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イギリス探訪記|(7)音楽文化の存続をかけた闘い:ラトルによる「人間の顔」|能登原由美

イギリス探訪記|(7)音楽文化の存続をかけた闘い:ラトルによる「人間の顔」|能登原由美

Another Side of Britain (7) Fight for Existence of Musical Culture : Rattle’s Figure humaine

Text by 能登原由美(Yumi Notohara)
Photos by Mark Allan/The London Symphony Orchestra

 

「我々は存在のための長い闘いに直面しています」

サイモン・ラトル指揮/ロンドン交響楽団(バービカンホール@ロンドン 2023/4/23)©︎Mark Allan

雄弁でヒューマニズムに溢れるマーラーを聞かせた後、サイモン・ラトルは後半が始まる前の壇上で、原稿を片手にスピーチを行った(1)。4月23日に行われたロンドン交響楽団(以後、LSOと略称)のこの公演では、当初予定していたマーラーの第7交響曲に、プーランクのカンタータ《人間の顔》の追加上演が急遽決定。その演奏に先立つ演説は、当地の音楽界に今、ただならぬことが起こっていることをまざまざと示すものとなった。

すでにチケットを購入していた筆者のもとには、演奏会の10日前にメールで連絡があった。それによると、新型コロナに感染していたラトルの体調を考慮し、20日に予定されていた同楽団の演奏会についてはその降板を告げる一方で、23日については、次のような説明が付されていた。

「本公演では、サー・サイモン・ラトルの指揮、BBCシンガーズの演奏でフランシス・プーランクの《人間の顔》を追加上演します。BBCシンガーズは、合唱界と音楽界との幅広い連帯を示すものとして、かつ英国のオーケストラと合唱分野の財政面をめぐる不透明な状況への応答として、サー・サイモンとLSOの招きにより出演します。」

スピーチをするラトル(バービカンホール@ロンドン 2023/4/23)©︎Mark Allan

「財政面をめぐる不透明な状況」とあるように、イギリスでは昨今、芸術分野における財政支援改革をめぐる問題が大きく取り沙汰されていた。すなわち、政府が推進するLevelling Up Programの一環として、文化享受の国内格差を是正するべく、それまで首都に集中していた資本を地方へ流出させることで地域の活性化と文化の公平性の確保が目指されてきた。文化芸術分野を統括するアーツカウンシル(以後、ACEと略称)が昨年11月初めに公表した2023-26年度期の予算案では、在ロンドンの芸術団体については年間5000万ポンド(4月30日時点での円換算で約78億円)の削減が盛り込まれ(2)、イギリス・ナショナル・オペラやブリテン・シンフォニアといった優れた実績と歴史をもつ団体に対して、助成金の全額カットが示されたのである。前者については、移転を条件とする支援が提示されていたため、拠点をマンチェスターに移すことを表明。これまで自国の作品をも積極的に取り上げてきた伝統あるカンパニーだけに、新聞や雑誌、SNSなどではイギリス・オペラ、あるいは自国の文化の衰退を嘆く声が飛び交うとともに、ACEの方針について反対運動が展開された(3)。その後、新たな追加助成が発表されるなどしたことで移転は延期となるが(4)、クラシック音楽界に立ちこめる暗雲の大きさに誰もが気づくことになった。

サイモン・ラトル指揮/BBCシンガーズ(バービカンホール@ロンドン 2023/4/23)©︎Mark Allan

そうしたなかで、さらなる一撃となったのがBBCシンガーズの処遇をめぐる決定である。イギリスの公共放送、BBC(英国放送協会)は3月7日、グループ傘下のプロ合唱団で、1924年の設立以来、英国音楽史上においても重要な功績を挙げてきたこの声楽アンサンブルの解散を、なんと創設100周年を来年に控えた段階で発表したのであった。エルガーやブリテン、ストラヴィンスキーやブーレーズなど錚々たる作曲家のタクトに数多くの新作初演など、20世紀以降のクラシック音楽だけをみてもその貢献は計り知れない。衝撃的なニュースはイギリス国内のみならず欧米にも直ちに広まり、作曲家や音楽家などを中心に解散の撤回を求める行動へと突き動かした。その結果、14万人もの人々が反対署名(5)。3月24日にはBBCが当初の決定を覆し、解散延期を発表することになった。

こうした一連の経緯が、この度のラトルの動きに繋がっていることは間違いない。実際、本人も公演直前に行われた大手新聞タイムズによるインタビューの中で、昨秋のACEによる支援計画発表からこの度のBBCの騒動に至るまで、母国の文化政策における問題点を指摘しながら、シンガーズへの異例とも言える出演交渉を自らが行ったことを説明するとともに、当日のスピーチの可能性についても示唆していた(6)

