サントリーホールサマーフェスティバル2023 8/26~27|齋藤俊夫
サントリーホールサマーフェスティバル2023 8/26~27
Suntory Hall Summer Festival 2023 8/26~27
2022年8月26~27日 サントリーホール大ホール
2022/8/26~27 Suntory Hall Main Hall/Blue Rose
Reviewed by 齋藤俊夫(Toshio Saito)
Photos by 池上直哉/写真提供:サントリーホール
♩8/26 大ホール →foreign language
第33回芥川也寸志サントリー作曲賞選考演奏会
<演奏>
指揮:石川征太郎
新日本フィルハーモニー交響楽団
尺八:黒田鈴尊(*)
三味線:本條秀慈郎(*)
話し手:塩沢 糸(**)
<曲目>
第31回芥川也寸志サントリー作曲賞受賞記念サントリー芸術財団委嘱作品
桑原ゆう:『葉落月の段』(世界初演)(*)
第33回芥川也寸志サントリー作曲賞候補作品
田中弘基:『痕跡/螺旋(差延II)』
向井航:『ダンシング・クィア』(**)
松本淳一:『忘れかけの床、あるいは部屋』
第33回芥川也寸志サントリー作曲賞 選考および表彰
選考委員:稲森安太己/小鍛冶邦隆/渡辺裕紀子
司会:白石美雪
まずは一昨年の受賞者・桑原ゆうの尺八、三味線の二重協奏曲『葉落月(はおちづき)の段』。タイトルと独奏者からして武満徹『ノヴェンバー・ステップス』を意識していることは間違いない、と筆者は判断した。さて、その音楽は……どうにも煮えきらない。紗のような薄い音のベールをオーケストラが舞台にかけ、それを尺八と三味線が斬る!といった展開が続くが、この「斬る」瞬間は音が鋭く光るのだがそれが次の楽想に受け渡されていくことがない。そしてオーケストラがあまり活躍しない(ここは武満に似ていると筆者は感じた)。腕を束ねて聴いて、エピローグと思われる所で尺八と三味線が弱音からクレッシェンド、オーケストラも合わさってフォルテに至り、全員でディミヌエンドして了。うーん、煮えきらない。
以下、今回のノミネート作品。
田中弘基『痕跡/螺旋(差延II)』、「音楽は思想で作るものではなく音で作るものだ」とは伊福部昭の言であるが1) 、このような言に(知ってか知らじか)挑戦する所に若さが感じられるとも言える。さて、どのように筆者は聴いたかというと、何を聴いたのかわからない。色んなパートで色んな音型が順列組み合わせを延々と続け、それで何を聴かせたいのかわからない。それでいて新味はない。この作品でも筆者はまた腕を束ねて若者の感性とどう向き合うべきか考えこんでしまった。
向井航『ダンシング・クィア』、拡声器を持った英語話者の話し手とオーケストラのための本作は、これも田中作品と同じく伊福部の主義とは異なる音楽観に基づくと言えるかもしれない。だが、抽象的概念による思想と、生きた人間による政治には大きな隔たりがある。後者は人間という生命・肉体・声あるものによる営為だ。それゆえに政治は生命的に音楽と繋がりうる。逆に音楽もまた政治と繋がりうる。音楽の持つ、人を結びつける力ゆえに。本作では「ヴォーグ」という、クィア・ムーヴメントの象徴的位置にあるダンス・ミュージックが、発声器による英語のスピーチ、そしてオーケストラと舞台上で融合・転回しつつエネルギーを高め、スピーチの頂点たる”You are not alone”というメッセージの反復と共に爆発的な終結を迎える。力強い!若い!
