評論|西村朗 考・覚書(33)室内オペラ『絵師』(2-2) 『絵師』草津公演(能版)|丘山万里子
西村朗 考・覚書(33)室内オペラ『絵師』(2-2) 『絵師』草津公演(能版)
Notes on Akira Nishimura(33) “ESHI” (2-2) (Der Maler) Kammeroper für Sopran, Kammerensemble, eine Tänzerin und drei Tänzer
Text by 丘山万里子(Mariko Okayama)
草津公演は能様式になっており、陣容は以下。
能:観世榮夫、清水寛二、西村高夫、柴田稔
ソプラノ:畑田ひろみ、指揮:飯森範親
演奏:ピアノ/碇山典子、ヴァイオリン/高木和弘、ヴィオラ/百武由紀、チェロ/苅田雅治、フルート/西田直孝、クラリネット/亀井良信、打楽器/永曽重光
以下、ハンブルク版にならい、全8景の大まかな流れを記す。
舞台向かって右手に演奏陣、ソプラノ、指揮者が並び、そこに能装束の弟子、絵師、将軍、娘がすり足で静かに入ってくる。中央の牛車の左右に2人ずつ分かれ座す。
ハンブルク版は影に加え奏者も移動とステージ自体が目まぐるしく、カメラもそれに応じて忙しいが、こちらは歌手や演奏より演者が主となっており、音楽が背景になるのは否めない。とりわけ能面のアップは頻繁で筆者はその変化に震撼したが、実際の舞台でそれを読み取るのは最前列でもない限り難しかったのではないか。実のところ筆者は草津でおそらくこの上演を観劇しているのだが、松村禎三の歌曲初演が眼目であったのでメモもなく、印象もほとんどない。ビデオを見て、そういえば歌舞伎演出みたいな炎が上がったな、とか、その能仕立てに「当世ありがち」とハナから片付けた記憶がよみがえった次第。当時の筆者と今の筆者では天と地の差があるかどうかは分からないが、聴取とは全き個的体験で、さらに間に「録画」という人為が入るのであれば、いかにスコアを手掛かりにしようと、聴覚より視覚に引きずられることはお断りしておく(ハンブルク版も同様)。
[Ⅰ]将軍のモノローグ
冒頭、大太鼓の一撃と鈴の一振り、鋭いpicc.ソロ(横笛そのもの)に、将軍がゆっくり立ち上がり一歩一歩と進む。眩い黒と金の装束に鬼面1)の将軍、ハンブルクとはまるで異次元・異空間が現出する。一呼吸のち、sop.の「炎(かぎろい)よ かぎろいよ たて」。
将軍はゆるりゆるりと団扇とともに舞い続けるから、そればかりを追ってしまう。ハンブルク版は将軍、ダンサー、器楽奏者などスコアに添って動くので、こちらはこちらであちこちに気が行く、といったあんばいであった。
ちなみに能版でのsop.急上昇急下降、はたまた尺八のごとき揺らしヴォカリーズがなんとも表現主義的に強調されて聴こえるのに驚く。あるいは、第9節からの「さがれ!さがれ!悪霊ども、うせよ!」とともに、くるりくるり緩やかに回転する将軍の舞(団扇や袖を翻し)がティンパニ3の連打によってアッチェルランドしてゆくのに引きずり込まれたりもする。最後の「女たちよ、我に その身を捧げよ!アーッハッハッハ・・・!」では、将軍の鬼面アップに、高音で吼えるがごときsop.が実に生々しく迫ってくる。
筆者は今年正月に能『翁』を見にゆき、舞台最前列の席であったので、三番叟の「鈴ノ段」で黒い翁の黒式尉(こくしきじょう)の面が間近に迫るのに背筋がぞわっとした。その迫力たるや尋常ではなく(そもそも筆者は面が怖い)、なるほど能とはこういうものかと思ったのである。ついでに言うと、この『翁』では『紫苑物語』での例のフレーズ「とうとうたらりたらりら。たらりあがりららりとう。」がシテでまず唱えられる。これについては『紫苑物語』であらためて触れる。