それにしてもだ。プログラム変更に出演依頼、自らの見解の表明と、迅速な判断と行動力には頭が下がるが、何よりも、選んだ演目のなんと絶妙なことだろう。というのも、第二次世界大戦中の1943年、ナチス・ドイツによる占領下のフランスで密かに作曲されたこの無伴奏合唱曲を、1945年3月に世界初演したのがBBCシンガーズであったのだから(7)。8つの楽章からなるこの作品は、言葉をもってナチス・ドイツへの抵抗運動を行った詩人、ポール・エリュアールのテクストを用いたもの。とりわけ最終楽章におかれた〈自由〉は、印刷されて英国軍機からフランス全土に撒かれ、占領に喘ぐ人々を勇気づけたことで知られる詩だ。「多くの重要な団体が解体されていくのをただ黙って見るわけにはいかない」と、満席近くの場内に向けて語るラトルの言葉の端々にも、長い年月をかけて醸成されていく文化や芸術の性質を理解していない政治家たちへの「抵抗」の意志がはっきりと読み取れる。

「私たちは闘いのさなかにいます。クラシック音楽が我々の国と文化の鼓動の一部であり続けることを保証する必要があります。」

©︎Mark Allan

言葉の厳しさとは裏腹に、終始笑みを絶やさないラトルはこう演説を締めくくると、BBCシンガーズを舞台に招き入れた。いよいよ音楽を通じて「抵抗」を示す時だ。いつもはオーケストラを束ねるはずの棒が引き出すのは「人間の声」。とはいえ、24名からなるアンサンブルが生み出すその響きは、決して暴力的、煽動的な色合いをもつわけでもなく、あるいは感情的に訴えかけるようなものでもない。そもそも、二重混声四部合唱による緻密な構成と技巧に富んだこの難曲を確実に音にするには、余計な観念や情念が入り込む余地などないのであろう。むしろ、音符と言葉を丁寧に重ねていくなかから張り詰めた強い意志が自ずと浮かび上がってくる。実はそれがプーランクの狙いであったのかもしれない。想いは全て、詩人と作曲家が紡いだ歌の中にこそあると。

©︎Mark Allan

とはいえ、そもそもそれらを伝える「人」や「場」がなければ何も始まらない。すでに助成金カットにより、グラインドボーン・オペラは国内ツアーの断念を表明し、イングランド北西部にある劇場、オールドハム・コロシアム・シアターは閉館へと追い込まれるほど事態は深刻になっている。また、BBCについては合唱団解散どころか、傘下のオーケストラについてもフルタイム団員枠を20%減らすと発表している。一度失われた人々や場所は、そう簡単には元に戻せない。「イケアで買ってこられるようなものではない」とラトルはジョーク混じりに舞台上で語ったが、まさにその通りだ。あるいは、将棋やチェスの駒のように、別の場所に差し替えてもすぐに同じ力を発揮するというものでもない。

©︎Mark Allan

なお、毎夏2か月にわたって行われるイギリス恒例の大音楽祭、BBCプロムスへの出演を、BBCへの抗議表明としてラトルが拒否するのではないかという憶測も一時期流れた。結局、4月20日に発表されたフェスティバルの全プログラム内容によれば、彼はLSOとともに2度にわたり登場するようだが、その後者となる8月27日に行われる公演では、マーラーの9番のほか、再びBBCシンガーズとともにこのプーランクの《人間の顔》を演奏することになっている。

終演後、会場からは大きな声援が上がるとともにスタンディング・オベーションも見られた。指揮者による賛辞と温かい拍手に包まれ、凛として立ち続ける団員たちの表情は喜びと誇りに満ち溢れている。と同時に、これからも続く危機的状況に立ち向かう強い意志も感じられた。まさにこれが、ラトルの示したかった「人間の顔」なのかもしれない。

©︎Mark Allan

 

(2023/5/15)

(1)スピーチの全文については、公演翌日に大手新聞ガーディアンに掲載された。The Guardian (24 April 2023)
(2)The Guardian (22 November 2022)
(3)例えば右記の紙面など。The Independent (14 November 2022)
(4)The Guardian (17 January 2023)
(5)4月末時点では15万人以上にまで拡大している。The Independent (24 March 2023)
(6)The Times (20 April 2023)
(7)厳密には、同団の前身となる団体による演奏。また、英語版での上演。