松本淳一『忘れかけの床、あるいは部屋』、スコルダトゥーラ(弦楽器の調律を通常のものとずらす手法)グループ単体と、それと通常調律オーケストラの合奏がそれぞれ織りなす音響が常人のものではない(褒め言葉)。音高のズレと共に、ポリリズムというか、ポリテンポとでも言うのであろうか、縦の線が全く合わないところなどこちらの感覚が乱れまくる。だが惜しむらくは、この音の共時的な「縦」の面白さに対して、経時的な「横」に力がなかったことである。プログラムノーツでは「床」「部屋」という構造上の面白そうな仕掛けが述べられているのであるが、残念ながら筆者にはそれらは感得できなかった。
体力的にもたず、筆者は選考会は見ずに帰宅。第33回受賞者・受賞作は向井航『ダンシング・クィア』であった。筆者も同感である。
♩8/27 大ホール →foreign language
ザ・プロデューサー・シリーズ 三輪眞弘がひらく ありえるかもしれない、ガムラン
<曲目、演奏>
藤枝守:『ピアノとガムランのためのコンチェルトno.2』(世界初演、サントリーホール委嘱)
piece I
piece II
piece III
piece IV
ガムラン:マルガサリ
ミニピアノ:砂原悟
宮内康乃:『SinRa』(世界初演、サントリーホール委嘱)
I. 水
II. 風
III. 地
ガムラン:マルガサリ
声:つむぎね
ルバブ:ほんまなほ
ホセ・マセダ:『ゴングと竹のための音楽』
ガムラン:マルガサリ
指揮:野村誠
龍笛:伊﨑善之
コントラファゴット:中川日出鷹
打楽器:中谷満と「相愛大学打楽器合奏団」
東京少年少女合唱隊
小出稚子:『Legit Memories(組曲 甘い記憶)』(世界初演、サントリーホール委嘱)
ウェダン・ロンデ
ロティ・バカル
クラパ・ムダ
エス・ブア
ピサン・ゴレン
ガムラン:マルガサリ
歌:さとうじゅんこ
サクソフォーン:植川縁
野村誠:『タリック・タンバン』(世界初演、サントリーホール委嘱)
ガムラン:マルガサリ
ウイスキーボトル:だじゃれ音楽研究会
相撲(すもう):岩本真輝
相撲(すまい):佐久間新
声:鶴見幸代
ルバブ:ほんまなほ
合図:野村誠
合唱:東京少年少女合唱隊
まず、8月27日サントリーホール大ホールでの本公演以外のザ・プロデューサー・シリーズには、筆者は体力上無理があると判断して行かず、もし他の公演・イベントを鑑賞したならば評価・批評内容が180度変わっていたかもしれないことをお断りしておく。
日本人によるガムラングループ「マルガサリ」をフィーチャーし、日本人4人に委嘱初演をした今回の「ありえるかもしれない、ガムラン」は、日頃「人間すべからく好奇心にて動くべし」と心得て動いている筆者の食指を、聴く前から大いに動かすものであった。
まず藤枝守『ピアノとガムランのためのコンチェルトno.2』、トイピアノとは異なり、小さいが本格的な構造を持った「ミニピアノ」(調律を通常のものからガムラン用に変えている)を中心に据えて奏でられる全4曲の穏やかな音楽。第3曲の雨後の日差しのような響き、第4曲の陽は沈んだがまだ夜ではない時刻の涼風のような響き、なんと南方的にファンタスティックなことか。
宮内康乃『SinRa』、聴衆に「sh」「ch」「k」それにオノマトペなどを発声させるイントロダクションは熱帯雨林の夜のイメージを思い起こさせるものであろうが、筆者個人的には子供の頃の故郷、蛙たちの鳴く夕刻を想起した。聴衆の発声が終わるとガムランとルバブ(擦弦楽器)と「つむぎね」による合奏・合唱(合声?)が複雑に絡み合う。その中にダンサーが入り込み、夢を見ているかのような感覚をおぼえつつ了。
ホセ・マセダ『ゴングと竹のための音楽』、マセダと言えば計算され尽くした上での有機的に伸び縮みする合奏だが、本作も様々な由来・歴史を持った複数の文化圏の楽器・声楽が緩く繋がり合って現れた。竹のガムラン、金属のガムラン、龍笛、コントラファゴットが厚い音の壁を作るが、これは古風な感触。そこに児童合唱が重なるとこちらはハイカラな感触。日本?フィリピン?インドネシア?みやびなのは間違いない。蕪村、許六、一茶、そして芭蕉の歌で完結する。
小出稚子『Legit Memories(組曲 甘い記憶)』、正直、この作品には違和感が終始つきまとった。ガムランに、さとうじゅんこによる日本語とインドネシア語混淆の歌と植川縁のサクソフォーンが合わされるのだが、「これを単純素朴に楽しんで良いのだろうか」と思わざるを得なかった。
