五線紙のパンセ|人は音楽に何を求めるのか?|渡辺俊哉
人は音楽に何を求めるのか?
Text & Photos by 渡辺俊哉(Toshiya Watanabe)
このコラムに前回、前々回と書かせて頂いたが、3回目の今回が最後になる。コラムを書く前は、最終回は自作について書こうと思っていたのだが、今まで書いてきたものが、既に殆ど自作を語っている内容である上、CD収録曲に関して書いた《私の知らない歌》と題した(このタイトルは、大木潤子氏の同名の詩に、CD収録のために新曲を書いたので、それに由来する)研究ノートもダウンロードできるので、もし個別の作品に関心がある方がいらっしゃったらそちらをご覧頂きたいと思う。そこで今回は、人は音楽に何を求めるのだろうか?ということを端緒にして、つらつら思っていることを書いていきたいと思う。
巷では、音楽によって癒された、元気をもらったなどという言葉が溢れているし、音楽を提供する側の立場である音楽家も、聴いてくれた人たちに対して、音楽によって感動を届けたいなどと言う。それはあたかも素晴らしい音楽や演奏の中には、必ず感動が付いてくることが約束されているかのようだ。それでは一体、人は音楽の何に感動するのだろうか? 本来、音楽の受け取り方や、音楽に何を求めるかは人それぞれだろう。最初から感動を求め、ときには自らの人生と重ね合わせながら聴く人もいるだろうし、また一方では、音楽に対して感動など求めず、BGMのように考えている人もいるだろう。また一言で感動と言っても、何に対して感動するのか、感動の対象となるものも人それぞれ違うだろう。そのように考えていくと、音楽は極めて個人的なものではないか、と思えてくる。つまり、何か用途がはっきり決まっているものや、スポーツのように順位が明確に出るものは答えも一つだろうが、そうした明確なものがない音楽は、全ての人が納得したり、全ての人が感動し同じ思いを共有するような体験は、なかなか得にくいものだろうと思われる。したがって音楽は世界の全ての人が、誰でも受け入れられる(こうした言い方で使われる音楽は、どういった音楽を指しているのだろうか)世界共通語ではないし、むしろそれぞれの国や、ジャンルによって固有の文法があるだろう。それでは音楽を発信する側が、本来個人的なものであるはずの音楽を大勢に受け入れられるようにする場合、どのようなことが考えられるだろうか?
大勢の人に受け入れられるには、宣伝の量やイメージをどのように作り上げるかなど、様々な要因があると思うが、一つには、感情移入できるかということが大きなポイントとなると思う。言葉を伴わない、いわゆる器楽音楽は非常に抽象的なものである。したがって、聴き手が具体的なイメージを持つことが難しく、それだけであると、感情移入することは難しいだろう。しかし器楽音楽であっても、聴く際に作り手の人生を投影しながら聴くことができるとしたら、どうだろうか? おそらくそこに感情移入し、感情移入したフィルターで作品に接することで、より掴み所がはっきりし理解もしやすくなるだろう。作曲家の人生と重ね合わせて作品に接するというあり方で思い出すのは、何年か前にあった佐村河内守に関する一連の出来事だろう。彼の作品は、尽く彼の難聴と結び付けて宣伝され、難聴の中から生み出された作品ということや、作品を生み出すまでの苦悩といったことが非常に強調されて売り出されていた。そう、作品は簡単に生み出されてはならず、苦悩の中から生み出さなければいけないのだ。そしてその後の事の顛末は皆様ご存知の通りだと思う。この一連の出来事を通して気が付くことは、作曲家の境遇を想像しながら聴くというあり方は、殆どがクラシック音楽であるという点であり、ポピュラー音楽にはほぼない現象だということだ。クラシックにおいても、これらの元祖は、またしてもベートーヴェンだろう。即ち、ベートーヴェン以降、より作曲家や作家性ということが強調され、作曲家の人生を通して音楽を聴くという聴き方に結び付いていく。そしてその物語(この場合、苦悩に彩られていることが多い訳だが)を補強するために、交響曲、しかも大作の交響曲という器を利用する。それに対して、例えば中田ヤスタカの楽曲に対して、作曲者の人生や考えを投影しながら聴くということは、あるだろうか? おそらくまずないだろうし、ポピュラー音楽の場合は作曲家名より歌手名で言い表す、例えばPerfumeの曲という言い方でも通用する。しかしクラシックや現代音楽においては、「誰の曲?」という問いかけに対しては、必ず作曲家名を答える。そして曲を生み出す作曲家が重要になると、作曲家自身へ興味や関心が向かうため、曲そのものを聴いているのか、それともその作曲家に纏わる様々な事柄を通して聴いているのか、分からなくなる危険性を常に孕んでいると思う。もちろん人の聴き方は千差万別で、どのような聴き方をしていても否定されるべきではないと思うが、一般的にはそうした聴き方が多いことは、前述した佐村河内守に関する出来事を思い出してみても、明らかだろう。
