青山実験工房第7回公演「追善・一柳慧」|柿木伸之
青山実験工房第7回公演「追善・一柳慧」
Aoyama Experimental Workshop #7 “A Memorial Performance in Honor of Toshi Ichiyanagi”
2023年5月20日 銕仙会能楽研修所
May 20, 2023 Tessen-kai Noh-theater Laboratory
Reviewed by 柿木伸之(Nobuyuki Kakigi)
Photos by marmelo|写真提供:青山実験工房実行委員会
〈演奏〉 →foreign language
ピアノ:高橋アキ、髙橋悠治
ヴァイオリン:甲斐史子
笙:石川高
メゾソプラノ:波多野睦美
謡・舞:西村高夫、清水寛二
〈曲目〉
バーバラ・モンク゠フェルドマン:《松の風吹くとき》(世界初演)
高橋アキ(ピアノ)、西村高夫(能舞)、清水寛二(能舞)
森円花:独奏ヴァイオリンのための《神話》(小川恭子委嘱作品、2020年)
甲斐史子(ヴァイオリン)
一柳慧:《イン・メモリー・オヴ・ジョン・ケージ》(1993年)
髙橋悠治(ピアノ)
ジョン・ケージ:ヴァイオリンとピアノのための《ノクターン》(1947年)
甲斐史子(ヴァイオリン)、高橋アキ(ピアノ)
一柳慧:笙とヴァイオリンのための《月の変容》(1988年)
石川高(笙)、甲斐史子(ヴァイオリン)
髙橋悠治:《黒い河》(俳句:山本幡男、2020年)
波多野睦美(メゾソプラノ)、髙橋悠治(ピアノ)
一柳慧:《限りなき湧水》(1990年)
高橋アキ(ピアノ)
髙橋悠治:《夢跡一紙(世阿弥)》(世界初演)
波多野睦美(メゾソプラノ)、清水寛二(朗読)、髙橋悠治(ピアノ)
一柳慧:《アプローチ》(図形楽譜、1972年)
石川高、甲斐史子、清水寛二、高橋アキ、髙橋悠治、波多野睦美
一柳慧の作品の特集として計画されながら、作曲家が昨秋に急逝したために「追善・一柳慧」と題して開催されることになった青山実験工房の第7回公演では、そのピアノ独奏のための《限りなき湧水》(1990年)が高橋アキによって奏でられた。5月8日にサントリーホールで執り行なわれた一柳の「お別れの会」でも、高橋が献奏した作品である。それを貫く止めどなく溢れ出る動きは、いったん垂直に立ち上がった後、解き放たれたように降り注ぐ。新プラトン主義が説いた存在の流出を思い起こさせる力強い湧出の運動は、輝かしく、また全体として凛としたたたずまいを示していた。
高橋のピアノが見事に示したこのような作品像は、公演の会場となった銕仙会能楽研修所の能舞台に映えていた。それと同時に、今回取り上げられた一柳の作品が示す音楽の姿をも象徴していたとも思われる。なかでも最後に上演された《アプローチ》(1972年)は、「音楽」の枠組みからも溢れ出ようとする作品と言える。公演のプログラムには、作品の図形楽譜の一部が、そこに書かれた「音楽を肉体化し/肉体を音楽化する」という一柳の言葉とともに印刷されていた。その譜面には「聲」、「光」、「逃」、「發」といった漢字が象徴的に記されるとともに、音の性質と作用の方位を暗示すると思われる図形が見られる。
《アプローチ》においては、そのような図形楽譜から力の働きを感じ取り、身ぶりを響かせることが求められているのだろう。今回の公演に集ったアーティストが顔を揃えた《アプローチ》の上演では、現代の音楽の脱身体化という問題を、テクノロジーによる環境破壊の進行と結びつけながら省察する一柳のテクストを、初演者である高橋アキ──この作品は彼女のリサイタルのために委嘱された──が謡のように朗唱するのに導かれながら各自がパフォーマンスを繰り広げていくが、それを貫く身体の動きは、内から湧き出ているように感じられた。それは、長年にわたって一柳の音楽に取り組んできたなかから出て来ているのだろう。
各人の動きが交錯したり、拮抗し合ったりするところからは、さりげない遊びと微かな形が感じられる。そこには亡くなった作曲家への親愛の情も滲み出ていたにちがいない。卓球のラケットでピンポン球を空振りする動きを繰り返す能役者の清水寛二の動きは、一柳が生涯卓球を愛していたのを踏まえたものだろう。彼は、こうした身ぶりが生み出す振動が聴衆の反応を引き出すところに、「肉体の音楽化」が起きると考えていたのだろうか。最後に窓が開け放たれたが、それとともに流れ込んできた街の音が、舞台上で脱中心的に発せられる音響の振動と交じり合うところには、統御されえない音の肉体が中空に解き放たれる出来事を感じた。
