評論|西村朗 考・覚書(28)『大悲心陀羅尼』〜『両界真言』まで(Ⅱ)『大悲心陀羅尼』|丘山万里子
西村朗 考・覚書(28)『大悲心陀羅尼』〜『両界真言』まで(Ⅱ)『大悲心陀羅尼』
Notes on Akira Nishimura (28) ” DAI-HI- SHIN-DHARANI~ RYOUKAI-SHINGON”
(Ⅱ) DAI-HI- SHIN-DHARANI
Text by 丘山万里子(Mariko Okayama)
読経・読誦はまずもって男声である。
だが、西村はこの『大悲心陀羅尼』の呪文をそっくりそのまま音化するにあたり、女声三部の編成をとった。
なぜか?
ちなみに合唱第1作かつ読経音景がある『汨羅の淵より』(独唱sop,ten.bass,混声合唱)はtenソロ「ラァーー」が高音hでまず入っており、続く合唱「コオコオゲンショー」の女声は無声音、男声は「各唱者のできる限り低い音域で」の指示がある。
終部での読経音景は「静かに祈りをこめて」の表記とともに、女声が上方で「ミョウミョウシムギイーン マウマウシムギイーン」などなど、男声bassも同句で唱和、最後は女声「ミョウミョウミョウーー」、男声「マウマウマウー ウオンオンオンーー」、さらにtenソロが曲冒頭の「ラァー」を発声、その上で女声fでの「シー」(歯の隙間から息を出し、スとシの中間音を出す)で pppに消えている。
こうしてみると、西村が遭遇した法要での『大悲心陀羅尼』に反応したのは、まさに言葉以前のこうした語感、それが生み出す音律、韻律に惹かれてのことと思われる。
すなわち、言霊・音霊。
この終部の声の世界について筆者は「底知れぬ低音男声読経、風にのる口笛、河面に女声が長く尾を曳き沈んでゆく。『式子』の《しるべせよ》の情死、あるいは壇ノ浦平家の滅亡と全く同じ組成、音調である。ついでに言うと、『先帝御入水』(2007/混声合唱と独奏二十絃箏のための)もまたこの種の路線」と述べている。(第8回)
ここで彼の女声無伴奏合唱作品を見渡しておく。
西村全合唱41作(〜2019)のうち、最初の女声無伴奏は『秘密の花』(1985/大手拓次詩)で、本作2年後の『寂光哀歌』(1992/平家物語)の他『祇園双紙』(1995/大手拓次)、『浮舟』(1998/源氏物語)、『炎の挽歌』(2000/柿本人麿)、『青色廃園』(2000/村山槐多)、『息の緒に』(2008/和泉式部)、『花紅』(2010/与謝野晶子)、『鎮魂歌―明日―風の中の挨拶』(2012/佐々木幹郎)、『ちぎりあれば』(2016/藤原家隆)、『逝く夏の歌』(2019/中原中也)の全12作。
傾向としては日本古典の物語、詩歌に典拠するものがほとんど。
無伴奏女声、男声どちらでも可(無伴奏同声合唱)とする作品は2作『夏の庭』(2009)『旅―悲歌が生まれるまで』(2011)で、いずれも佐々木幹郎の詩。なお、佐々木は室内オペラ『清姫〜水の鱗』(2012)『中也!』(2016)、オペラ『紫苑物語』(2019)の台本作家であることに留意したい。
今回のテーマである読経繋がりで言うならば混声に『両界真言』(2002)、『水の祈祷』(1994)はテクストは陀羅尼だがピアノが入る。無伴奏合唱世界に異種音が入るとガラリと変わるので、ここでは無伴奏のみを見る。
と眺めると、『陀羅尼』女声3部は『寂光哀歌』から始まる日本の古典詩歌をテクストとする無伴奏女声の響きの系譜にあるのか、あるいは『汨羅の淵より』の一音成仏的音霊、言霊路線上なのか。はたまた...。
まず、『大悲心陀羅尼』全体の構成だが、筆者は添付の全文を照合しつつ、西村スコアの区分けに従い大きく3つに分けた。《序》《第1部〜第3部》《終部》である。
全文と現代語訳(https://sousei.gr.jp/8617/より)
「序」冒頭第1節はこうだ。
1)南無喝囉怛那哆羅夜耶。
なむからたんのーとらやーやー。
2)南無阿唎耶。婆盧羯帝爍鉗囉耶。菩提薩埵婆耶。摩訶薩埵婆耶。摩訶迦盧尼迦耶
なむおりやー ぼりょきーちーしふらーやー。ふじさとぼーやー もこさとぼーやー。
