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クリスティアン・ベザイデンホウト&平崎真弓~モーツァルトと遊ぶ|大河内文恵

クリスティアン・ベザイデンホウト&平崎真弓~モーツァルトと遊ぶ
Kristian Bezuidenhout & Mayumi Hirasaki

2023年5月10日 トッパンホール
2023/5/10 TOPPAN HALL
Reviewed by 大河内文恵 (Fumie Okouchi)
Photos by 大窪道治/写真提供:トッパンホール

<出演>         →foreign language
クリスティアン・ベザイデンホウト(フォルテピアノ)
平崎真弓(ヴァイオリン)

<曲目>
W.A.モーツァルト:
フォルテピアノとヴァイオリンのためのソナタ ハ長調 K296
フォルテピアノとヴァイオリンのためのソナタ ト長調 K379(373a)

~休憩~

ロンド イ短調 K511 [ベザイデンホウト・ソロ]
フォルテピアノとヴァイオリンのためのソナタ 変ロ長調 K454

~アンコール~

モーツァルト:フォルテピアノとヴァイオリンのためのソナタ ホ短調 K304(300c)より第2楽章

 

モーツァルトの音楽はこんなにも素晴らしかったのかと認識を新たにした。

というと、手垢にまみれた言い方に聞こえるかもしれないが、平崎とベザイデンホウトの演奏を聴きながら、ずっとそう考えていた。じつはモーツァルトは苦手だ。弾くのが難しいからという意味ではない。モーツァルトの曲はよくできているので、誰が弾いてもある程度それらしく聴こえるが、「それっぽい」から「本当に弾けている」までの距離が果てしなく遠い。それゆえ、プログラムにモーツァルトが入っていると避けることが多かった。

平崎のヴァイオリンを聞いてみたさにオール・モーツァルトのプログラムであることを見落としていたことに直前で気づいたが、杞憂は思いがけない幸運へと様変わりした。

ピリオド楽器による演奏、とくにHIP(歴史的知識にもとづく演奏)がおこなわれるようになって以来、モダン楽器の演奏ではしばしば省略されてきた提示部の繰り返しが、きちんとおこなわれるようになった。その場合、2回目は装飾を加えたり、ニュアンスを変えたりといった、ダ・カーポ・アリアの戻ってきたA部分のような趣向が凝らされたりするのだが、平崎はほぼ変更なしで2回目を演奏した。変更なしで2回同じことを繰り返すと厭きてしまいそうなのだが、そうはならずに「変わってないけどそれがいい」。

ちょっとした装飾の絶妙さ(今風の表現を使うと「解像度が高い)と弓遣いの巧さがそう思わせる。彼らの演奏は、ヴァイオリンがメインでピアノは伴奏というのではなく、ヴァイオリンとピアノによる室内楽といったほうがしっくりくる。

平崎の音楽が前に出てくるときと後ろに引っ込んだ感じがするときがあり、これはどういうことだろう?と最初は思ったが、聞いているうちに、これは第1ヴァイオリンと第2ヴァイオリンの差なのだと気づいた。つまり、自分がメインの旋律を担当するときには第1ヴァイオリン的、ピアノがメインで自分がサポートに入るときには第2ヴァイオリン的な弾き方をしており、それを曲の中で瞬時に切り替えている。

2曲目の冒頭のピアノの素敵さは格別だった。分散和音の一番上の音を繋いだ旋律ではなく、和音を構成するすべての音がいとおしい。シェンカー分析的な主要な音へと収斂していく音楽の作り方とは正反対の、ミクロに分け入っていく手法のなんと鮮やかなことか。アダージョ後半の冒頭でヴァイオリンがd音を全音符で伸ばすところでは、弱音でのびていく音の美しさと次の音のクレシェンドのぞくぞくするような心の揺さぶられかたに、ここだけ取り出して宝物にしたい気持ちになった。アレグロに入ると、一転、華麗な世界が広がる。変奏曲形式で書かれた第2楽章では、2/4拍子で書かれた第2変奏の3連符がまるでジーグの複合拍子のように聞こえ、バロック的な響きがした。続く第3変奏の64分音符のような細かいパッセージをただ速く弾くのではなく、そこに息づく音楽が感じられるところに唸らされた。そういえば、モーツァルト臭さを全く感じない。彼らの演奏は、ただ単にモーツァルトの作品をそれ以前の時代の奏法に引き寄せて演奏するというのではなく、過去の音楽から脈々と受け継がれた伝統を内在させたモーツァルトの音楽という形で、つまりあくまでもバロック音楽ではなく紛れもなくモーツァルトの音楽として提示してみせるものだった。

休憩後はベザイデンホウト独奏によるロンドK511から。1つ1つの楽句(パーツ)はモーツァルトそのものなのだが、それを組み合わせてできた曲はおよそモーツァルトらしからぬ暗さと憂いを帯びている。寺西肇のプログラムノートで、この曲の半月後に書かれたモーツァルトの死生観が凝縮された手紙の言葉が紹介されているが、まさにその言葉がしっくり来た。世界的な感染症の流行やウクライナ侵攻と、死というものを折に触れて意識せざるを得ない日々にそっと寄り添うような演奏。最後の一音のはかなさがそれを象徴していた。

最後のソナタ変ロ長調K454は、取り立ててヴィルトゥオーゾ的な弾き方はせず、むしろ普通に弾いているようにしか見えないのだが、平崎とベザイデンホウトのアンサンブル力の高さが光った。第3楽章はベートーヴェンのように聴こえたのだが、そこに逆に「モーツァルトらしさの正体」を見たような気がした。よくモーツァルトはキャッチーな旋律を生み出す天才と言われるが、その旋律の魅力だけに頼って演奏すると「モーツァルト臭い」音楽になる(そういった演奏をするためにはそれに見合った音色やタッチやフレージングが必要で、それが簡単なことではないのはもちろんだが)。

しかし、そのさらに先にこそ、モーツァルトの魅力があるのではないか。

アンコールの曲は、おそらく本日のプログラム中でもっとも誰もが聞いたことのある作品。徒に感傷的にならず、ピリオド演奏らしさが存分に散りばめられていて、そして心揺さぶられる演奏。いつまでも鳴り止まない拍手は、聴き手の心に確かなものが届いたことの証であろう。

(2023/6/15)

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<performers>
Kristian BEZUIDENHOUT (fortepiano)
Mayumi HIRASAKI (violin)

<program>
Wolfgang Amadeus Mozart:
Sonate für Fortepiano und Violine C-Dur K296
Sonate für Fortepiano und Violine G-Dur K379(373a)

–intermission–

Rondo für Fortepiano a-Moll K511
Sonate für Fortepiano und Violine B-Dur K454

–encore—

Mozart: Sonate für Fortepiano und Violine e-Moll K304(300c) 2. Satz