[Ⅱ]良秀の娘のモノローグ。三つの和歌の吟詠。
印象的なvibr.とともに静やかに小面2)の娘が舞い出て扇を広げる。鮮やかな花柄と赤の装束が雅に美しい。多彩な打楽器音がすきとおったsop.の吟詠「みずのおもにあやおりみだる〜〜〜」を控えめに彩る。いかにも楚々とした風情。
一)「水のおもにあやおりみだる春雨や山のみどりをなべて染むらん(『新古今和歌集』65)
(水面に綾を乱すように織る春雨が、山の緑をすべて染め上げるのだろうか)
第二句に入る前の器楽間奏で将軍がじわじわ動き出し、舞台一隅に座す。
二)「浅みどり花もひとつに霞みつつおぼろにみゆる春の夜の月」(『新古今和歌集』56)
(春と秋とどちらに心が惹かれるかと申しますと、わたくしは薄藍の空も、桜の花も、ひとつの色に霞みながら、朧ろに見える春の夜の月のすばらしさで、それゆえ春と申します)
ゆったりと舞い続ける娘に寄り添うvc.の箏風ピチカート。
三)
「風かよふねざめの袖の花の香にかをる枕の春の夜の夢」(同上112)
(春の夜、夢からさめると、床を風が吹きかよい、袖は花の香に匂う。そして枕にも花の香り――夢の中でも花が散っていたかのように)
第二、第三の終句「春の夜の月」「春の夜の夢」のしっとりした余韻余情にやはり日本を感じてしまうところだ。終句ののちsolo molto espr.でピッコロ・ソロが高音で空をつんざく。
[Ⅲ]将軍と娘 将軍が娘を手籠にするシーン
A,B:打から開始の器楽序奏部は将軍がcl.ソロにつれて舞う。娘はその前に片膝ついて座す。将軍の「女よ 女よ こちらへまいれ」に応じ、娘も静かに動き出す。
「月に照らされた その美しい黒髪 けがれを知らぬその目、その唇 女よ 女よ その身を我に捧げよ」
将軍が娘の肩に手をかけ、あるいは袖を掴み、周りを巡り、と音数少なくも緊張を孕む音景のなかで舞は「間合い」という古典的時空間を生み出してはいる。が、筆者のような能の門外漢はここらで飽きてしまう。もちろん情景や音楽に伴い、所作がアッチェルランドになったり、将軍の威圧を避けようとする娘(面を扇で隠すなど)など、変化はあるのだが。
「おゆるしを・・・おゆるしを・・・」
「こちらへまいれ!」
「おゆるしを・・・おゆるしを・・・」
「ならぬ!」
C,D: 器楽間奏~ハミング
追う将軍。かわす娘。sop.ハミング(m)にのっての両者の動きは徐々に切迫を強める。さらにsop.「ha~」で娘、くるりくるりと回り跪く。威圧する将軍。ハンブルク版ではここで将軍が娘の頭をまさぐるなど欲情ふんぷん、娘は睨みつけ激しく抗うが、いかんせん能ではそのような直情的な表現はないから、以降の引っ掴んだり殴ったりの暴力シーンも将軍がのしかかるシーンもない。その静けさというか抑制と音(管弦打、とりわけ要所に挟まれる弦の軋み音)などはなるほど間合いそのもので、視聴覚全体としての志向性はやはり能版が自然か、とこのあたりから感じ始める。
ではあるものの、正直、この景は長く感じられた。
[Ⅳ]良秀と将軍 二人の会話
良秀は黄と茶色の装束、尉面3)で前景終尾から姿を現す。ハンブルク版のように猿的挙措は当たり前だが全くない。
「大殿さま お願いがございます」「申してみよ」「なにとぞわが娘をわたくしにお返しくださりませ」「ならぬ!」
打の打ち込みが進行の背を押し、それに伴い良秀が跪く。