もーこーきゃーるにきゃーやー
3)唵。薩皤囉罰曳。數怛那怛寫。南無悉吉利埵伊蒙阿唎耶。婆盧吉帝室佛囉楞馱婆。
えん。さーはらはーえい しゅーたんのーとんしゃー。
なむしきりーといもーおりやー。ぼりょきーちーしふらーりんとーぼー
4)南無那囉。 謹墀醯利。摩訶皤哆。沙咩薩婆。阿他豆輸朋。阿逝孕。薩婆薩哆。 那摩婆伽。摩罰特豆。怚姪他 唵。
なむのーらー。きんじーきーりー。もーこーほーどー。しゃーみーさーぼー。おーとーじょーしゅーべん。おーしゅーいん。さーぼーさーとー。のーもーぼーぎゃー。もーはーてーちょー。とーじーとー。えん。
動画『大悲心陀羅尼』を見聞していただけばわかると思うが、1)2)での韻は語尾「やー」(下線)だが、全句すぐと頭に刻まれる韻律に満ちている。ただし、読経は息継ぎも含め、同一音高音調を保持するから、ずっと中低音ドローンの中にいるような気分になる。これが退屈なあまりの眠気を催すわけだが、一方で「安らぎ」効果も生む(ようだ)。どちらにしろ、ドローンとリフレインは、どの文化宗教においてもエクスタシーに必須の要素なのだ。
「南無」(なむorなも、下線)はこの陀羅尼全体の中で前半に4回、終盤に2回、分節の冒頭に唱えられる。(梵)namasの音写で、仏、菩薩 (ぼさつ) に向かい、心からの帰依を表す語で、名を呼ぶときに冠するもの。
筆者は子供の頃、お盆に仏壇の前に座り、親から「なむなむして」と言われ手を合わせた記憶があるが、呪文を唱えるきっかけのようなもの、と思えばよかろう。法要で読経の際、僧侶から合掌を促され出席者が声をそろえて「なんまいだー」(南無阿弥陀仏)とかいうのと同じ。
前回触れた「えん」(おお、おーん)という詠嘆句は前半に2回。
なお、この陀羅尼は千手観音の功徳を讃える呪文なので、意味はたいしてない。
さて、筆者は永平寺でのこの陀羅尼の主音調をdと聴いた。
読経の導師による出だしの音「出音(しゅっとん)」(宗派によって呼び方は異なるがここでは「出音」とする)は経典によって多少の異なりがあるが、筆者の調査によればほぼ c~ eの間でむろん微妙複雑に違うから筆者体験の『大悲心陀羅尼』のそれもだいたいd(まさに一即多)と言うのが正しい1)。Youtubeでの木魚の刻みにのってのテンポの開始はおよそ90で意外と速い。実際もそうであった。
一方、西村作品は女声3声(Ⅰ,Ⅱ,Ⅲ)sempre fで最上声部(Ⅰ)b から開始。
テンポは8/9拍子(1拍付点8分音符)ca.42。
b~e~disナムカーラタンノーートラヤーーヤーーと揺れる。beb7連符を含むメリスマティックな動き。他の2声(Ⅱ、Ⅲ)もその下で3連符を揺らす。半音の重なり、完全5度、増5度、増4度の響きがこの句の全体を包む。倍音を散らしたような組成で(1 /f,Ⅱ/e,Ⅲ/b)で終止。ここまで7小節、これが第1)節。
第2)節はナムオリヤー、 I/ f~e~fとオクターブ以上の跳躍を見せるが、こちらも増4度3連符が全体の響きを揺らし gisで終止。この間、下で ボリョキチー(Ⅱ/eで開始)、シフラーヤー(Ⅲ/es)が順に入る。いずれもずれながらメリスマティックに動いているが、一句の音形は類似しており、例えば3連符は漣のようにⅠ〜Ⅱ〜Ⅲと寄せてゆく。終句モコキャルニキャー(Ⅲ/d,Ⅰ/d,Ⅱ/es)で3声同句順次唱和で一区切りとなる。ここは6小節。
第3)節はエンという詠嘆句からPiu mosso でgis開始。
テンポはca.58に上がる。だが、こちらは音価が伸び、カノンのように後追いする形で3連符もなく、同一音形での流れを強調、3声bで終始の8小節。
掛け声「ナム」 dから始まる第4)節には前回述べた「那羅謹墀」(ニーラカンタ:のらきんじー。弦楽四重奏曲『ヌルシンハ』(2007)のヌルシンハつまり人獅子のこと)が出てくる。シヴァとヴィシュヌのハイブリッド神ハリハラ(青首観音or千手観音、このお経の主人公)である。
こちらもメリスマティックに揺動しつつのカノン、dで一斉終始するが、文頭の「ナム」「モコ」「サボ」の順次唱和が与える印象は、そのまま次の部へとこだましてゆく。
