カデンツァ|音楽の未来って (10)クラシック音楽の近未来を語らってみた〜生と配信|丘山万里子
音楽の未来って (10)クラシック音楽の近未来を語らってみた〜生と配信
“Where does Music come from? What is Music? Where is Music going?”
“ D’où venons-nous ? Que sommes-nous ? Où allons-nous ?”
Text by 丘山万里子(Mariko Okayama)
この5月初旬に、本誌執筆メンバー8名とゲスト2名参加で《クラシック音楽の近未来》を考えるオンライン座談会を開催、思うこと多々であった。
今回は「生と配信」をテーマとしたが、話は多岐にわたり、とりわけ20〜30代の若者たちの感覚・意識を興味深く聞いた。
彼らに「今」がどう見えているか、は、これからのクラシックのありようへの手がかりとなる一方で、70代後半の長老(元TVキャスター)の語る西欧体験談に、へえ、みたいに驚き頷く姿に、かつての自分が重なる。昔々、遠山一行が桐朋でやっていた「批評実習」での氏の、講義というより西欧よもやま話(コルトーの演奏や、P・クローデルのサロン話など)に聴講で潜り込み(とっくに卒業していたから)、遠い世界の夢物語に思ったその感覚、彼らもまた、そんな感じなのだろうか、と。
いや、遠い夢物語世代の持つ西欧憧憬と、そこに片足突っ込んだままに近い私世代と、すべてが並列のデジタルネイティブ世代とが、「クラシックの未来」について語る、そこ・底にあるのはなんだろう、がずっと私の思念の基音となった。
コロナ禍も長く、先も見えない。
それでも私たちはこのように各地(こういう時、オンラインは便利だ)から集い、老いも若きも未来に向けてのクラシック談義をしている。
「へえ」が相互に飛び交うその時間から、私が汲み出したものを少し述べてみる。
クラシック衰退の危機は叫ばれて久しい。大きな理由は享受層の高齢化だが、コロナはその享受母体を一撃、彼らが劇場に戻る可能性は極めて低い。チケットレス化も、ワクチン接種で明らかなように、この世代をさらに「生」から遠ざける。購入も面倒、行くのも億劫、感染不安で家にひきこもるのであれば、それを連れ戻すに労を払うより、若い世代を引っ張り込む方が採算あり、と考えるのは自然だ。
「生」と「配信」の論議(私も含む)の中で掴めたことは以下。
生に行けないなら配信で、という代替物的発想はあまり効力を持たないだろう。「生」を楽しむ喜びを知る人は「配信」に鞍替えしようとは思わない。少なくとも従来の年配享受層が「配信」を楽しむ感性・感覚を持つのは難しい。せいぜい海外Big公演無料配信あたりではあるまいか。
生で得られる音楽の「質」(この「ソ」がどんな「ソ」であるかの意味、ハーモニーの変化に感じ取れる意味、といったリアル空間でなければ受け取れないもの)がクラシックには重要。場の共有、空気の振動の体感。配信では単なる一律平板な情報に置換されてしまう。情報でなく、意味(すなわち「質」)を聴き取る「成熟」と、享受が「熟年層」であることはクラシックを考える上での手がかりの一つとなるかも?
高齢者は常に存在するのだから(誰もが老いる)「新しい年寄り」を漸次取り込む工夫があってもよかろう。
生の代替品でない、創造的配信プログラムの創出には新たな可能性がある。だたし、現況は映像とのコラボなど従来あったものの急ごしらえ安直路線でいかにもコンテンツが貧弱、真の「創造性」など見当たらない。
無難(ポピュラー)な曲目に映像をかぶせただけ的双方のパワーバランス(ほぼ映像主導)が露呈するような公演では、両者に不満が残るのみ。
デジタルネイティブ世代はスマホに好みの音楽をダウンロード、好きな時に好きな音楽を耳元に流す、いわば垂れ流し享受層。ゆえ、他ジャンル(ボーカロイドに至るまで)の高品質を知る感覚にはクラシックの配信レベルは時代遅れ、ニコニコ動画などもはやネット老人会だ。
「創造性」の欠如は、デジタルコンテンツ勝ち組(始動はほぼ20年も前)の成功譚にクラシックが活路を求める発想ゆえで、いわば出来上がった価値同士の主導権争い、あるいは予定調和に終始、双方の「創生」への意識・理解が不足している。
話しながらこもごも頭に浮かんだことを、思いつくまま並べれば、
高齢者に特化するなら(私もその一人ゆえ極めて現実的)
なんとか生を、と切望する高齢者層へのきめ細かなサービス。高齢者専用窓口から巡回送迎バス手配など、劇場に迎えるに地域でいろいろできることはあろう。
保守派お好みプログラムにごく短い現代モノを一つ入れ、高齢者の耳にも刺激(スパイス)を与え、心身の活性化を図る。
内外若手新人をじゃんじゃん並べ熱気と活気をもらう。孫育て気分の空気は双方に良い。
若年層に特化するなら
出来合い「勝ち組」や Bigとのコラボでなく、新進、インディーズ系と手を組み、「一」から一緒に制作する。各種業界権威に寄りかかる発想は止めたい。
