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小人閑居為不善日記|旅を終わらせた男――《PERFECT DAYS》について|noirse

旅を終わらせた男――《PERFECT DAYS》について
The Man Who Ended The Road

Text by noirse : Guest

※《PERFECT DAYS》、《パリ、テキサス》の内容に触れています

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今年もアカデミー賞の授賞式が近付いてきた。毎年言っている気がするが、ミーハーなので今回もとても楽しみで、現在アクセスすることのできる候補作を何本か追ってみた。すると、うち何本かに、ちょっとした共通点があることに気付いた。11部門にノミネートされた《哀れなるものたち》(2023)、8部門にノミネートされた《バービー》(2023)、アネット・ベニングが女優賞にノミネートされた《ナイアド ~その決意は海を越える~》(2023)と、旅を描いた作品がチラホラあったのだ。

《哀れなるものたち》は実験的な作風で知られる作家アラスター・グレイの原作で、SFともファンタジーともつかないクセのある作品だが、おおまかに言えば、世間知にうとい主人公のベラが旅を通して女性の権利に目覚めるまでを描いている。《バービー》もフェミニズムに重点を置いて注目されたが、バービーの世界を飛び出て人間界を旅して廻ることで自己を問う作品でもある。《ナイアド》は64才にしてフロリダ海峡を泳いで横断した女性の実話の映画化だが、遠泳もひとつの旅と見立てられるし、プロジェクトを通して他者と議論しぶつかっていく過程を通して成長していく、主人公の心の旅を描いているとも言える。

このようにロードムービーは、旅を通して主人公たちの成長を描く、一種のビルドゥングスロマンとして企図されることが多い。しかしそれはロードムービーのひとつの側面でしかない。旅を描いた映画というのは昔からあるが、大きな転換点となり、ロードムービーというジャンルをかたち作ったといってもいい《イージー・ライダー》(1968)はアンチ・ビルドゥングスロマン、いわば旅の不可能性を証明するための作品だった。

ピーター・フォンダとデニス・ホッパーというハリウッドきっての反逆児が、既存のアメリカ映画にNOを突き付けるために製作したのが《イージー・ライダー》だ。もはやフロンティアなど何処にもなく、ハリウッドが紡いだアメリカ神話など幻想に過ぎないことを衝撃的なかたちで突き付けた。その後に続いたロードムービー、たとえば《さらば冬のかもめ》(1973)や《スケアクロウ》(1973)の旅の果てのやるせない結末は、《イージー・ライダー》の意志を継承していた。

しかし1970年代後半以後、ニューシネマの衝撃が過ぎ去り、ハリウッドの娯楽路線がふたたび台頭するにつれて、ロードムービーにもハッピーエンドや分かりやすい感動が求められるようになり、前述したようなビルドゥングスロマンとしての体裁が整っていく。

それでも《イージー・ライダー》の遺伝子を受け継いだ作品も存在している。その代表がドイツのヴィム・ヴェンダースで、《さすらい》(1976)は《イージー・ライダー》以降、もっともラディカルなロードムービーだったと言っていいだろう。

そのヴェンダースの最新作《PERFECT DAYS》(2023)が、日本映画として国際長編映画賞にノミネートされている。ロードムービーではないが、ヴェンダースの代表作《パリ、テキサス》(1984)によく似た構造を備えており、「ロードムービーの巨匠」ヴェンダースの旅の帰結として見ることができ、各所で絶賛されている。しかしわたしは、どうもうまく入り込めなかった。

 

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《PERFECT DAYS》の舞台は東京で、主人公の平山は公衆トイレの清掃員。毎日早朝に起き、常に手を抜くことなく、真摯に仕事に当たっている。スカイツリー付近の古いアパートに住み、仕事が終われば銭湯で汗を流し、浅草の定食屋で簡単に夕食を済ませ、寝る前に古本屋で安く買った文庫本を読む。家族はおらず、人付き合いも最小限に留め、寡黙で規則正しい、欲のない毎日。しかし平山はこういった、静かで孤独な生活を楽しんでいる。

どうやら平山の実家は資産家らしいのだが、若い頃に父親と対立し、家を出たらしい。妹が訪ねてきて戻るように説得されるが、平山にはその気はない。いつも通り朝焼けの中ハンドルを握る平山の印象的なクローズアップで、映画は幕を下ろす。

平山の無欲な生きかたが賞賛され、演じた役所広司は本作でカンヌ映画祭で主演男優賞を受賞。ヴェンダースの新たな代表作と評価されたが、一方で批判の声も上がっている。東京の片隅で資本主義社会に背を向け、つましく清貧に生きる男をドイツ人が描くという構造は、典型的なオリエンタリズムではないかというわけだ。

共同脚本は電通の高崎卓馬。東京五輪のクリエイティブ・ディレクターだった人物だ。製作はファーストリテイリング、つまりユニクロの親会社で、アウトソーシング先での過酷な労働状況が発覚したこともあった。映画製作は大きな金額が動くものだし、細かいことを言えばキリがないが、こうした製作環境で清貧を美とする映画を手掛けるというのは、やはり皮肉に感じてしまう。