良秀が将軍の条件を問う「どのような絵を」に答え、「地獄!地獄の絵を!」のセリフが来る。仁王立ちの将軍が吐くこの「じっ・ごっ・くっ」(見栄を切るような動作で団扇を振りかざす)は、ハンブルク版ほどのインパクトはない。スコアにvoiceless soundの指示があり、息が混じる発声ゆえ聞き取りづらいからだが、sop.は語りの抑揚を細やかに掬い、あるいは演者によって語り口をそれなりに変化させているゆえ、能様式によるドラマトゥルギーを背後に感じる、とも言えよう。ここで娘は退座、舞台後方に座す。
以降、良秀を前に地獄を語る将軍のセリフは抑揚も少なく、次景の器楽序奏へとそのまま繋がってゆく。この景は鬼面の変化にこそ凄みが出るのであろうが、ビデオにそれを読むのはいささか難しい。
[Ⅴ]良秀と弟子
A: 将軍、良秀が下がり、良秀が画紙を手に現れ、さらに縄をかけられた弟子(中将面4)、白と黄色の装束)を連れ出す。最も長い景だが、ハンブルク版のようなリアルな責苦には無論ならない。打の底鳴りする低音波形の中、座した弟子の周りを巡り手にした棒で打ちすえたり、合間の不気味な静寂を背に画紙にむかい筆をとったりを繰り返す。ここではvc.が凄愴な効果をあげ、なかなかに残酷さが飛び散るドラマとなっているのは、この弟子の様相、すなわち所作、面が表情に富んだものであったからだろう。アップにされると半開きの口から苦悶の声が上がるようだし、ガクッと膝を折るところなど、音と共にかなり怖い。
筆者、ここでグイグイと舞台に引き込まれてゆくのである。
B: 良秀の長いモノローグ部分。テクスト部分は1)~5)段落に分かれる。
1)〜2) sop.のff「弟子よ」から「お前を縛り、お前を責める この恐ろしい責苦に耐えよ」
「苦しめ!血を流せ!呻け!悲鳴を上げろ!・・・・この絵のために!」。
弟子は立ち上がり、舞台上を前進後退、回転、足踏みなど激しく動き回る。ビデオではハアハアという演者の喘ぎが面の裏に見える。この種の「奥行き」はハンブルク版の忙しない舞踊では生まれようがない、と思う。
「地獄はこの世のいたるところにある 無数の貧しい者たちは 飢えて死に 病で死に
罪人たちは首をはねられて死に 死者たちの無惨なむくろが この町をおおっている。死の臭いが立ちこめているではないか!」
地獄を描写する語りに、弟子は激しく足踏みし、背後では管弦打が多彩な響きでさらに増幅させる。時折激昂(高音の叫び)するsop.も切り裂くようだ。
3) 良秀独自の地獄観の吐露部分。
「だが 私の絵の地獄は違う この地獄には 富める貴族も僧侶も、神に仕えるものたちも 皆、落ちてくる 紅蓮の炎の中を逃げ惑い、鬼たちに槍で体をつらぬかれ 剣で切られ 髪ひきぬかれ 油で煮られ 怪鳥や龍に噛み裂かれ 無限の苦しみを味わい続ける この地獄には すべての者が落ちてくるのだ!」
再び弟子は立ち上がり、飛んだり跳ねたりダダダンと激昂の足踏み、背後では管弦打が多彩な響きでその所作を増幅させる。
さらに「弟子よ もっと苦しめ 血を流せ うめけ」で、縄を自ら解き放ち袖を広げ、足踏み、つま先立ちでの怪鳥のごとき飛翔(原作に耳木兎に襲わせる話がある)、良秀に詰め寄る、など大活躍で、音響もまたこれを煽る。良秀は座しつつ抑制ある反応。この辺りの凄みはさすが、と感服である。
さて、内容的にもここがキモと筆者はハンブルク版で指摘した。すなわち階級貧富に関わらず「富める貴族も僧侶も、神に仕えるものたちも 皆、落ちてくる」という良秀の地獄観が示され、それは最終景のモノローグの決定的なセリフに繋がるからだ。すなわち、
「あなたの地獄はまた別の地獄 絵には描けぬ もっと恐ろしい地獄だ(中略)
あなたの地獄 その地獄の名は“虚無”」
