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松平頼曉 90歳の肖像 室内楽作品を中心に|秋元陽平

松平頼曉 90歳の肖像 室内楽作品を中心に
Matsudaira Yori-Aki 90 Portrait Concert

2022年2月18日 東京オペラシティ リサイタルホール
2022/2/18 Tokyo Opera City recital hall
Reviewed by 秋元陽平(Yohei Akimoto)
Photos by Jun’ichi Isihizuka

<演奏>        →English
多久潤一朗(fl) / 荒木奏美(ob) / 菊地秀夫(cl) / 濱地宗(hr) / 村田厚生(tb) / 橋本晋哉(tub) / 神田佳子(perc) / 篠崎和子(hp) / 太田真紀(vo) / 篠田昌伸(pf) / 中村和枝(pf) / 亀井庸州 (vn)/ 佐久間大和 (vn)/ 安田貴裕(vn) / 多井千洋(va) / 多井智紀(vc) / 石川征太郎(cond)

<曲目>
コントラポジション(2004)
  多久潤一朗(fl)、荒木奏美(ob)、菊地秀夫(b-cl)、中村和枝(pf)
弦楽四重奏曲第3番「ポアソンの遊戯」(2011)
  佐久間大和、安田貴裕(vn)、多井千洋(va)、多井智紀(vc)
トリゴノメトリー(2014:初演)
  濱地宗(hr)、村田厚生(tb)、橋本晋哉(tub)
アークのためのコヘレンシー(1976)
  多久潤一朗(fl)、菊地秀夫(cl)、篠崎和子(hp)、神田佳子(perc)、篠田昌伸(e-pf)、石川征太郎(cond)
創世記(1981)
  太田真紀(sop)、多久潤一朗(fl)、菊地秀夫(cl)、多井智紀(vc)、中村和枝(pf)、石川征太郎(cond)
変奏曲 ヴァイオリン、チェロ、ピアノのための(1957)
  亀井庸州(vn)、多井智紀(vc)、篠田昌伸(pf)
スパークル(1997)
  多久潤一朗(fl)、亀井庸州、安田貴裕(vn)、篠田昌伸(pf)、中村和枝(toy-pf, etc.)、石川征太郎(cond)

 

