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12月の3公演短評|齋藤俊夫

2023年12月の3公演の短評。

♪J-TRAD Ensemble MAHOROBA 色不異空――一柳慧の記憶と共に
♪ミニマリズムとその周辺~スティーブ・ライヒを中心に
♪B→C257 バッハからコンテンポラリーへ 新野将之パーカッション

Reviewed by 齋藤俊夫(Toshio Saito)

♪J-TRAD Ensemble MAHOROBA 色不異空――一柳慧の記憶と共に→演奏:演目
2023/12/1@トーキョーコンサーツ・ラボ

演奏曲目の作曲年で一目瞭然であるが、今回取り上げられた演目は実に1972年から2023年の50年以上のスパンがあり(編曲物の『ピアノ・メディア』を別にすると約40年)、作曲者の生年に至っては約60年の隔たりがある。となると作曲者と作品の時代ごとに異なる音楽となるのは必定であり、そこに本コンサートの聴きどころがある。
『ピアノ・メディア』を別にしての最古の作品である石井眞木『魄=この世に残り留まる心霊』と最新の杉山洋一『炯然独脱』や森円花『三番叟』とを比較すると、石井の音楽の肩の強張り方と杉山、森のこだわりのない自由さがよくわかってくる。同じ80年代でも高田新司『涅槃 NEHAN』ではあまりそう感じなかったのだが、「西洋前衛的」な書法と「日本的」な書法とのぶつかり合い、緊張関係が石井の音楽を一面では格調高くし、また一面では格式張ったものとしている。それに対して2020年代の2作品は自らの書法に迷いがなく、一面では自由自在に、また一面では自分の伝統文化の固有性を失っている。どちらが良い悪いという判定はしないが、〈筆者の世代〉としては2020年代の2作品に親しみがあると感じた。
高橋悠治『瞬庵―勅使河原宏の追憶に―』は邦楽器と朗唱の一音一音が揺るぎなく配置され、厳しく、また優しく、またなよやかに、と楽想を繋げた佳品。高橋の〈耳〉の良さを改めて感じさせられた。
だが最後に、プログラムに1つ言いたいことがある。一柳慧の傑作〈ピアノ独奏曲〉たる『ピアノ・メディア』の邦楽合奏編曲版を演奏するのは確かに面白く有意義であり、編曲も演奏も卓抜していたことは否定しないが、一柳自身が書いた〈邦楽作品〉を1曲も演奏しなかったのは「一柳慧の記憶と共に」という副題がありながらむず痒く惜しく感じたことを記しておきたい。

♪ミニマリズムとその周辺~スティーブ・ライヒを中心に→演奏:演目
12/7@杉並公会堂小ホール

これは困ったことになった。筆者には前半のジェームズ・テニーと後半のスティーブ・ライヒがどうしても繋がって聴こえなかったのだ。企画者はコンセプト的にこの2人を繋げて考えたようだが、筆者の直感的にはそう受け止められない。「そのストイシズムこそが、反復語法を「ミニマル音楽」のうちに留め、ライヒを特別な作曲家としているのである」「究極のストイシズムの果に啓かれる愉悦。それこそが、現代音楽の演奏家がライヒに取り汲む(引用ママ)意味、ということになるに違いない」企画者・石塚潤一氏によるプログラムに記載の「真正のポストミニマル音楽を目指す スティーブ・ライヒ作品の解説に代えて」からの引用である。前衛・実験音楽のそのドグマと化したストイシズムの故に陥った袋小路に対して、それとは別ベクトルのライヒのストイシズムこそがミニマルミュージックの真骨頂である、と言うのには概ね賛同するが、しかし、ライヒのストイシズムに伏在していたもの、ライヒのストイシズムを方向転換させたなにかがマイケル・ナイマンやフィリップ・グラス、ジョン・アダムズ、そして今(どこかの世界を)席巻中のポスト・クラシカルの諸作曲家を〈解放〉したことはライヒの罪な事実ではないだろうか。
いずれにせよ、筆者はテニーの音楽に現代音楽の袋小路を聴き取り、ライヒの音楽にそれとは反対ベクトルの解放を聴き取った。
では鈴木治行をどう聴きどうミニマリズムと関連づけたかと問われると、鈴木も「反復もの」という形で直感的かつコンセプチュアルな「反復」作品をものしている点で、石塚氏の言うライヒの系譜にテニーよりもより近しい作曲家、コンセプトをストイックに音楽化する作家、つまり石塚氏の言うところのミニマリストであると捉えた。
しかし、ライヒを現代音楽のプログラムの中に入れるとそれだけで「みんな持っていかれる」ので、キュレーションは難航に難航を伴うことは想像に難くない。このシリーズの次回はどうなるのか、楽しみに待ちたいと思う。