その意味で、人間の業苦についての語り4) に続く器楽のみによるC, 最後の Dでのモノローグ5)「ああ、だが...この絵の中に描けぬものが一つある それは美しい布の 簾をたらした牛車〜〜(中略)若く高貴な娘が乗り 娘の髪も体も 炎に焼かれようとしている それが描けぬ!描けぬ!」(ここでのsop.は比較的淡々と語り、最後の「描けぬ!」で高揚)に至るこのⅤ景の持つ迫力は耳目ともに緊迫が食い入ってくるものであった。
[Ⅵ]将軍、良秀とその娘、牛車炎上のシーン。
良秀はそのまま舞台に座し、将軍が団扇と松明(火のついた棒)を手に中央に出てくる。ややあって衣で面を隠した娘が牛車に上る。
A:器楽序奏部からB: 将軍と良秀の会話のち、将軍が牛車に火を放つ。pf.のsfff轟音とともに将軍「わしに出来ぬことは何もない よいか! 牛車に火をかけよ!」
C: 牛車炎上
tubular bells.がburn with flame(炎上)の指示とともにppで響き始め、四方から炎が牛車を包む。被った衣を取り、面を見せる娘。picc.が宙を裂き、驚愕で立ち上がりよろよろと後退りする良秀の悲鳴Ah―――!!。「アアーッ! それは我が娘! お助けを! お助けを!大殿様、お助けを!」
一音一音アクセント記号がつくが、sop.は「お助けを!」との叫びを一気に畳み掛ける。
将軍「さあ、何をしておる 描け!描くのだ!」「アーハッハッハッハッハッハッハ!」(laugh haughtily)「さあ、描け!お前の仕事をなせ!」
再び良秀「アアーッ!」(shriek) p<ff<fff (highest tone!) と長〜い絶叫。
この叫びはこれまでとは全く異なり、地獄を這いずり回るうち、あたかも『蜘蛛の糸』(芥川龍之介作品)5)での、天から降りる一筋の銀の糸を見つけた血の池の悪人のようであり、ずり上がってゆく音形がまた、その光景を思わせるのであった。ずりあがるsop.の絶叫は天を切り裂き、まさに舞台は照明で赤く染まる。娘の面のアップがおどろおどろしい。
良秀はヒタと炎上する牛車を凝視、取り憑かれたように画紙を前に筆をふるい始める。
ちなみに原作ではこう記される。
「その火柱を前にして、凝り固まったように立っている良秀は、――何という不思議な事でございましょう。あのさっきまで地獄の責苦に悩んでいたような良秀は、今はいいようのない輝きを、さながら恍惚とした法悦の輝きを、皺だらけな満面に浮かべながら、大殿さまの御前も忘れたのか、両腕をしっかり胸に組んで、佇んでいるではございませんか。」6) 以下略すが、さらに続く要句をひく。
「しかも不思議なのは、何もあの男が一人娘の断末魔を嬉しそうに眺めていた、そればかりではございません。その時の良秀には、何故か人間とは思われない、夢に見る獅子王の怒りに似た、怪しげな厳かさがございました。」
さらに「あの男の頭の上に、円光の如く懸っている、不可思議な威厳」7)とも記している。
筆者はⅤ景の良秀の地獄観の吐露をキモだと述べたが、ここに来て、良秀のこの変化(父から絵師へ)がもう一つのキモとしてくっきりと浮かび上がってくるのに驚愕した。
良秀の所作は少なく面のアップもないのだが、この尾をひく絶叫からt-b(チューブラーベル), fl., cl., pf., 弦の器楽部のみの Dへと移行、娘の断末魔がフォーカスされるに従い、その変化の細部が後追いに描かれてゆくようなのだ。文楽や能の伝統的表現世界の深さと西村の作曲手法の巧みに襟をただす気持ちになったのである。
以降、炎に巻かれる娘はくるくると回転、立ったり座ったりを繰り返すが、赤の照明を受けて刻々と動くその表情のアップはまったき地獄の業火というに相応しい。背面の屏風も炎を受けて燃え立ち、筆者は彼女がかすかに微笑んだり喘いだり眼を閉じたりするのが見えるような気がして、もはや異界へと呑まれたのであった。ビデオでは舞台とアップ画像を重ねているので余計それが強烈だが、実演ではそのような間近な変化はわかるまいけれども。