ここまでが、さあ、みなさん一緒に真言を読誦しましょう、という呼びかけ部分。
音源がないので響きをピアノで鳴らしつつになるが、緩やかな西村ヘテロフォニーの声の帯ではあるものの、7連符や3連符の動きが妖しい空気を生む。やはり『汨羅の淵より』の女声に近い。が、『汨羅』では女声は3オクターブまで上る高音を用いているが、本作は一貫して中高音(2オクターブの範囲)で、その種の喚声はない。
さて、ここからがこの陀羅尼の真骨頂で、簡単に言えば韻律の波、その畳み掛けで幻惑・高揚へと誘うのである。おそらく西村は何よりその魔力を再現したかったに違いない。
以降は譜面を眺めつつ大まかなことだけを拾う。
全体は3部に分かれる。
[第1部]
5)とーじーとーえん。おーぼーりょーきー。るーぎゃーちーきゃーらーちー。
いーきりもーこー。ふじさーとー。さーぼーさーぼー。もーらーもーらー。もーきーもーきー。りーとーいん
くーりょーくーりょー。けーもーとーりょーとーりょー。
ここで注目は3連符、5連符の細やかな動き。加えて「イキリーモーコー」から始まる句頭「サボサボー」「モラモラー」「モキモキー」「クリョクリョー」「トリョトリョー」の韻は抜群の効果でいやが上にも興奮は昂まる。まずは強力にその場の人々を巻き込むわけだ。出音の音程関係もユニゾン、完全5度、増5度といった具合に変化させ全体の持続の響きを操っている。
続く2節でテンポはPoco meno mosso、ca.52とやや落ちる。
6)ほーじゃーやーちーもーこーほーじゃーやーちー。とーらーとーらー。ちりにーしふらーやー。しゃーろーしゃーろー。
7)もーもーはーも-らー。ほーちーりー ゆーきーゆーきー
ユニゾンでの響きとともに細かい動きを浮き上がらせる趣向だ。
[第2部]
この陀羅尼のハイライト部分だ。5)からの呪文の繰り返しによる韻の波がアップテンポで押しよせる。
8)Pi ü mosso ca63 と再びテンポアップ、この部分が全体での最速、最長で30小節ある。
しーのーしーのー。おらさーふらしゃーりー。はーざーはーざー。ふらしゃーやー。
くーりょーくーりょー。もーらーくーりょーくーりょー。きーりーしゃーろーしゃーろー。しーりーしーりー。すーりょーすーりょー。ふじやーふじやー。ふどやーふどやー。みーちりやー。
のらきんじー。ちりしゅにのー。ほやものそもこー。
句はほぼ平行進行だが各声部での3種音価分割がリズムヘテロフォニーとなっている。永平寺読経はこの部分、130近くにアップテンポし、徐々のアッチェルランドがあるものの、声圧というべきダイナミズム。一方、西村は音階上下行の漣を適宜重ねることで動的なエネルギーを放散、「フジヤーフジヤー」からの18分音符の段積みで頂点を築いている。
この部分の最後に出てくる「ソモコー」(娑婆訶そわか)は願いの成就を祈る秘語で、以降、全ての句の最後に唱えられることになる。また、4)につぎ観音の名(ノラキンジー)が呼ばれるのは、改めて願いの成就を願ってで、終部でも無論、出てくる。
[第3部]
Meno mosso ca.42で、冒頭のテンポに戻る
9)しどやーそもこー。もこしどやーそもこー。
のちテンポはPi ü mosso ca.58と速まり、句はそれぞれの声部で異なり重なり、「ソモコー」を絶えず響かせる作りになる。鍵言葉の波。ただし、強調というより微妙に耳に響かせ続ける仕掛けだ。
しどゆーきーしふらーやーそもこー。のらきんじーそもこー。もーらーのーらーそもこー。しらすーおもぎゃーやーそもこー。そぼもこしどやーそもこー。しゃきらーおしどーやーそもこー。ほどもぎゃしどやーそもこー。のらきんじーはーぎゃらやーそもこー。もーほりしんぎゃらやーそもこー。
[終部]
再びMeno mosso ca.42で冒頭と同じテンポに戻るが、3連符装飾音形なども含め多少の変容がある。また区切りも短く取っており、
10) なむからたんのーとらやーやー。