今回の青山実験工房の公演は、真摯に貫かれた一柳の実験への意志を、能舞台で展開しようとする試みだったのではないだろうか。それは同時に、瀧口修造の下、さまざまなジャンルの芸術家が集った実験工房の精神を今に生かそうとするものでもあるはずだ。今回の公演では、それに応えるかたちで作曲されたバーバラ・モンク゠フェルドマンの《松の風吹くとき》の世界初演が行なわれた。おそらくは観阿弥と世阿弥の「松風」を念頭に、またプログラムに印刷されていた和泉式部の三首の短歌からも着想を得て作曲されたこの「ピアノと能のための」作品は、高橋アキのピアノを軸に、魂の邂逅という出来事を、その風景とともに生起させていた。
風の揺らぎを感じさせる和音の連打が闇のなかの空間を照らし出すと、やがてそこに直面(ひためん)の役者が姿を現わす。手探りするように始まったその舞は、気配を感じ取ったかのように、徐々に動きを増していった。そのとき、背後に面を着けた役者が出現する。すると音楽の振幅が大きくなり、舞台に開かれていた風景に影が射す。こうして過去が現在に打ち寄せているあいだに、和泉式部が詠んだ一首が謡われた。
冥(くら)きより冥き道にぞ入りにける遥かに照らせ山の端の月
この歌はピアノの柔らかな響きに乗って、文字通りに山の稜線の上に浮かぶ月の光が風景を遠くから照らし出すように聞こえた。それは同時に、面が象徴する人物の懊悩とそこからの救いへの渇望を暗示してもいた。
現在に彷徨い出たこの人物と直面の人物は、当初はすれちがうようだったが、ついに互いの存在を認めるに至る。それとともに、風が強まるように音楽は高揚する。最後に手を携え合って一羽の鷺を飛び立たせる演出はいくらか直接的にも感じられたが、生者の魂が一人の死者に開かれるとともに、この死者の魂が苦悩から解き放たれる出来事を象徴するものと言えよう。その後、役者は姿を消し、響きは静まっていく。モンク゠フェルドマンの音楽は、おおむね一貫したリズムにもとづいていたが、そのことは舞台上の出来事を無二のものとして浮かび上がらせるうえでは有効だったと思われる。響きには風と水を感じさせる動きと潤いがあった。
モンク゠フェルドマンの作品は、現代のピアノの音楽と謡、そして舞を呼応させることによって、物語ではなく、一つの出来事を、その光景とともに繰り広げようとする試みだったと思われる。それによって表わされたのは、一方では能が伝統的に扱ってきた主題だったのかもしれない。しかし、この作品は他方で、謡われるテクストを和泉式部の歌に絞ることによって、現代の人々にも起きうる出来事をも暗示していたように思われる。ある空間に足を踏み入れると、時間が重層化し、死者の存在に気づかされる。この出来事にも通じたモンク゠フェルドマンの表現が、能舞台を媒体として今後どのように展開するか期待される。
今回の青山実験工房の公演においては、これらのほかにも多彩な作品が一柳に捧げられた。彼に見いだされた森円花がヴァイオリン独奏のために作曲した《神話》では、歌に満ちたモティーフが緊密な関連を保ちながら、楽器の全音域を駆け回るのが印象的だった。どこか古雅な舞が激しく高揚するに至る過程が浮かび上がった。この作品を見事に奏でた甲斐史子は、ジョン・ケージの《ノクターン》(1947年)と一柳の笙とヴァイオリンのための作品、《月の変容》(1988年)でも、これらの音楽を摑んだ演奏を繰り広げていた。後者で空気の層が柔らかく折り重なるさまは、モンク゠フェルドマンの作品の世界とも呼応していよう。
今回の公演に関してやはり特筆されなければならないのは、髙橋悠治が一柳の《イン・メモリー・オヴ・ジョン・ケージ》(1993年)とともに、二つの自作を演奏したことである。その一つ、《夢跡一紙》は世界初演だった。そこでは、世阿弥が息子元雅の旅先での急死を悼んで綴った言葉の一つひとつに込められた、時に慟哭に至る無念の思いが音に凝縮される。それとともに、清水寛二が朗読する言葉が震える肉体を持って能舞台に立ち上がった。この作品は、敗戦後にシベリアに抑留され、アムール河畔で客死した山本幡男の俳句に作曲したもう一つの作品、《黒い河》(2020年)とともに、一柳慧の追悼に捧げられていたと思われる。