いずれにしてもハンブルク版のくねくねとは全く異世界。多弁と寡黙、動と静など言うは易いが、どちらの世界もそんなに安っぽいものではない・・・。
音が静まり牛車の娘がくずおれ、赤の照明が白光に変わると、描き終えた良秀が画紙を手に立ち上がり次景へ。ハンブルク版ではこの器楽部分で良秀が娘を抱き上げ愛撫するなどの場面となるが、その手の愁嘆場(三島由紀夫の歌舞伎にも炎上前に事態を察した娘と、気づかぬ良秀の別れの愁嘆場を作った)はないからかえって「父から絵師へ」の凄みが効く。いわば炎に巻かれる娘の面の変化が、絵師としての良秀の眼そのものを伝えてくる、と言ったら良いか。原作の「怪しげな厳かさ、円光」をここに読み取るなら、愁嘆場など蛇足とつくづく思える。
[Ⅶ] 将軍と良秀
前景でのvery longのフェルマータはここでは非常に長く取られ、その静けさは一層重い。つまり、「間」の意味が能版では十全に汲み取られている、と言えよう。そうして淡々と良秀の「大殿様 おかげをもちまして、地獄の絵が仕上がりました 謹んで献上いたします」。
timp.の轟音と締めの一打に、将軍「オオーッ! これは見事だ!でかしたぞでかしたぞ!地獄とはこのようなところか 面白い、面白い! アーハッハッハッハッ!」。
画紙を睨め回し、団扇を振り両袖を振って喜び騒ぐ将軍。項垂れて立つ良秀。
と、二、三歩よろよろ足を踏み出し、情感をたたえたpf., vibr. のトレモロとともに面を上げ、終景のモノローグへ。
[Ⅷ]良秀のモノローグ
「私も今よりこの絵の中に 入っていこう この地獄絵の中に入ろう」
その淡々とした声音にはこれまで聴かれなかった優しい響きが含まれる。
「だが、大殿様 あなたはこの絵の中には入れない
あなたは生を知らず!死を知らぬ!愛を知らず 存在の苦悩さえ知らぬ!
あなたには何もない!」
良秀は将軍に斬りつけるような、一方で憐れむような眼差しをヒタと向ける。アップゆえ、そう見える。
「その空しい笑い声があなたのすべて!あなたはこの絵の中には入れない!」
一歩一歩、将軍に詰め寄る良秀。
「あなたの地獄はまた別の地獄 絵には描けぬ もっと恐ろしい地獄だ」
「もっと恐ろしい地獄だ」は、「だ」にビブラートがかかり尾を引く。
「そこへあなたはけたたましく笑いながら 入ってゆくことだろう そして永遠に笑い続けるがいい・・・」
「永遠に〜」も「に〜」がゆっくりと強調され、sop. の語りはニュアンスに富む。将軍は団扇を振るなどの動き。良秀はおもむろに懐から扇を取り出し、将軍をピシリと差し、最後のセリフが来る。
「あなたの地獄 その地獄の名は “虚無”」。
言葉の意味までを伝えようとする能版と、そこまで手の届かないハンブルク版の差は、最後の「虚無」への語りの扱いで明らかだ。
再び短いフェルマータののち全奏者による「Si」、「ha」、「Si」。フェルマータ。pf.とpicc.の一撃のち「ha」、「Si」。フェルマータ。ガクッと膝を折り、座した良秀はハッタと扇を膝前に落とし、将軍は舞い続ける。最後の「ha」、「Si」に2s-bと大太鼓fffが轟き、傲然たる将軍のアップで暗転。
* * *
将軍の地獄、「虚無」とは何か。
筆者はハンブルク版でそう問うたが、能版を詳細に追うにつれ、「業」というものに考えが及ぶようになった。芥川の言う「人間とは思われない、夢に見る獅子王の怒りに似た、怪しげな厳かさ」「あの男の頭の上に、円光の如く懸っている、不可思議な威厳」は、原本となる『宇治拾遺物語』での良秀への「その後にや、良秀がよぢり不動とて、今に人々めであへり。」という称賛の言葉を受け継いだものと言えよう。ここには、人知を超えた領域へと画業が良秀を連れ込む、そういう「芸」の力(宿業)を当時の人々が感知していた、それを芥川もまた身裡に抱える作家だった、ということを示している。