そしてヴェンダース。彼が尊敬する監督のひとりが小津安二郎で、《夢の涯てまでも》(1991)では小津映画の常連俳優だった笠智衆、三宅邦子をキャスティング。小津映画の名残りを求め、来日してドキュメンタリー《東京画》(1985)まで監督している。平山という名前も小津映画に頻出するもの。小津を慕うヴェンダースが遂に完成させた「日本映画」が《PERFECT DAYS》ということだ。

ヴェンダースの代表作と言えば《パリ、テキサス》(1984)だ。テキサスの荒野からトラヴィスという男が現れ、人里に戻ってくる。誰とも喋らないトラヴィスのもとに弟が訪ねてきて、息子を預かって育てていると告げる。トラヴィスは妻子を置いて失踪したのだが、その後妻も出ていってしまったのだ。トラヴィスはまだ小さい息子を連れて、妻を探す旅に出る。

若い頃はタフなテキサス男だったが、妻への独占欲に苦しみ、自らの加害性を恐れ、家族の前から消えたトラヴィス。彼の造形には、過去の西部劇のマッチョなカウボーイの姿がちらつく。家族を守って敵を打ち倒す名うてのガンマンも、1980年代となると必要とされることはなく、スクリーンの向こうの闇に掻き消えていくだろう。新しい時代の波間の影に輝いていた時代を垣間見る、そうした感傷が《パリ、テキサス》には溢れている。

《パリ、テキサス》はジョン・フォード映画の代名詞である、モニュメント・バレーから始まる。ヴェンダースは若い頃にパリに住んでおり、ヌーベルバーグに触れ、シネマテーク・フランセーズに通うという、典型的なシネフィル生活を送っていた。戦後ドイツに生まれ、ハリウッド映画とロックに夢中になり、アメリカ文化でアイデンティティを形成したヴェンダースには、映画の中のアメリカは第二の故郷のようなものに違いない。《パリ、テキサス》は、彼にとっての聖地巡礼だったのだろう。

 

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家族の前から姿を消した、無欲で無口な男。トラヴィスと平山はよく似ている。片や青春時代に憧れた映画の中の国、片や尊敬する小津安二郎がフィルムに収めた日本。《PERFECT DAYS》は、《パリ、テキサス》から40年近く経って、トラヴィスを日本に生き直させたと言える。

各プレスが絶賛した《PERFECT DAYS》のラストシーン、朝焼けに照らされた平山のショットも、《パリ、テキサス》を彷彿とさせる。妻と再会したトラヴィスは、息子を彼女に預けて、ふたりの前から消えてしまう。車に乗り込み、夕闇に掻き消えていくトラヴィスの姿は、痛切な孤独を漂わせる。

十代で初めて《パリ、テキサス》を見たわたしは、その孤独に惹かれ、何度もこの映画を見直した。その後ジョン・フォードを始めとした西部劇やアメリカ映画を追いかけ、またアメリカ音楽にものめり込んだ。《パリ、テキサス》と言えばライ・クーダーのスライドギターだが、原曲のブラインド・ウィリー・ジョンソンも聞いたし、ライが手本としたブルースやカントリー、フォークまで、古いアメリカ音楽も色々漁った。あの頃《パリ、テキサス》は、わたしの文化受容のひとつの指標となっていた。

しかしいい年齢になってから《パリ、テキサス》を振り返ると、男の無責任で身勝手なエゴをロマンティシズムで覆い隠し、誤魔化したように思えてしまう。普通に考えればトラヴィスはダメ男なのだが、ヴェンダースが用意した道具立てとロビー・ミュラーのシャープなカメラを前にすると、映画ファンという生き物は思わず許してしまうものなのだ。

《PERFECT DAYS》には直接的な映画へのオマージュはなく、よくも悪くもシネフィル監督らしい自意識は希薄だ。そのかわり失踪者の輪郭線が明確になっている。トラヴィスは生活感のない男だったが、平山には日常の手ざわりがはっきりしていて、きっとトラヴィスも失踪後、このような毎日を送っているのだろうと思わせた。

だがそれがかえって《パリ、テキサス》の弱点を炙り出してもいた。平山はヴェンダースにとって、都合のいい「日本人」でしかない。それと同じようにトラヴィスも、ヴェンダースにとって都合のいい「アメリカ人」だったのだ。

けれどわたしは、《パリ、テキサス》を嫌いになることができない。アメリカのカルチャーに夢中になったわたしにとって、《パリ、テキサス》は自分の鏡像でもあるからだ。ドイツ社会に向き合えず、自分のロマンの中に入り浸り、酔っているヴェンダースを、他人事とは思えなかった。

《PERFECT DAYS》は多々問題を抱えているが、よくできた作品ではあるのだろう。しかしオリエンタリズムという弱点を除いても作品に入り込めないと感じるのは、《パリ、テキサス》にはあったヴェンダースの弱さが、《PERFECT DAYS》には微塵もないからだ。

トラヴィスと違い、平山は「完璧な」人物だ。アカデミー賞にノミネートされたロードムービーの旅人たちと同じように、ヴェンダースの旅は終わってしまった。何時の間にかシネフィルくささも抜けて、今ではドイツを代表するマエストロだ。けれどもわたしは、まだロードムービーの隘路に迷い込んで抜け出せず、テキサスの闇の中に佇むトラヴィスに憑かれたままなのだ。

(2024/2/15)

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noirse
佐々木友輔氏との共著《人間から遠く離れて――ザック・スナイダーと21世紀映画の旅》発売中