♪B→C257 バッハからコンテンポラリーへ 新野将之パーカッション→演奏:演目
12/12@東京オペラシティリサイタルホール
バッハの平均律クラヴィーア曲集第1巻前奏曲第1番を中心に組み立てた前半も魅力的だったが、筆者が考えさせられたのはバッハのコラール『目覚めよと呼ぶ声が聞こえ』から権代敦彦の2作品が並んだ後半であった。バッハのこのコラールを基にした権代『Vigilate!』は筆者にも違和感なくその宗教性を感じ得たのだが、新野が般若心経を唱えながら打楽器群を叩く『Gone,gone,gone beyond』には強烈な違和感を禁じ得なかったのである。何故なのか?
おそらく、宗教にはそれぞれ「教理としての宗教」「社会制度としての宗教」というもつれ合う2側面の重なり合う所に「様式(スタイル)としての宗教」というものがあるのだろう。教会建築でお経を唱えるようなこと、それが様式(スタイル)としての宗教への背理として今回感じられた、と筆者は捉えた。黛敏郎『涅槃交響曲』、伊福部昭『交響頌偈釈迦』といった日本の宗教的現代音楽作品と本作の相違点は西洋と日本、キリスト教と仏教の宗教的様式を無碍にして良いものかどうか、ある意味で西洋リベラリズムと日本保守主義の対立点に位置するものではないだろうか。
誰が言ったか定かではないが、「異教徒を愛せなければ人類に未来はない」という言を聞いたことがある。しかして今回の権代の作品は「異教徒を愛する」こととして妥当なのか、あるいは筆者が保守的過ぎるのか、重い課題を背負った気がする。

(2024/1/15)

♪J-TRAD Ensemble MAHOROBA 色不異空――一柳慧の記憶と共に
2023/12/1@トーキョーコンサーツ・ラボ

<出演>
三味線・胡弓:本條秀慈郎
三味線・胡弓:本條秀英二
尺八:川村葵山
箏・二十五絃箏:木村麻耶
箏・十七絃箏:吉澤延隆
邦楽囃子:堅田喜三郎
<曲目>
森円花(1993-):『三番叟』(2021)
高橋悠治(1938-):『瞬庵―勅使河原宏の追憶に―』(2001)
石井眞木(1936-2003):『魄=この世に残り留まる心霊』(1985)
杉山洋一(1969-):『炯然独脱』(2023世界初演)
高田新司(1945-):『涅槃NEHAN』(1989)
一柳慧(1933-2022)(中村匡寿(1994-)編曲):『ピアノ・メディア』(原曲1972年)

♪ミニマリズムとその周辺~スティーブ・ライヒを中心に
12/7@杉並公会堂小ホール

<演奏>
クラリネット:岩瀬龍太
ピアノ:川村恵里佳
エレクトリックギター、電子楽器(トモミン)、指揮:山田岳
パーカッション:安藤巴
フルート:梶原一紘
エレクトロニクス:佐原洸
コントラバス、エレクトリックベース:佐藤洋嗣
ギター、エレクトリックギター:土橋庸人

<曲目>
ジェームズ・テニー:『スウェル・ピース』
ジェームズ・テニー:『シーガーソング#1』(日本初演)
鈴木治行:『Whirligig』(世界初演)
スティーブ・ライヒ:『エレクトリック・カウンターポイント』
スティーブ・ライヒ:『ニューヨーク・カウンターポイント』
スティーブ・ライヒ:『2×5』(日本初演)

♪B→C257 バッハからコンテンポラリーへ 新野将之パーカッション
12/12@東京オペラシティリサイタルホール
<演奏>
パーカッション:新野将之
パーカッション:悪原至(*)

<曲目>
シドニー・ホドキンソン:『ケルベロス――コンサート・スネアドラムのためのエチュード』(スネアドラム)
J・S・バッハ:『平均律クラヴィーア曲集第1巻』から「前奏曲第1番」ハ長調BWV846(マリンバ)
ペア・ノアゴー:『ザ・ウェル・テンパード・パーカッション』(キーボード・パーカッション・デュオ)(*)
ペア・ノアゴー:『易経』(マルチパーカッション)
J・S・バッハ:カンタータ第140番『目覚めよと呼ぶ声が聞こえ』BWV140から「シオンは物見たちが歌うのを聞く」(マリンバ)
権代敦彦:『Vigilate!』――世の終わりのためのコラール――マリンバのためのop.190
権代敦彦:『Gone,gone,gone beyond』パーカッション・ソロのためのop.192(委嘱新作、世界初演)(マルチパーカッション)
新野将之:『蠢』(スネアドラム)
(アンコール)ユージン・ノヴォトミー:『ミニッツ・オブ・ニュース』(スネアドラム)