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プロムナード|ベルリンの私のおばあさん|小石かつら

ベルリンの私のおばあさん

Text by 小石かつら(Katsura Koishi)

ベルリン、シャルロッテンブルクのギーゼブレヒト通り

2005年に1年間留学したベルリンは、私にとって、何度目かのドイツ長期滞在だった。行ったり来たりを合計して、その時までに3年ほどドイツにいた。デュッセルドルフでは郊外の住宅地でホームステイ、ライプツィヒでは学生寮、と、ありがちな形態は体験済みだったので、ベルリンでは「下宿(間借り)」というスタイルを選んだ。下宿することになったのは、旧西ベルリンの中心地シャルロッテンブルクの、そのまた中心にある古い石造りのアパートで、天井が高くて大きな部屋が4つほどあるところだった。定年退職した歴史学の研究者クラウスが1人で住んでいて、外国人留学生に一部屋が貸し出されていた。徒歩数分のところにはクラウスのお母さんが、これまた同様に下宿生を住まわせながら独り暮らしをしていた。彼女は90歳をずいぶんと超える高齢で、ベルリン自由大学の創立時からのフランス文学の教授だったらしい。毎週、母息子は揃って青空市場に1週間分の買い出しに行く。私は、1年の留学中ほとんど毎週、一緒に買い物に行った。

アパートに入るクラウス

市場は、徒歩10分ほどのところにある広場で、毎週土曜に開催される。まずは、お母さんの家に行って、準備を手伝って、大きなコロコロを引いて石畳を一緒に歩く。最初に行くのは宝くじ売り場。彼女は毎週必ず宝くじを買うのだ。私が何も言わずにいると「宝くじなんて無駄遣いだと思ってるでしょ。当たるわけないって思ってるでしょ。当たるかもしれないわよ。確率が低いだけで、絶対に、当たりくじはあるのよ。毎週、毎週、当たるかもしれないって思ったら、わくわくするじゃない?わくわくする時間を買っているのよ」と、勝手に反論する。いや、私は何も言ってない。でも、お母さんは毎週、ひとりでそうやって捲し立てて大はしゃぎ。ちなみに、クラウスは買わない。

市場では、顔馴染みのお店で、いちいち全ての人と話しながら、いつもほぼ、同じものを買う。でも、りんごの説明とか、じゃがいもはどうやって選ぶのだとか、そろそろ季節のコレコレが売り出され始めるとか、彼女が会話をしている風景をながめるのも、私に説明してくれるのも、おもしろいやらおかしいやら、楽しくてしょうがない。そう、彼女はずーっとしゃべり続けている。クラウスは、何もしゃべらない。

小一時間かけて市場をぐるりと回ったら、ふくれあがった大きなコロコロを引いて、市場に面したカフェに入る。私だってクタクタだし、コーヒーを飲んで休憩しないと帰れないよ、そら。もちろん、コーヒーにまつわる蘊蓄のあれこれも続くけれど。

お母さんの家に帰ったら、これは毎回ではなかったけれど、一緒にお昼ご飯を作ることもあった。100歳に近いのに、ずっと立ちっぱなしで料理をして、テーブルセッティングもして、ちょっとこってりした、昔ながらと思われるドイツ料理を、クラウスに作る。たぶん70年位そうやってきたのだろう、クラウスは、本当においしそうに(実際とびきりおいしい)、ちょっとこぼしながら、残さずたいらげる。私も一緒にごちそうになっているのだけれど、「息子の食べっぷり」を見ているのって本当に良い風景だな、と、ずっと思っていた。

クラウスとお母さん。このスタイルで市場へ行く。

とにもかくにも、お母さんの話はおもしろかった。第一次世界大戦も、第二次世界大戦も経験していて、ワイマール共和国時代に娘時代を過ごしているのだ。第二次世界大戦中は、クラウスの子育て期間とも重なる。出身はレーゲンスブルク。しかも、「世界で一番古いソーセージ屋Historische Wurstküche」の娘だった。ドナウ川に面したレストランは『地球の歩き方』にも載っていて、ミーハーな私は、その話をもっと聞きたかったのだが、彼女は実家については、あまり話さなかった。

一方、よく聞いたのは、アメリカでの教授経験だ。枕詞のようにいつも繰り返されるのは、「アメリカ車なんて信用できないから」フォルクスワーゲンのビートルをドイツから船で運んだという話。ビートルはアメリカでもよく走り、ちゃんとドイツに連れ帰ってきた。アメリカで、西ベルリンのドイツ人がフランス語を教えるというシチュエーションは不可解だったけれど、このチグハグ感には彼女も同意で、「おかしいわよね」と、いつも一緒に笑った。

