4番は少々惜しい部分もあった。第4番は、op.18の6曲の中では一番最後に、しかも6曲中で唯一短調で書かれている。パウル・ベッカーは、この第4番は、悲愴ソナタや運命交響曲へと連なる一連の短調作品の、弦楽四重奏曲における先駆けだと述べている。そこには、芸術家としての自己の存在を賭けた抜き差しならない真剣な姿勢がある。それは、声楽が器楽よりも重視されていた時代にあって、器楽ならではの独自性を徹底的に追求する姿勢として表れている。具体的には、器楽を内的に秩序づける要素としてのリズムとデュナーミクの洗練として。
スコアを開くと、この曲には異例とも言えるほどスフォルツァンドが多い。しかも一つの旋律線上にいくつも楔のように打ち込まれる。フォルテピアノも多い。まるで声楽的な滑らかな旋律線を拒否するように。これはたんなる旧来の秩序の破壊というよりは、器楽ならではのさらに上位の均衡や秩序を生むための伏線である。だからこそ、こうしたデュナーミクの指示は徹底して遵守したい。だがそれらがうまく聞き取れない箇所があった。
まず、第1楽章は、2つの主題が確保され展的推移に入ると不規則なスフォルツァンドが頻出する(60~63小節)。ここの最後の2つのスフォルツァンドが聴こえてこなかった。作品の性格を決定づけるリズムだけに徹底してほしい。第2主題の確保では1st.Vnの16分音符のパッセージに突如出てくるフォルテピアノもあるが、これも聴こえなかった(52小節と176小節の2拍目)。第2楽章のスケルツォでも特に第2部では同じ問題を感じさせられたが、後半では各奏者の力みがとれて音楽が充実してきた。スケルツォの第3部に入る頃には、二重フーガの複雑な構造が立体的な音響となって響き始めた。
第4番のもう一つの特徴としては各パートの対等性が挙げられる(むろんop.18の全曲そう言えるが)。マクシミリアンの4人の奏者はそれぞれにかなり異なる個性を持っているのだが、それがこの対等性に関してはプラスに作用した。例えば、第3楽章メヌエットの冒頭。1stの桐原に続いて、2ndの土井が主題を受け継ぐと、ガラッと音色が変わる。このクァルテットのこうした要素はこの曲でも随所で効果を上げていた。また、メヌエットのトリオは、主題が反復される際に、チェロが重音になり音域も下がる。ここは響きがぐっと深くなり素晴らしかった。終楽章は、アーティキュレーションの処理がやや雑になってしまった感はあったが、コーダのプレスティッシモに至って、1拍ずつずれて記されたスフォルツァンド等、デュナーミクに脈々と血が通う。まるで、歴史や人間が進歩すると信じることができた青年ベートーヴェンのマニフェストのようだった。
こうしてこの2曲が並ぶと、ベートーヴェンは20余年でなんと変わったのかと思う。いや、それよりも、人間の本質的な矛盾が露わになっていたと解することもできるかもしれない。この上なく孤独を愛しているのに、この上なく連帯を求める矛盾。それは美や真理をめぐる矛盾でもある。近づけば近づくほど遠ざかり、解けない謎として屹立する。遥か彼方に見上げつつ、途方もない無力感に苛まれる。だが、断念したのだけれど、断念した記憶は忘れない。断念は苦しいことだけど、断念したことを忘れないことは美しいことなのだ、というような。そうした体験が芸術を真たらしめる。この2曲を並べた意図はそんなメッセージなのではないか。そう思わされた。同クァルテットの次回公演は11/6で曲目は5番と15番。充実したチクルスのさらなる飛躍が期待される。
(2024/6/15)
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<Performers>
Maximilian String Quartet
Munetoshi Kirihara, Kanade Doi (Violin),
Kenichi Monobe (Viola)
Tasuku Saruwatari (Cello)
<Program>
Beethoven: String Quartet No. 4 in C minor, Op. 18-4
– Intermission -
Beethoven: String Quartet No. 16 in F major, Op. 135
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多田圭介(Keisuke Tada)
北海道大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。研究分野は、ドイツ語圏の西洋近現代哲学、近代日本哲学。また、クラシック音楽と舞台芸術の批評、アニメや特撮など表象文化論の研究にも取り組んでいる。クラシック音楽の分野では市民向けの公開講座にも力を入れており、これまでに道新文化センター、朝日カルチャー、NHKカルチャーにて講座を担当している。現在は、藤女子大学講師、同大学キリスト教文化研究所客員所員、ミュージック・ペンクラブ・ジャパン会員、さっぽろ劇場ジャーナル編集長。