芥川也寸志メモリアル オーケストラ・ニッポニカ第43回演奏会《社会への眼差し》|齋藤俊夫
芥川也寸志メモリアル オーケストラ・ニッポニカ第43回演奏会《社会への眼差し》
Orchestra Nipponica the 43rd Concert
2023年11月12日 紀尾井ホール
2023/11/12 Kioi Hall
Reviewed by 齋藤俊夫(Toshio Saito)
Photos by 澁谷 学/写真提供: 芥川也寸志メモリアル オーケストラ・ニッポニカ
<演奏> →foreign language
指揮:野平一郎
チェロ:横坂源(*)
ソプラノ:竹多倫子(**)
管弦楽:芥川也寸志メモリアル オーケストラ・ニッポニカ
<曲目>
池辺晋一郎:『悲しみの森』オーケストラのために(1998)
吉松隆:『鳥のシンフォニア(若き鳥たちに)』(2009)
(ソリスト・アンコール)J. S. バッハ:無伴奏チェロ組曲第2番ニ短調 BWV1008より第4曲サラバンド
三善晃:『谺(こだま)つり星〈チェロ協奏曲第2番〉』(1996)(*)
林光:『第三交響曲〈八月の正午に太陽は…〉』(**)
音楽家と音楽が社会政治と完全に切り離されることは――少なくとも現代においては――ありえない。クセナキスのあの轟音に彼が青春期に聴いたギリシアの災禍を重ねることは適当であろうし、ロマン派的人間像・芸術像から無限遠に離れたはずのシュトックハウゼンがその実メビウスの輪を一周したかのように奇形化した人間的・社会的芸術にたどり着いたのがかの『ヒュムネン』であるとも言える。今回のオーケストラ・ニッポニカ第43回演奏会は「社会への眼差し」と題されていたが、そこに現れた現代音楽は現代社会とどう対峙していただろうか。
社会と切り結ぶ姿勢を最も直截的に見せたのは林光『第三交響曲〈八月の正午に太陽は…〉』であろう。中国における1919年5月4日の五・四運動と1976年4月5日の四・五天安門事件、そして1989年6月4日の六・四天安門事件を重ね合わせて凝視した抵抗の音楽と言える1)。ショスタコーヴィチ交響曲第4番のように弦楽器が鋭く空気を刻む第1楽章、アッタッカで奏される第2楽章は一旦静まるもやがて不穏に膨らみまたショスタコーヴィチ的な負のファンファーレが禍々しく輝き、荒涼とした風景に虚無の風が吹く。さらに続く第3楽章ではソプラノ竹多倫子が中国の詩人北島(ペイ・ダオ)の詩『回答』を凄まじい圧力で歌い迫る。
私は信じない 空が青いことを
私は信じない 雷のとどろきを
私は信じない 夢が嘘だということを
私は信じない 報いのない死など
この詞の末尾に宿る真っ直ぐな正義の姿勢はショスタコーヴィチ、特に晩期の交響曲第14番、第15番のアイロニカルな姿勢とは正反対のものであろう。だが、林は現実世界においてこの正義を〈信じる〉ことができたのだろうか。虚無的な管弦楽の結末――それはショスタコーヴィチ交響曲第15番に似ている――を聴いて筆者は林の心の底にある澱に触れた気がした。
社会的であることは――逆説的かもしれないが――人間的なことでもあり、人間的であることの最果てには生と死の絶対的断絶が存在する。三善晃『谺(こだま)つり星〈チェロ協奏曲第2番〉』の強迫観念の塊のような横坂源のチェロ独奏を聴くことはその断絶の淵を覗き込むような体験だった。独奏チェロが無の中から投げかけた音が管弦楽の中で谺するように響くが、もといた無へと帰っていく。管弦楽と独奏がエクリチュールの妙技を超えて乱反射するように鳴り響き谺し続けても最終的に無に帰着するその様は筆者にはひどく悲しい真実のように感じられた。人間とは、そのような存在だったのか、と。
誰が言ったか失念したが、「知性のゆえに悲観的であるが、意志のゆえに楽観的である」という言葉を聞いたことがある。吉松隆『鳥のシンフォニア(若き鳥たちに)』はこの意志を体現した音楽と言えよう。鳥の群れが鳴き交わしつつ一斉に飛び立つ第1楽章、ポスト・ミニマル的反復書法で軽やかに踊る第2楽章、鳥と言うには巨大過ぎるかもしれないが渋いジャズのようなダンディズムがカッコいい第3楽章、甘い吉松節がとろけるように耳に届く第4楽章、子供向けテレビ番組のヒーロー登場シーンに被さる音楽のような第5楽章、と、作曲者がこの世界の未来を担う子供たちへの希望を載せた音楽が響いた。
だが、この吉松の希望は、この評の曲順が前後逆になっているように、あらかじめ裏切られていたように筆者には聴こえた。地球上至る所で虐げられし――虐殺されし?――森への想いを描いた池辺晋一郎『悲しみの森』の悲しい静けさから湧き立ち鳴り響く怒りの形相、それは地球を形作る人間以外の存在全て――その中には森に生きる鳥たちもいる――の心を表している。地球の怒りと捉えざるを得ない昨今の異常気象の中で、人間は赦されない存在なのだろうかと悲観的な思いに捉えられる。その意志を楽観的に信じるにはあまりにも人間は愚か過ぎる。ミャンマーで、ウクライナで、パレスチナで、人間同士の殺し殺され合いを延々と続けている間に地球は人間に引導を渡すのではないか。
人間は社会的生物であり、社会を成さなくては存在し得ない。だが、その社会の基盤となる地球を破壊し、さらに社会構成員たる人間同士で殺し合うこの現代の先に未来はあるのか。我々の意志はどこまで信じられるのか、本演奏会最後に聴いた林作品の虚無的な末尾を耳にして、筆者は心重くならざるを得なかった。
1)〈八月の正午に太陽は…〉のタイトルは、第3楽章の詩『回答』の作者・北島(ペイ・ダオ)の別作「八月の夢遊病者」に拠る(『林光の音楽 作品ガイド』小学館、2008年、044頁)。
(2023/12/15)
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<players>
Conductor: NODAIRA Ichiro
Violoncello: YOKOSAKA Gen(*)
Soprano: TAKEDA Michiko(**)
Orchestra: Orchestra Nipponica
<pieces>
IKEBE Shin-ichiro: Les bois tristes: pour orchestre
YOSHIMATSU Takashi: Sinfonia in Birds “for the birds of youth”
MIYOSHI Akira: Étoile à échos: cello concerto no.2(*)
(Soloist encore)J. S. Bach:Sarabande from Suite No.2 in D Minor, BWV1008
HAYASHI Hikaru: Third symphony “At noon, the August sun…”(**)