pelogとslendro―ガムランの2つの音階を行き来し、時には重なる―、barang miring―”傾く”という意味を持ち旋法構成音以外の音を加え陰影をもたらす手法を応用する―、西と東―西の楽器であるSaxophone、ジャワと西洋の両方のスタイルを行き来する歌い手、そして伝統の枠組みをじわじわと拡張してゆくガムラン―、母国語と外国語―日本語とインドネシア語―、歌曲と器楽曲―LanggamとInterlude―など、できるだけ境界をぼかし、各々の音楽世界の濃度を濃くしたり薄くしたりすることで様々な世界への滑らかな接続を試みています
(小出稚子プログラム・ノートより)
ここに明言された「様々な世界への滑らかな接続」を見田宗介なら「『普遍』からの疎外」ではなく「『普遍』への疎外」と呼んだのではなかろうか? 華やかな終曲を聴きつつ、周りの人が皆本作を楽しんでいるであろう中、筆者は何かバツの悪さを感じていた。
そして最後の野村誠『タリック・タンバン』(インドネシア語で「綱引き」の意)、これはなんというか、言語に尽くしがたい問題作―ただし大いに笑ってしまう―であった。野村の「だじゃれ音楽」のコンセプトにより、「繋がらないものを繋」いで構築された音楽劇。サントリーのウィスキーの瓶を叩きながら行列する1団が現れたり、相撲甚句に誘われて現れた本物の相撲取りとダンサー(が化粧まわしのようなものをつけている)が取り組んだり、「かたやスレンドロ、こなたペロッグ」(スレンドロとペロッグはガムランの調律の種類)で綱引きをしたり、どこまでがガムランでどこからがガムランでないのか、何が何と繋がっているのか皆目わからないが破顔一笑を誘われる大作であった。
筆者含め会場の皆が笑顔で帰路についた、と思ったが、後日、自身インドネシア滞在経験のある打楽器奏者の會田瑞樹氏(以下敬称略)のブログの以下の記事を読んだ。
「だが、なぜガムランなのか。 邦楽は?オーケストラは?」
「ガムラン楽器を使って、エゴイズムを表出するのはあまりにも杜撰ではないのか。逆を考えてみたら、どうだろう。どんな気持ちが、私たちはするのだろう。」
音楽がエゴイズムを表出するものかどうかはひとまず置くが、音楽が政治・権力――文化(産業)もこれと結びついている――的勾配に支配され、その勾配を高めるものであってはならないことは至極当然のものとして感じられる。「なぜガムランなのか」に対する答えがガムランが日本――インドネシアの文化産業的勾配ゆえにならば、それはすでにガムランである意義はない。
本企画プロデューサーの三輪眞弘の文章(ザ・プロデューサー・シリーズに寄せて ありえるかもしれない、ガムラン ― Music in the Universe ―)から引くと、彼が既に會田のような批判を下されるかもしれないことを予感していたことがわかる。さらにその批判に対する、彼の〈希望〉も記していたことも。
僕がインドネシアで聞いたガムランがまさに人々が生きる空間で営まれる共同体の音楽であったのに対して、外部環境から完全に遮断されたコンサートホールで発表されるガムランの「新作初演」は、あくまでも西洋音楽の「枠組み」の中で行われるものだ。そこでは、メディア装置を介して鑑賞される音楽や映像「作品」同様、それらも物珍しい「コンテンツ」にしかならないのではないか。(略)
…そうかもしれない。しかし、これからはそうではないのかもしれない。今、僕と同じ時空を生きる作曲家たちが試みる「ガムランの新作」が聞きたい。(略)彼らはガムラン音楽を好奇の目で見るわけでもなく、ごく自然にガムランに学び、みずからの表現に結びつけている。(後略)
だが、三輪のこの希望は(小出作品評で用いた)「『普遍』への疎外」に抗し得るだろうか。「普遍」という形をとって全てを均していく文化産業に対してこの〈希望〉はあまりにも抽象的で漠然としてはいないか。
筆者は(會田の本作品への評価はわからないが)野村誠の「だじゃれ音楽」に「普遍」への抵抗の可能性を見る。
異文化が入り込めるヨソモノにオープンなガムランがやりたい。「相互にケアする」というガムランのエッセンスを残しながら、色々な入口のある風通しのよいガムランでありたい。作曲した音楽を自分という壁で囲い込まないこと。(『タリック・タンバン』(2023)[世界初演]プログラム・ノート)
「普遍」を偽る文化産業の基本的攻撃法は〈囲い込む〉という手段である。劇場に、音盤に、インターネットに、階級、国籍、人種などの分断と一体となって〈コンテンツ〉を囲い込む、それが文化産業の攻撃である。それに対して〈作品〉でありながら「色々な入口のある風通しのよいガムラン」の可能性――「だじゃれ音楽」の「ガムラン」――を探求する、筆者はここに野村の生涯の賭けを見る。制度としての、産業としての音楽を脱して、〈音楽ならざるがゆえに真に音楽〉な何物かの夢を見る。
芥川也寸志作曲賞、ザ・プロデューサー・シリーズ、共に音楽の可能性を巡る葛藤と希望を同時に体験できる貴重な機会であった。
(2023/9/15)
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♩8/26 Main Hall
