死ぬるが增か 生くるが增か voice duo vol.4|齋藤俊夫
死ぬるが增か 生くるが增か voice duo vol.4
To be, or not to be…
2024年2月26日 すみだトリフォニーホール小ホール
2024/2/26 SUMIDA Triphony Hall Small Hall
Reviewed by 齋藤俊夫(Toshio Saito)
<演奏> →foreign language
バリトン:松平敬(*)
ソプラノ:工藤あかね(**)
トロンボーン:村田厚生(***)
チューバ:橋本晋哉(****)
ヴァイオリン:松岡麻衣子(*****)
<曲目>
ジェルジ・クルターグ:ヘルダーリン歌曲集Op.35a(1993-97 日本初演)(*)(***)(****)
桑原ゆう: 葉武列土一段(2023-24、委嘱初演)(*)
ジェルジ・クルターグ:カフカ断章Op.24(1985-86)(**)(*****)
筆者にとってクルターグとは、その音楽に触れてみるといつもお互いの間に深い溝があるというか、ある種のよそよそしさを感じざるを得ない作曲家であった。彼の作品を聴いていると、彼の顔には仮面が被さっているようで、人間の顔はその奥にあるはずだが見えない、そんな気がするのだ。クルターグの良い聴き手とは言えない筆者、この度の演奏会でクルターグの仮面の奥の真の顔を覗かんとおもむいた。
狂気の詩人ヘルダーリンの詩によるバリトン独唱曲(第3曲ではチューバとトロンボーンが加わる)『ヘルダーリン歌曲集』、切り詰められた書法で描かれるその世界の歪みを恐れ、また畏れずにはいられない。母音の中の自在な抑揚を聴かせる第1曲から転じて子音の神経症的な細かな動きが溢れる第2曲。チューバとトロンボーンの不協和な響きを基音として強靭な朗唱が響き渡る第3曲。母音によるメロディの抑揚がはっきりと存在することが何故か不吉さを倍増させる第4曲から、第1曲と第2曲の対照のように細かな子音ベースで聴いていて息切れを起こしそうになる第5曲。パウル・ツェランの詩がヘルダーリンへの厳かな弔鐘のように歌われるが、最後には「パラクシュ!パラクシュ!パラクシュ!」と意味のない絶叫、そして「……パ、ラ、クシュ」とうわ言のように呟きつつ暗黒に沈み込む。ここに人間はいたのか? 筆者は背筋に冷たいものが走るのを感じ続けていた。
「死ぬるが増か生くるが増か 思案をするハこ丶ぞかし」の繰り返しで始まる桑原ゆう『葉武列土一段』は丶山仙士(ちゅざんせんし)訳の文語体ハムレット「シェーキスピール氏ハムレット中の一段」を我々が日常で発している日本語の声と地続きの〈日本的発声法〉と〈西洋的バリトンの発声法〉を合わせた発声法で、森鴎外訳の文語体「オフエリヤの歌」をファルセットで歌わせる趣向の作品。
松平の卓抜した歌唱力と引き出しの多さによる日本的発声法、日本的ヴィブラート、日本的ポルタメント、日本的シュプレヒシュティンメに、我々の日常語の現代音楽的表現にこれほどの可能性が!と驚かざるを得なかった。文語体の持つ格調高い表現もまた素晴らしい。ただ、ファルセットについてはやや無理があったように聴こえた。しかしソプラノと日本的発声法を融合させるにはバリトンとはまた別のアプローチが必要となるだろうし、今回のファルセットもこれはこれで一つの解なのであろうと思えた。
クルターグの歌曲集『カフカ断章』、工藤あかね・松岡麻衣子のコンビによればクルターグの本領が発揮され、従ってクルターグの素顔が見られる作品であろうと身構えた。
聴きながら感じ続け、全曲が終わって「この作品はどこまで行ってもカフカだ、全篇カフカ的不条理に満ちている」という結論に至った。
例えば第1曲『お人好しがゆくよ てくてくと』「お人好しがゆくよ てくてくと/彼らを気にも留めず/他の人たちはその周りで/時の踊りを踊っている」(以下訳:工藤あかね)ではヴァイオリンとソプラノが協和しているのだが、そこに〈裏〉があるように思えて不安極まりない。
第20曲『ほんとうの道』「ほんとうの道は、綱わたり/綱は、空中ではなくて/地面すれすれに張ってある/人を支えるのではなくて/転ばせようとしているみたい」静かにヴァイオリンの不協和な重音が忍び足で近づき、ソプラノも超弱音でそろそろとゆっくりと歌う。空気が粘っこい。苦しい。時がなかなか過ぎていってくれない。助けてくれと声が出したいけれども出せない。
第40曲(終曲)『月夜が僕らを明るく照らした』「月夜が僕らを明るく照らした/小鳥は木々の間で声呼びかわし/野はざわめいた/僕らは土ぼこりにまみれ/一対の蛇みたいに這いまわった」第3連までの明るいムードが第4、5連で一気に台無しにされ、不吉なイメージに塗り固められるこの短詩、前半はヴァイオリン、ソプラノ共に美しい(はずの)音楽を奏でるが、後半に入って短調、無調、無音へと至るその不条理。ソプラノのヴォカリーズが昂ぶり、絞られるように下行し、かき消え、ヴァイオリンも後を追うように消えゆく。
曲ごとに繋がっているようで反発しあっているようにも無関係であるようにも感じられるこの40節の断章集全曲を生で聴いて、筆者はクルターグの素顔を見抜いた、と思えた。クルターグは仮面を被っているのではない。仮面のようなものがクルターグの素顔なのだ。それは人間の顔を異化した、異形の、人外の、カフカ作品のように現代社会の歪みを映し出した顔。
とても恐ろしいモノを聴いて・見てしまった演奏会であった。
(2024/3/15)
—————————————
<players>
Br: Takashi Matsudaira(*)
Sp: Akane Kudo(**)
Tb: Kosei Murata(***)
Tuba:Shinya Hashimoto(****)
Vn: Maiko Matsuoka
<pieces>
Gyögy Kurtág: Hölderlin-Gesänge, Op.35a(*)(***)(****)
Yu Kuwabara: Hamlet Ichi-dan(*)
Gyögy Kurtág: Kafka-Fragmente, Op.24(**)(*****)