パリ・東京雑感|やさしさだけでない村のホトケの霊力 『みちのく いとしい仏たち』|松浦茂長
やさしさだけでない村のホトケの霊力 『みちのく いとしい仏たち』
The Beloved Gods and Buddhas of Northeastern Japan
Text by松浦茂長(Shigenaga Matsuura)
東京ステーションギャラリーで「みちのく いとしい仏たち」という展覧会を見た。
「いとしい」=「仏たち」?
「尊い」=「仏さま」や「有難い」=「仏さま」や「慈悲深い」=「仏さま」なら、いろんなイメージがわくけれど、「いとしい」と「仏さま」を結びつけるのは、いささか奇妙に聞こえないだろうか?
東京駅に集められた像は、プロの仏師が作ったアカデミックな仏さまでもなく、円空のような旅の僧が彫った個性的な仏さまでもない。村の大工さんや職人さんが彫った素人細工。これらの仏像・神像を発見した弘前大学名誉教授、須藤弘敏氏は、「民間仏」と名付けている。
アマチュアの彫り物なら、1時間もあれば見終わるだろう、と気軽な気持ちで見に行ったのだが、なにやら切々と訴えてくるので、どの仏さまも離れがたい。あっという間に3時間経ってしまった。
うれしいことに、この仏さまたちは、ちっとも偉そうでない。閻魔さまも鬼たちもこわくない。仏さまは人間を救ってくれるのだから、本当は偉そうに見えてはいけないはずだ。でもたいていの仏さま、とくに近世の仏さまとなると、どこか権力と金力の匂いがして、救いの手を差し伸べてくれそうにも思えない。
遠い昔、飛鳥時代には、偉そうでない仏さまがあった。法隆寺に置かれた『百済観音』――
仄暗い堂内に、その白味がかった体躯が焰のように真直ぐ立っているのをみた刹那、観察よりもまず合掌したい気持になる。大地から燃えあがった永遠の焔のようであった。人間像というよりも人間塔――いのちの火の生動している塔であった。(中略)
百済観音をみて心愉しくなる理由のひとつは、近代に激しい内攻症を根絶してくれる点にある。私はそう思う。これを忘却の精神と呼んでもいい。百済観音は、異邦の神々にもましてレエテの河の水浴に通達していたのかもしれぬ。私の勝手な空想ではあるが、ともあれこのみ仏は一切を忘れさせる力をもっている。マリアは一切を思い出させる力をもっている。既に快癒したはずの傷までがまた疼き出しそうだ。言うまでもなく私にとっては忘却の方が有難かった。若しこの世に大慈大悲というものがあるならば、それはすべての苦悩を、罪禍を、いな人生そのものをさえ忘れさせてくれる力にちがいあるまいと思う。(亀井勝一郎『大和古寺風物誌』)
亀井勝一郎が百済観音を讃えた有名な文章を読み直してみて、驚いた。「みちのくのいとしい仏たち」の不思議な力と響き合う体験が書き記されているではないか!――「忘却の精神」。
亀井勝一郎の「百済観音」体験とは密度が違うにしろ、東京駅の仏さまたちを見た人たちも、多かれ少なかれ人生の悩みを(ちょっとの間)忘れて、「心愉しく」帰って行ったに違いない。
なぜ百済観音が見る者を「心愉しく」してくれるのか? その理由を尋ね、亀井勝一郎は、人の苦悩、罪禍、人生そのものさえ忘れさせる「忘却の精神」を探り出した。「忘却の精神」は、「近代に激しい内攻症」の対極にあり、自我の肥大による神経症を病む私たちを治癒してくれるのだ。
東京駅の仏さまたちも、あの無垢な頬笑みによって、私たちを自我のうっとうしさから解放し、「心愉しく」してくれるのではないか? アンドレ・マルローが世界の10大彫刻の一つに選んだ傑作と、東北の村の大工さんが彫ったアマチュア彫刻が、同じような力をもつとはどういうことだろう?