良秀の言う「絵には描けぬもっと恐ろしい地獄」たる「虚無」。「生を知らず、死を知らず、愛を知らず、存在の苦悩さえ知らない地獄」を彼は「虚無」と名づけた。それこそが宗教の底なしの穴ではないか。同時に、絵師という「宿業」を背負った良秀には芸術という人間の行為が息づく。
ハンブルク版で筆者は「宗教と芸術の狭間に宙吊りされる人間のありようこそが西村世界の両軸であり、ゆえ、やはり彼は原始から今日に至る普遍的な意味での宗教音楽家だったのだ、と筆者はここで確信するに至った。いや、そもそも、宗教と芸術、あるいは哲学が分岐する以前の人間が奏でる音楽をこそ探っている、と言ってしまいたい。」と書いた。
今、能版を書き終え、この『絵師』から次作『清姫〜水の鱗』(2012)、近作オペラ『紫苑物語』(2019)に至る3作が、まさに「宗教と芸術・音楽」を普遍的命題とする姉妹編であることを確信する。
ハンブルクと草津の二つの大きく異なる表現世界を重ねつつ、次回はそこに踏み入って行きたい。
追記)
本稿は西村氏の訃報に接する前、9月4日に脱稿したが氏の目に触れることなく終わった。
御霊前に捧げさせていただく。
脚注
- 能面の種類で鬼や天狗など、超自然的な存在に用いる面。猛々しさや力強さが表されている。目を大きく見開いた飛出、口を一文字に引き締め力んだべし見、牙のある顰(しかみ)、獅子口などがある。
https://www.nohgaku.or.jp/encyclopedia/whats/omote.html - 小面は若く純真な小面、艶のある若女、増女、孫次郎、中年女性の深井、曲見(しゃくみ)、老女の姥などの種類がある。
- 老人(男)の面。ほお骨が高くやせ形でヒゲと植毛した白いまげがあるのが特徴。品のある小尉(小牛尉)、庶民的な三光尉など、神の化身などの品格の高いものから漁夫の亡霊までさまざまのものがある。
- 少年から壮年期の男性の面差しを写した面。年齢や身分、そのときの状況などに応じて区別されるほか、特定の人物の専用面もある。遊芸をよくする喝食、公達を表す中将のほか、神聖を漂わす童子・慈童などがある。
- 『蜘蛛の糸』より
「カンダタはこれを見ると、思わず手を拍って喜びました。この糸に縋りついて、どこまでものぼって行けば、きっと地獄からぬけ出せるのに相違ございません。いや、うまく行くと、極楽へはいる事さえも出来ましょう。そうすれば、もう針の山へ追い上げられる事もなくなれば、血の池に沈められる事もある筈はございません。こう思いましたからカンダタは、早速その蜘蛛の糸を両手でしっかりとつかみながら、一生懸命に上へ上へとたぐりのぼり始めました。」『蜘蛛の糸』p.61 - 『地獄変』p.79
- 『地獄変』p.80
資料)
◆書籍
『地獄変・邪宗門・好色・藪の中他七篇』芥川龍之介著 岩波文庫 70-2 岩波書店 2022
『決定版三島由紀夫全集22』新潮社 2002
『宇治拾遺物語』上・下 全訳注 高橋貢・増古和子訳 講談社学術文庫 2018
「蜘蛛の糸 杜子春・トロッコ他十七篇』芥川龍之介著 岩波文庫 70-7 岩波書店 2007
◆楽譜
『室内オペラ“絵師”』〜ソプラノと7人の奏者と4人のダンサーのための
全音楽譜出版社 2007年
◆MP4『西村朗 絵師』(草津夏期国際音楽アカデミー事務局提供)
2006年8月24日 第27回草津夏期国際音楽アカデミー&フェスティヴァル
(2023/9/15)