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進藤実優 ピアノ・リサイタル|秋元陽平

進藤実優 ピアノ・リサイタル
Shindo Miyu Piano Recital

2023年8月12日 トッパンホール
2023/8/12 Toppan Hall
Reviewed by 秋元陽平 (Yohei Akimoto)

<演奏>         →Foreign Languages
進藤実優(pf)

<曲目>
ショパン:スケルツォ第4番 ホ長調 Op.54
ショパン:バラード第4番 ヘ短調 Op.52
ショパン:ポロネーズ第7番 変イ長調 Op.61《幻想》
シューベルト:3つのピアノ曲 D946
リスト:《ドン・ジョヴァンニ》の回想
(アンコール:ショパン:ワルツOp.34-1、マズルカOp.17-4、ノクターンOp.27−2)

 

2021年、第18回ショパン・コンクールをYoutubeで流し聞きしながら、当時生まれて間もない子の世話にかまけて滞った仕事を片付けていたとき、進藤実優の演奏で手が止まった。わたしははじめ、いわゆる陶酔型のピアニストではないかという先入観に身構えたが、ただちに引き込まれ、胸を打たれた。深みをたたえた水面に揺蕩うような、伸びやかで、しかしひそやかな舟歌。その音楽は独創的な歩みをもっているけれども、恣意性はない。むしろ大きな流れに棹さす安らぎを感じる。スターを多く輩出したこの大会だが、わたしの関心のピークは、まだ予感のようなものであったとはいえ、ここにあった。
それから気になって、時折その名前を検索していた。そうしてこのたびの東京公演を見つけたのである。はじめてコンサートホールで演奏に触れて改めて明らかになったのは、進藤実優というピアニストの構えの大きさである。彼女は演奏に「没入」するピアニストではあっても、決して「陶酔」するピアニストではない。大きなルバートや、細かいリズムの変化が音楽に弾みをつけるときも、音楽を演奏家の都合で引き回しているというのではなく、より深いところにある、脈々とながれる歌の地層にアクセスして、その根源の揺らぎから律動を引き出し、それに自らを委ねているようだ。だから彼女の演奏は、情感たっぷりな弾きぶりが与えかねない印象とは裏腹に、個人的なエモーションの表出ではない。もっとおおらかな、大河のようなものに思いを馳せながら、そこで人間の営みと感情を捉え直している。したがって、『《ドン・ジョヴァンニ》の回想』のような技巧的なコンサート・ピースでも、今年2月のリサイタルできらびやかなヴィルトゥオジティに徹したブルース・リウとはまた違った仕方で、つまり、回想そのものがもつ色調、過去の色事を思い出す喜び、改悛、死の予感といった、心の内奥を俯瞰するようにして、音楽を語りだしてゆく。
くみ上げてくる歌の息の長さは、細かい対比が短いスパンでたちあらわれるスケルツォよりも、息の長いバラードやポロネーズで(そしてもちろんシューベルトでも)よりはっきりとしてくる。ときには現代の俊英らしく、色彩を直接触覚的にモジュレートするような映像的な描出に乗り出す(バラード4番、序奏の魔術的な再呈示!)のだが、同時に身体全体を使ってピアノを深々と鳴らしたときの充実感(例えば『ドン・ジョヴァンニ』冒頭)が、根底にある大河的なものを証立てる。重いものがゆっくり動き出すときに相応の摩擦の感覚まで伝わってきて、音楽がひとつの生々しい、切れ目のない運動体として聴衆に与えられる。進藤の演奏のほとんど全域を覆うこうした律動が時代様式、あるいはショパンが楽譜を通して表明した芸術上の意図と随所で一致するかどうかは意見の分かれるところかもしれないが、彼女の音楽に内在するもつれ、うつろい、あるいはためらいといったモメントは、細かい作為からは決して出てこないものだということは強調してもし足りない。だいたい、コンサート会場で音楽を聴く喜びというのは、まさに演奏家が手探りで個人の情感性を超えた深層へと掘り進み、そこに探り当てた時間の厚みの噴出に共に浴する、そうした喜びでなくてなんだというのか。

(2023/9/15)

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<Cast>
Shindo Miyu (pf)

<Program>
Chopin : Scherzo No.4 E-dur Op.54
Chopin : Ballade No.4 F-moll Op.52
Chopin : Polonaise No.7 Es-dur Op.61 “Fantasy”
Shubert : 3 Klavierstück D946
Liszt : Réminiscences de Don Juan
(Encore : Chopin : Valse Op.34-1, Mazurka Op.17-4, Nocturne Op.27-2)