しかし、音楽そのものをどんなフィルターをも通さずに聴くということは、果たして誰にでも容易にできることなのだろうか? それは意外に難しいことなのかもしれない。なぜなら、日常生活に目を転じれば、人は慣習に囚われ、フィルターや属性を通して物事を捉えて、それらに左右されていることに気が付くことが多いからだ。そしてそうしたイメージは、一度定着するとそこから離れるのは大変難しい。そもそも現代の社会は、あらゆる情報が氾濫しているので、あるイメージに絡めとられてしまう危険性は常にある。
作曲においては、イメージやフィルターは国籍性と結び付くことが多い。特に、非西欧の人々はそのように考えられる傾向にある。西洋音楽が自分達の文化(音楽)であると考える人々にとって、「日本人作曲家」というとき、おそらく彼らが思い描く「日本」を期待しているに違いない。しかし、言葉やイメージは、大きく捉えた分かりやすいフィールドに落とし込むものであって、実はそこからこぼれ落ちるものはたくさんあるだろう。例えば、「侍」や「禅」は「日本」を知ってもらう言葉としては良いかもしれないが、日頃、私はそうしたものに囲まれて日常を過ごし、身近に感じているかといえば、そのようなことはない。私の世代くらいになると、それらはもはや日常からは遠い存在だ。したがって必ずしも皆が一様に、古くからの日本文化から影響を受けているとは限らないし、距離の取り方も多様であるはずだ。もちろん私は日本に生まれ日本で生活しているので、他の国の方々が私の音楽を聴けば、彼らにはないという意味での日本的な感性が備わっているのかもしれないが、その「日本的」というのは一つに括れるものではないし、むしろそれは個々人に備わった気質や、生活してきた環境によって幅があるものだろう。
イメージやフィルターを通さずに、虚心に音を聴くこと。それは大きな網からこぼれ落ちた何かを拾い上げることに似ている。そのこぼれ落ちたもの、効率性からはみ出た何か、そのようなものに耳を傾けていきたいと思っている。なぜなら、個々人の声は一色ではなく様々な声に満ち溢れていると思うからだ。
3回に渡って連載してきたが、改めて言語化すると自らの考えを見つめ直すことができ、私にとっては貴重な機会だった。このような機会を与えてくださった、関係者の皆様にお礼を申し上げます。また、連載を辛抱強く読んでくださった皆様には、感謝の言葉しかありません。
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プロフィール
渡辺俊哉
東京藝術大学音楽学部作曲科卒業。同大学大学院修士課程作曲専攻修了。1999年度武満徹作曲賞第3位入賞、武生作曲賞2003入選、第24回入野賞佳作、第9回佐治敬三賞受賞など。2012年Music from Japan(NewYork)、2013年HIROSHIMA HAPPY NEW EAR 、その他、様々なアンサンブルや個人の演奏家から委嘱を受けている。武生作曲ワークショップ、ロワイヨモン音楽セミナー(フランス)などに招聘され、2013年にはタンブッコ・パーカッション・アンサンブルより、レジデンス・コンポーザーとしてメキシコへ招かれた。2020年3月に、作品集「あわいの色彩」(ALCD-122)のCDがコジマ録音より発売され、各誌で高い評価を得た。現在、国立音楽大学准教授、東京藝術大学、明治学院大学各講師、日本現代音楽協会事務局長。作曲家、演奏家、音楽学者とともに、研究と実践を通して音楽を多角的な視点から考えるグループ「庭園想楽」代表。
https://www.teiensogaku.com
http://composerworklist.wixsite.com/composerworklist/toshiya-watanabe
【CD情報】
・渡辺俊哉 作品集「あわいの色彩」(コジマ録音/ALCD-122)
http://www.kojimarokuon.com/disc/ALCD122.html
・《Music for Vibraphone》
「ヴィブラフォンのあるところ」/ 會田瑞樹(コジマ録音/ALCD-113)に収録
http://www.kojimarokuon.com/disc/ALCD113.html
・《葉脈》
24 Preludes from Japan / 内本久美(piano) (stradivarius/STR37089)に収録
https://www.stradivarius.it/scheda.php?ID=801157037089100
(2022/11/15)