石塚潤一の主宰するTRANSIENTと気鋭の演奏家たちが手がける、松平頼曉の室内楽にフォーカスしたコンサートである。昨年わたしは同団体による篠原眞の個展に感銘を受け、本誌企画賞一位に推挙した。今回もまた、松平作品の実演に立ち会うのは初めてであるが、そうした不勉強を棚に上げれば、このような出会い方それ自体がやはり僥倖であった。
さて、企画者にして批評家の石塚は松平を、表現と情感性に徹底して距離を置いた「システムの作曲家」であり、とくにストラヴィンスキー的な「新古典主義」の作曲家であるという。この「システム」と「新古典」の繋がりは、文字だけ見ても自明というわけではないが、コンサートが終わってみて、なるほど腑に落ちた。どういうことか? システムによって情感性に抗う作曲には、ある種のセリエルミュージックがあてはまる。例えばホリガーがワーグナー的な情念に抗ってこそ戦後前衛だという旨発言していたことが思い出される。これに対して、ラヴェルやストラヴィンスキーにおける狭義の新古典主義は、伝統的古典音楽の形式性へのなんらかの形での回帰であるとしよう。ところで、そこで範を提供するクープランにせよペルゴレージにせよ、古典音楽に情感がないということはおよそ考えられない。
それにもかかわらず、たしかに新古典主義はどこかで情感に距離を置く、と言える。ラヴェルやストラヴィンスキーは、情感性をいわば素材の次元で堂々と用いるが、それは引用され、展開され、表出的性格を半分だけ失う。反対に、例えば当のホリガーの『エリス』のような作品に、あるいはそれよりはやや間接的だが、ブーレーズのソナタに、セリエルミュージックに特有の、冷たいエロティックな情感性を感じないことがあろうか。それをどう評価するかはおくとしても、戦後前衛に共通する情感への反抗には、二次的に、<反抗の情感>のようなものがやどることがある。この情感の抑制的引用という点に関して、たしかに松平作品は、ストラヴィンスキーの側にいるように思われる。彼の作品は、実のところエモーショナルな素材にことかかない。『ポワソンの遊戯』におけるシアトリカルな要素、『スパークル』における俗謡の侵入、『創世記』のソプラノ、『コントラポジション』の中盤における、互いの機械的な警告音によって遮られるメロディーたち、あるいは、ライヒならそこにパセティックなムードが現れてしまうはずの『コヘレンシー』における音型反復など……だが、これらはいわば実験環境のなかで慎重に単離され、展示される。われわれは何らかの感情におそわれるというよりは、抽出された心の素材をしげしげとガラス越しに見ることになる。例えば、情念と意味の極致としての人間の声、『ポワソンの遊戯』における叫び声でさえも、それはルチアーノ・ベリオの諸作品におけるように、しばしば意味をうばわれてなお挑発的な肉体性を感じさせはしない。それは慎重に配列されるのである。松平はいわば、情念に反抗することで反抗の情念が現れることすらも忌避し、事象の生成する場の構築に専念するようだ。この点、素材が絶えず変わっても抽象化された独特のムードがたえず滲出してくる篠原眞の作品とは好対照を成すと言えるだろう。
そう書くと、まるで松平作品が非人間的な厳しい響きのみで構成された音楽であるかのようだが、必ずしもそうではない。松平の音楽には、複雑な操作介入があったとしても、どこかしら「突き放した」と同時に「肩の力の抜けた」、怜悧かつ自然な——これは自然科学の「自然」でもある――たたずまいがある。素材を引用しながら、引用した素材にときに入れ込み、ときにある種のサディスティックなゼスチュアでそれを引きちぎるストラヴィンスキーに比べて、松平の音楽には、著しい変形を伴う引用を行うまさにそのときでも、ある種の透徹さ――音楽も、情感も運動も、そしてわれわれの聴取も、ひとつの生起する現象であるというフラットな意識があるようだ。あまりにもフラットなので、音楽はまるで自然に凝結するかのように立ち現れるのだが、聴取は奇妙なほどに散漫になることがなく、そこに気づくとき、にわかに設計者の見事なコントロールを感じさせる。聴衆の注意力そのものが統御されているのだ。このことは、とくに全編にわたって散文的な様相を強める近作(たとえば『ポアソンの遊戯』)についてよく言える。もちろん付け加えておくなら、こうした情感的、あるいは松平の言葉を借りれば「意味」をまとったパッセージの括弧の付け外しは、演奏においてやりすぎてもいけないし、機械的でも効果がないだろう。この点、例えば『コントラポジション』を締めくくる多久のソロをはじめ、卓越した演奏家による演じ分けがなければ、こうした松平による「引用」の綾の存在に気づけなかったかもしれない。いずれにせよ、既に松平作品を知悉した聴衆のみならず、(わたしのような)「日本の現代音楽」ビギナーにとっても、ひとりの作曲家を知る導入として、TRANSIENTのコンサートより望ましい機会はないはずだ。

(2022/3/15)



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<Performers>
Jun-ichiro Taku (Fl) Araki Kanami(Ob) Hideo Kikuchi(Cl) Kaname Hamaji (Hr) Kousei Murata (Tb) Shinya Hashimoto(tub) Yoshiko Kanda(perc) Kazuko Shinozaki(hp), Maki Ohta (vo) Masanobu Shinoda (Pf) Kazue Nakamura(Pf) Yoshu Kamei, Yamato Sakuma, Takahiro Yasuda (Vn), Chihiro Tai (Va) Tomoki Tai (Vc) Seitaro Ishikawa(cond)

<Program>
Contraposition
Game of Poisson for SQ
Trigonometory
Coherency for Ensemble ARK
Genesis
Variations for violin, violoncello, piano
Sparkle