《黒い河》では、波多野睦美が歌う句の言葉が、あるいはそのなかの一つの音が、高橋がさりげなく奏でる研ぎ澄まされた音と溶け合って、山本の強い郷愁とそのなかで幻視される風景を響かせる。とくに柴田南雄が採譜した、山本の故郷である隠岐の民謡の旋律が用いられた第6曲では、にぎやかな情景が近づいてくるように聞こえるが、やがてそれも遠ざかっていく。「小さきをば子供と思う軒氷柱」という最後の一句が、波多野の澄んだ声とともに響いたとき、帰還の望みを断たれた者の嘆きが結晶するようだった。こうして、切り詰められた音によって言葉を立ち上がらせる高橋悠治の音楽もまた、一柳が語った「音楽の肉体化」のコンセプトに呼応しながら、「音楽」の枠組みから溢れる表現の可能性を指し示すものと言える。今回の青山実験工房の公演は、その媒体が能舞台でありうることを示す実験として意義深いものだった。
(2023/6/15)
柿木伸之(Nobuyuki Kakigi)
美学を中心に哲学を研究する傍ら芸術批評を手がける。著書に『断絶からの歴史──ベンヤミンの歴史哲学』(月曜社、2021年)、『ヴァルター・ベンヤミン──闇を歩く批評』(岩波新書、2019年)、『燃エガラからの思考──記憶の交差路としての広島へ』(インパクト出版会、2022年)などがある。訳書に『細川俊夫 音楽を語る──静寂と音響、影と光』(アルテスパブリッシング、2016年)などがある。現在西南学院大学国際文化学部教授。ウェブサイト:https://nobuyukikakigi.wordpress.com
[Performers]
Piano: Aki Takahashi, Yuji Takahashi
Violin: Fumiko Kai
Sho: Takashi Ishikawa
Mezzo-soprano: Mutsumi Hatano
Noh song and dance: Takao Nishimura, Kanji Shimizu
[Pieces]
Barbara Monk-Feldman: “A Moment, Pines Rustle” (World Premiere)
Aki Takahashi (piano), Takao Nishimura (Noh dance), Kanji Shimizu (Noh dance)
Madoka Mori: “Myth” for violin solo commissioned by Kyoko Ogawa (2020)
Fumiko Kai (violin)
Toshi Ichiyanagi: “In Memory of John Cage” (1993)
Yuji Takahashi (piano)
John Cage: “Nocturne” for violin and piano (1947)
Fumiko Kai (violin), Aki Takahashi (piano)
Toshi Ichiyanagi: “Transfiguration of the Moon” for sho and violin (1988)
Takashi Ishikawa (sho), Fumiko Kai (violin)
Yuji Takahashi: “Kuroikawa (Black River)”, Haiku by Hatao Yamamoto (2020)
Mutsumi Hatano (mezzo-soprano), Yuji Takahashi (piano)
Toshi Ichiyanagi: “Inexhausible Fountain” for piano (1990)
Aki Takahashi (piano)
Yuji Takahashi: “Musekiissi (Traces of a Dream on a Single Sheet)”, text by Zeami (World Premiere)
Mutsumi Hatano (mezzo-soprano), Kanji Shimizu (recitation), Yuji Takahashi (piano)
Toshi Ichiyanagi: “Approaches” composed on the graphic score (1972)
Takashi Ishikawa, Fumiko Kai, Kanji Shimizu, Aki Takahashi, Yuji Takahashi, Mutsumi Hatano