11) なむおりやーぼりょきちー しふらーやーそもこー してどーもどらーほどやーそもこー
読経文はここで終わるが、西村は以下を付加して終えている。
12)出音はⅠ)アー(ais-h-ais)ソモコーで、順次句の異なる下2声が加わる。 Ⅱ)シデトーホドヤー(ais–h)Ⅲ)モドラー(ais–)でais,hで終音。
13) マカーー
14) キャルニキャー キリダーイン ダラニー
最後の13)14)はユニゾンでcを出音に響かせつつ aに静かに終止する。
全体の調べは本作冒頭に象徴される半音、完全5度、増5度、増4度の響きをうねらせてゆくもので、リズミックな変化も陀羅尼のもつ呪性の堆積を映したものと言えよう。
女声3部合唱の創出する音響世界では、やはり唯一無二の作品だ。この後の『浮舟』(1998)での第2曲<薫>における8/6拍子のフガートの動きは本作第2部8)に似ていたり、『青色廃園』(2000)も雰囲気は類似性を感じるが、背後に言葉の世界があり、従って抑揚もはっきり、旋律ラインも当然それに沿う。
だが本作は歌詞がないに等しく、曲冒頭にsempre forte の指示のほかは強弱記号もディナミークもなく、アクセントでのみ表情を創るという、いわば音の「素」での勝負。つまり、言霊、音霊世界であって、やはり『汨羅の淵より』の上に位置付けられよう。
だからこそ、この『大悲心陀羅尼』のあり方は、筆者に大きな示唆を与える。
読経とは何か。
『苦海浄土』の石牟礼道子が不知火海に面し、熊本水俣市に隣接する出水市の寺、西照寺での講演に語った言葉を紹介する。2)彼女の幼い頃、寺は女が晴れ着で行ける唯一の楽しみの場であり、生活の雑念を離れ仏を拝む場であったという。
今の時代よりは、まわりの人間との縁も薄くはありませんから、皆さんで座りますと、一種のつよい共同性というか、求心性を生み出している雰囲気がありました。訳はわからぬお経がかえって、そういう人たちの心をたかめる、荘厳することにもなりまして、お寺というのは、長い間にはよくできております。
あるいは、『涅槃経』の「一切衆生また無常なりといえども、しかもこれ仏性は常住」を引き、
生きているひとり1人がそのまま、読もうと思えば人間の歴史をそれぞれ語っていて、知識を標榜するのとは、本来無縁の世界に生きている人びとの世界、生きているという混とんだけをその姿に具現している世界を言うのだろうと思います。
大衆、衆生というものは、あるいはこの世の姿というものは虚無の海のようなものだともいいますのは、そこらあたりをいうように思いますけれども、こういう世界をつきつめて、そこに自分もいるのだと思ってみますと、「この界に一人(いちにん)、仏の名(みな)を念ずれば、西方にすなわち一つの蓮ありて生ず」とう幻も、ひとつの世界として視ることができるのでしょうか。ここから先は詩と宗教がひとつになる世界ですけれども。
筆者は読経・読誦の本質はここにあると思う。陀羅尼、真言の真髄もそれだ。
わからずとも、心がたかまる。美しく荘厳する。
知識などなくとも、意味などわからずとも、聴くうち、唱えるうち、浄化される。
それが陀羅尼の姿であれば、西村のこの『大悲心陀羅尼』はその姿勢をそのまま音で伝えるものではないか。
(2023/3/15)
参考資料)
◆楽譜
『大悲心陀羅尼』自筆譜
『両界真言』自筆譜
『寂光哀歌』全音楽譜出版社
『炎の挽歌』同上
『浮舟』 同上
『青色廃園』音楽之友社
◆書籍
『親鸞』〜不知火よりのことづて 吉本隆明・桶谷秀昭・石牟礼道子 平凡社ライブラリー 1995
◆Youtube
『大悲心陀羅尼』https://www.youtube.com/watch?v=9hlu-FNtZwc
1)西洋音楽に通じた僧侶は、仲間たちのことを音痴で困る、と嘆息していた。つまり出音のピッチから読誦の際の音高の保持が正確にできないということ。だが、西欧基準で測ることが妥当かどうか、筆者は疑問に思う。
2)『親鸞』〜不知火よりのことづて 吉本隆明・桶谷秀昭・石牟礼道子 平凡社ライブラリー 1995
「名残の世」石牟礼道子 p.131~182