The 33rd Competition of Yasushi Akutagawa Suntory Award for Music Composition
<players>
Conductor: Seitaro Ishikawa
New Japan philharmonic
Shakuhachi: Reison Kuroda(*)
Shamisen: Hidejiro Honjo(*)
Speaker: Ito Shiozawa(**)
(Commissioned Work of The 31th Competition of Yasushi Akutagawa Suntory Award for Music Composition)
Yu Kuwabara: Falling Leaves Moon Steps(*)
(Nominated Works for the 33rd Competition of Yasushi Akutagawa Suntory Award for Music Composition)
Hiroki Tanaka: Trace/Spiral(Différance II)
Wataru Mukai: DANCING QUEER(**)
Junichi Matsumoto: Half-Forgotten Floors, or Rooms
Open Screening (Miyuki Shiraishi, MC)
Yasutaki Inamori/ Kunitaka Kokaji/ Yukiko Watanabe
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♩8/27 Main Hall
The Producer Series MASAHIRO MIWA
Music in the Universe
Mamoru Fujieda: Concerto for piano and gamelan no.2 [World Premiere, commissioned by Suntory Hall]
Piece I
Piece II
Piece III
Piece IV
Jawa Gamelan: Marga Sari
Satoru Sunahara, Mini Piano
Yasuno Miyauchi: SinRa [World Premiere, commissioned by Suntory Hall]
I. Jala
II. Vayu
III. Prithvi
Jawa Gamelan: Marga Sari
Voices:Tsumugine
Rebab: Naho Homma
José Maceda: Music for Gongs and Bamboo
Conductor: Makoto Nomura
Jawa Gamelan: Marga Sari
Ryuteki: Yoshiyuki Izaki
Double Bassoon: Hidetaka Nakagawa
Percussion: Mitsuru Nakatani and “Soai University Percussion Group”
The Little Singers of Tokyo
Noriko Koide: Legit Memories [World Premiere, commissioned by Suntory Hall]
I. Langgam “Wedang Ronde” Slendro
II. Interlude “Roti Bakar” Slendro & Pelog
III. Langgam “Kelepa Muda” Pelog
IV. Interlude “Es Buah” Slendro & Pelog
V. Langgam “Pisang Goreng” Slendro
Jawa Gamelan: Marga Sari
Vocal: Junko Satoh
Saxophone: Yukari Uekawa
Makoto Nomura: Tarik Tambang [World Premiere, commissioned by Suntory Hall]
Jawa Gamelan: Marga Sari
Whisky Bottles: Dajare Music Community Band
Sumo: Masaki Iwamoto
Sumai: Shin Sakuma
Voice: Sachiyo Tsurumi
Rebab: Naho Homma
Cue: Makoto Nomura
Chorus: The Little Singers of Tokyo