「青少年育成プログラム」的文化庁お墨付き資金調達発想でない、巷の若い耳を挑発するようなコンテンツの開発。
「共創」をつなぐ地力あるディレクターの確保・育成。
と挙げつつ、この5年あまり本誌Back Stageに掲載の制作現場の方々の様々な試みや活動を顧みれば、こんなことなどとっくに実施中。その努力がコロナ禍を経てこそ実を結んで行くのではないか、と思い当たる(昨年3/15号以降、コロナ禍による現場の方々の労苦を考え休止していたが7/15号より再開予定)。
何より、「資金を!」が最も切実であることは確か。
でも、昨夏の日本音楽芸術マネジメント学会での兵庫県立芸術文化センターの方の「再開ありきでなく無理に進まず、確信を積み上げる」のように、できるところからやってゆけば、と改めて思う。
そうしたことごと以上に享受層の一人として考えたいと思ったのは、世代を超えた「クラシック」談義に流れるある種の了解、クラシックの意味・価値について。
私はクラシック信奉者ではなく、クラシック愛布教・伝道者でもないが、とても好きだ。
しょっちゅうではないが、揺すぶられ、堪らなくなる。
そこにあるのは、なんなのだろう。
「ソ」の意味が伝わる、伝わらない、は、クラシックの根源的な力とどう関わるのか。
生と配信にしても、別段、今に始まったことでなく、巷であれ教会であれ、サロンであれ劇場であれ、人が集う場に響く音楽(生)が印刷技術によって拡散され、録音技術によって拡散され、今、新たな通信技術によって拡散され、つまりは伝達手段(メディア)の進歩とともにここまで来たのであって、それでも「生」は今もある。
だが世界はもっと大きく、決定的に変わろうとしているのではないか?
ボーカロイドを楽しむ感覚が、「生」への欲求を滅し去る日が来るだろうか?
昨今、若手の演奏や作品にデジタル感覚を感取する私は、新たな享受の姿形を是非とも知りたいと思う。何が、彼らのどこを刺激し、どんな反応が生まれつつあるのか。
一方、AIにコンクール審査される日を恐れる若い演奏家の不安の切実(コンクールの是非はともかく)にも深く共感してしまう。
トヨタのウーブン・シティに生クラシックは必要とされるだろうか?
生命倫理すら危うい現代に、音楽の近未来をどう思い描いたらいいのか?
などなどハテナが頭に飛び交う。
ふと、思う。
地球の寒暖は、ほぼ10万年のサイクルでそれが地球の「ひと呼吸」と何かで読んだ。つまりは膨張と収縮。あるいは備蓄と放出。
すべて自然界にあって相反するものは(吐・吸、内・外、光・影などなど)、ワンセットで循環する動態だ。
音楽もまた、というか音楽こそ、この原理「ひと呼吸」そのもの、その体現に他なるまい。
そんなことを考えていたら、今夜はスーパームーン。
8時過ぎにいそいそと近くの原っぱに出かけてびっくり。かなりの親子連れ、カップル、友人仲間たちの輪がそこここに散っているではないか。
いっぱいに広がる空は雲もなく(と私には見えた)、みんな同じ方を向いて見上げている。のだが….見えない。何も見えない…..。赤い月?
ほぼ20分後、人々は「時間過ぎたけど、見えないよねえ」と口々に言いつつ、撤収を始める。だよね、と私は思わず笑ってしまい、でも何だかほっこりした。
みんなが空を一斉に見て、何か(自然の、宇宙の壮大)をじっと待ち望む。
そういう姿を私は久しぶりに見た。
風は冷たくなったが、たくさん着込んできた私は居残った。
月が満ちる方こそ、見たかったから。
やがて9時頃、おお、弓月が現れたではないか。ぼうと輝いて。私は驚喜。
そうして思ったより早いテンポで半月になり、やがて満月に....。
煌々と輝きを増す月。光と影の移ろい。
ガンジスに昇る朝陽に、地球の自転の速度を実感した、あの時と同じ感覚がよみがえる。
これもまさに「ひと呼吸」。
宇宙の壮大は人知を超える。
けれど、人間はそこに何かの真理、原理を読む。
その一つが、音楽なのだ。
音楽はまちがいなく、この宇宙の壮大、ひと呼吸を私たちに知らせる私たちの生み出す奇蹟だ。
原っぱに残り続けたわずか10人ほどが、静かに三三五五、何度も満月を振り向きながら家路につく中、私は胸いっぱいに原っぱの夜気を吸い、その時間を共にした見ず知らずの人たちに、ねえねえ、見たよね、見たよねと声をかけたくなる気分で、足取り軽く家に戻った。音楽を聴いて堪らなくなった時の気分とおんなじ、ねえねえ、と心で見知らぬ誰かに話しかけながら。
音楽の近未来をぼんやりのぞみつつ。
「ソ」の意味も価値も、享受の形も、それぞれだ。
ただこうして、世代を超え音楽の未来について語らう、そこに行き交う「へえぇ」の間から、少しずつ少しずつ、何かが浮かび出てくるかもしれない。弓月のように。
少なくともそんな時間を大切に育めれば、と私は思った。
自分は自分の呼吸で、言葉を吸ったり吐いたり....を続けよう。
それが「音楽について書こうとすること」の源だ、ということだけが今の私の確信。
5/26記
(2021/6/15)