東北地方でも、お寺の本堂に置くご本尊は地方制作ではなく、江戸や京都、鎌倉の仏師工房に注文した。江戸時代の仏像は中央の仏師が造り、はるばる運ばれてくることに価値があった。権力・金力をぴかぴかにまとった仏さまでなければ、本堂におさまる値打ちがない。
でも、東京駅に集まったような村のホトケさまが住むのは、中央につながる本堂と対照的な、小さなお堂や祠、あるいは村人の家だ。中でも人気のあった地蔵堂について、須藤弘敏氏はこう書いている。
地蔵堂(十王堂、閻魔堂)は村の集会所の役割も果たしていて、高齢者たちが日常的に寄り合い、囲炉裏を囲んで過ごす場所でしたが、この世とあの世のあわいのような場所でもありました。何より亡くなった人々の後生をとむらい、追善の祈りをささげるための空間でしたが、そこに居並ぶ十王や奪衣婆の像は、まもなく自分たち自身が対面するイメージです。十王たちが威厳や怒りを捨てた愉しい姿に表わされているのは、死の恐怖や不安を弱め、死を待つ日々を癒そうとしたためもあるでしょう。(須藤弘敏「暮らしに寄りそう仏たち」『みちのく いとしい仏たち』展覧会図録)
村の粗末なお堂のホトケさまは、和尚さんに難しいお経をあげてもらうよりも、気心知れた村の共同体のおしゃべりを聞き、かれらの不安、悲しみ、願いを知るのを喜んだに違いない。「苦しいことがあればぶちまけなさい。願いがあれば私に祈りなさい。」と、静かに微笑みかけているように見える。
これらの仏さまたちが住む青森、岩手、秋田の北東北は、飢饉のない年の方が少なかったと言われるし、盛岡藩は日本で一番一揆が多かった。生きるのが楽になった現代は、<死>を見えないところに隠してしまったが、生きるのが苦しかった時代、<死>は遠くない。仏さまのお迎えを一日も早くと待ち望む村人は少なくなかっただろう。恐ろしいのは藩の役人で、地蔵堂の鬼にはむしろ親しさを感じたに違いない。
東京駅の仏さまたちは、じつに自由でのびやかだ。どれも思い思いの顔つきをして、仏像はかくあるべきといった規範にとらわれない。三角の鼻がついた四角い顔が長方形の小さな胴体の上にちょこんと乗ったモダンな造形もあるけれど、神経質なところがかけらもないのが現代の作品と違う。この自由と大らかさはどこから来るのだろう?
そんな事を考えるうちにフランスのロマネスク教会を思い出した。12世紀の教会を訪ねると、柱頭に聖書の物語のシーンや聖人の冒険シーンもあるけれど、キリスト教と関係ない怪物や出産とおぼしききわどい場面など、「愉しい」浮彫がいっぱいだ。キリストも聖人も偉そうでなく、むしろかわいい。どの人物も(悪魔まで)自由闊達。見つめているうちに、自分の中のこだわりのようなものがスーッと溶けて、楽になる。自我の「内攻症」を癒してくれたのだろうか? 本当に「いとしい」神・人・悪魔たちだ。
哲学者シモーヌ・ヴェイユは、美が本物であるためには、その作品が真実でもあり善でもなければならないと厳しい注文をつけ、そうした魂の高貴さを聖性と呼んでいる。どんな作家、芸術家、音楽家が聖性の域に達したのか? 例によってシモーヌ・ヴェイユの選択は恐ろしく厳格で、ジョット、ベラスケス、アイスキュロス、ソフォクレス、アッシジの聖フランチェスコの名前をあげたあと、こう続けている。
聖性はロマネスク教会とグレゴリオ聖歌のうちに燦然と輝く。モンテヴェルディ、バッハ、モーツァルトは、その作品におけるとおなじく生涯においても純粋だった。(シモーヌ・ヴェイユ『根をもつこと』)
ロマネスク教会がバッハ、モンテヴェルディと並べられたのはうれしいが、天才個人と一時代の様式が同列に並ぶのは、一見奇妙ではないか? でもわれらロマネスク・ファンにとってはちっとも奇妙ではない。なぜならロマネスクに駄作はないから。なぜならロマネスクと呼ばれる時間・空間全体が「聖性」と呼ぶにふさわしい特別の精神性に包まれていたからだ。
柳宗悦はこういう恵まれた時代についてこう書いている。
美の歴史に起こった出来事のうち、最も感嘆すべき事実は、ある時代のある場所では誰が何を、どんなに作っても、悉皆美しくなってしまうような奇蹟がおこっている事である。
例えば西欧では十世紀前後、東洋では漢、六朝にかけて、その芸術を想起すれば、何も明瞭ではないか。どこに醜いものが見いだせるか、誰が醜い作を生んだか、美の世界での目出たい済度が果たされていた事が分る。日本でいえば、飛鳥時代の彫刻が良い例を示そう。醜いものを探しても徒労ではないか。醜いものの方が多い今日の事情と如何に対蹠的であろう。(柳宗悦『美の法門』)
江戸時代の北東北でも「悉皆美しくなってしまう奇蹟」がおこったのだろうか? もしかしたら、あの偉大な縄文土器の美が、蝦夷の人々によって守り伝えられたのでは?
勝手な空想はともかく、美を敵視し、<奇抜>と<創造>が混同される現代芸術に疲れた今日の美術愛好家にとって、自己とか個性とかのこだわりのない自由な表現がどれほど美しいかを、あらためて知る展覧会になるだろう。
(2024/02/15)