私はベルリンにいた365日間に、オペラと演奏会を合わせて300演目以上に出かけた。クラウスたちはベルリン・フィルの年間予約会員だったので、会場で会うこともあったし、朝クラウスに会うと、前日の演奏会の話をした。クラウスは私の話を楽しみにしてくれていた。ある時、突如クラウスの顔が曇り、嫌な空気が流れた。何故かと私が問う前に、静かに聞かれた。「カツラはワーグナーが好きなのか?」「はい。」嫌な空気は沈黙に変わった。私は別にワグネリアンではないし、好きというほどでもないけど、嫌いというほどでもない。でも何故、ワーグナーを聴いてはだめなの?私とて、「問題」を知らないわけではない。でも、ワーグナーを避けても意味はない。ずいぶんと沈黙したあと、クラウスは、「カツラはドイツの歴史を知っているのか?」と私に聞いた。「知っているけど、たぶん十分ではないと思う」と、答えた。それきり、会話は終わった。それ以降、ベルリン・フィルの会員券でワーグナーの曲が含まれるときには、「僕たちは行かないから」と言って私にくれるようになった。彼らは、決してワーグナーを聴かなかった。1曲たりとも聴かなかった。

ドイツの家庭では、「プッツフラウ」という掃除をしてくれる方を雇うのが、ごく普通のことだ。デュッセルドルフにいた時はもちろん、学生寮にいた時でさえ、週に一度、プッツフラウが来て掃除機がけなどをしてくれた。プッツフラウは信頼されていて、鍵も渡されて、留守宅であろうと勝手に入って掃除をしてくれる。もちろんベルリンの家にも、プッツフラウはやってきた。言うまでもなく、お母さんはプッツフラウと楽しくしゃべりまくって時を過ごしていた。ある時、私に言った。「こうやって我々がポーランド人を雇うことによって、彼らも生活していけるようになるのよ。だから私は、ポーランド人に頼んでいる。彼女はポーランド人だけど、とてもいい人よ」。やたらと耳につく「ポーランド人」の強調。両国に横たわる歴史が、私の頭にのしかかる。しかしそれは、踏み込んではいけない領域に思われた。

クラウスのアパートのキッチン

またある時の会話で、お母さんは下宿生について語った。「私はずっと、アジアの国からの留学生を自宅に住まわせているの。貧しいアジアの国からの留学生を助けるために、安い家賃にしているのよ。アジア人留学生はとても勤勉で、国へ帰れば立派に活躍する子たちだから」。その時、お母さんのところに下宿していたのは、韓国人留学生だった。たしかに、家賃はものすごく安かった。周辺の家賃とは比べ物にならず、正直、学生寮よりも安かった。「貧しいアジアの国からの留学生」のくくりに、私も入っていることを認識して、どうにも言い表せない気持ちになった。私は、ただ「お得」だから、この下宿を選んだのだった。

建前やら本音やらが入り混じった私のベルリン下宿生活も終盤にさしかかったころ、帰宅したら、お母さんが台所で激怒していた。「カツラ!この汚い台所は一体どういうこと?」見れば、琺瑯のキッチンが少々黄ばんでいる。汚くはない。きれいに洗ってあって、清潔である。「カツラ、女というのは、職業人である前に、主婦(Hausfrau)なのよ。ハウスキーピングができないで、仕事なんてありえない。あなたはキッチンの洗い方も知らないの?」ナニコノ時代錯誤感。100歩譲って世代間問題と割り切っても、このキッチンきれいだし。触ってみなさいよ、キュキュッと音もするし、磨いてあるし。しかも私はこの家の主婦じゃなくて、下宿人だし。私の洗い方が気に入らなければクラウスが洗えばいいじゃない。お気に入りのポーランド人だっているし。

私の心の中は反論で渦巻いた。でも、100歳に近いスーパーウーマンに言い返したところで勝ち目はない。黙っているに限る。私の予想通り、彼女はドイツのケミカルのすばらしさについて長大な演説をし、ドイツの洗剤会社が世界中に子会社を展開して世界の清潔環境に貢献していることを語った。そして、鼻高々に台所の洗い方を教えてくれた。それは至極単純だった。洗濯用漂白剤をキッチンに直接ふりかけておけと言うのだ。余りにも拍子抜けする主婦術だった。世界に冠たるドイツのケミカルって言うから期待したのに、漂白剤くらい日本にもある。しかも洗濯用。

きちんと清潔にしているつもりのキッチンに文句を言われたからか、長すぎる演説に疲れたからか、期待を裏切る結末だったからか、私の中のもろもろが、音を立てて崩れた。性別役割分担意識とか男女共同参画とか、そんな論議が、馬鹿馬鹿しくなった。笑い出しそうだった。ただ目の前のキッチンをどうするのか。解は、10秒完結漂白剤マジック。「女というのは、職業人である前に主婦なのよ。ハウスキーピングができないで、仕事なんてありえない」。「女というのは、職業人である前に主婦なのよ・・・」。何度も何度も、わんわんと同じセリフが身体中にリピートしつづけた。真っ白になった琺瑯のキッチンが、私を鼻で笑っていた。

それから間もなく帰国し、私は男子を出産した。世代も、文化も、常識も遥かに越えて、クラウスのお母さんは、私のロールモデルだった。子連れでベルリンを再訪した時、お母さんは、「日本からのお客さんだから」と、真珠のネックレスでおしゃれをして、家宝の銀の食器で、私たちを迎えてくれた。それから数年経って、クラウスから、お母さんが亡くなったと手紙が届いた。私にとってのドイツの20世紀が、静かに閉じたような気がした。

この原稿は、半年ほどかけて、色々たのしく思い出しながら綴っていた。そろそろ締め切りが見えてきた9月21日、クラウスの訃報が届いた。82歳だった。

(2021/11/15)