Menu

撮っておきの音楽家たち|遠山慶子|林喜代種

遠山慶子(ピアノ奏者)
   ~草津夏期国際音楽アカデミーでの講師を中心に

草津夏期国際音楽アカデミー&フェスティヴァル
Photos & Text by 林喜代種(Kiyotane Hayashi)

ピアニストの遠山慶子が3月29日脳腫瘍のため亡くなった、87歳。
フランスの名ピアニストのアルフレッド・コルトーが来日した折にその演奏を認められ20歳で渡仏し、パリのコンセルヴァトワールのコルトーに師事する。1963年パリでデビュー。
第51回毎日芸術賞(2009年度)を受賞。
1980年に始まった「草津夏期国際音楽アカデミー&フェスティヴァル」のピアノのマスタークラス及び演奏者として第40回まで出演する。期間中に遠山慶子と参加の音楽家たちとの交流の写真を中心に取り上げる。また夫の遠山一行はこの音楽祭の音楽監督を長年務めるなど関わりが深い。上皇后陛下美智子さまは草津音楽祭のワークショップに多年参加され遠山慶子がサポートした。

以下の文章は遠山慶子の人となりが分かればと思い、『光と風のなかで〜愛と音楽の軌跡』(遠山慶子 聞き手加賀乙彦 彌生書房1993)、『音楽の贈りもの』(遠山慶子 CD BOOK 春秋 2009)から少し選んだものである。

「6歳でピアノを習い始めた。先生は5本のどの指でも同じような音が出るようにしなければならない、という。その頃好きだったヴァイオリニストのエルマンやティボーの演奏ではひとつひとつの音が微妙に違う。音がみんな同じように揃っているなんてつまらないと思った。」
「家にイエペス(スペインの世界的ギタリスト)なんかが来て弾いてもらった時に気が付いたんだけど、イエペスが弾いてくれると父と全然違う。メロディが跳ぶときに、父の場合なんかは跳べないわけよ。音を探すから間があく。イエペスはすぐに次の音が来ちゃうわけね。おかしなことに、音程で上がる場合にはある一定のものがジャンプする訳だからそこに間がなければならないの、私の中では。スムースに繋がっちゃうと、ちゃちっぽくなるの。」
「1954年アルフレッド・コルトーという先生が日本に演奏旅行に来て、私を弟子として招いてくださった。パリには10人くらいの日本人音楽学生がいただけだった。コルトー先生はその頃80歳に近い高齢で私は最後の弟子として可愛がっていただいたのです。私が今でも本当に感謝しているのは、先生が、ただ目先のことだけにとらわれず、広い教養をつけなければいけない、と教えて下さったことです。美しいフランス語を話すこと、ラシーヌなどの古典劇に親しむこと、たとえ十分に理解できなくても名優のしゃべり方や立ち居振る舞いに接していたことが今どんなに役に立っているか分かりません。コルトー先生は時にはおいしい料理も食べなければとおっしゃって、有名なレストランにも連れて行ってくださいました。フランス人には食事も大切な文化なのです。私はお酒は飲めませんが良いブドウ酒の味を知ることは音楽の善し悪しを知ることにもつながるのです。」
「私が大切にもっている大音楽家からの贈り物がいくつかあります。いずれも巨匠が亡くなられたときの形見分けとして頂いたものです。指揮者のイゴール・マルケヴィッチが使っていた指揮棒、またチェリストのピエール・フルニエからは小型の懐中メトロノームをいただきました。恩師のアルフレット・コルトーのお形見は小さな湯たんぽでした。これは手あぶりで銀色の丸いドラ焼きの形をしています。なかなか美しく美術品といいたいくらいです。中には冷めにくい化学物質が入っていて、お湯で温めてコンサートの時の手あぶりにするのです。演奏の前にお祈りでもするように握りしめていらっしゃいました。コルトーは巨匠ですが、大変なあがり屋さんで、曲の始まりを忘れないように始めの和音の手の形をつくったままステージにでていかれます。そういう時には手が冷たくなるので湯たんぽは大切な必需品だったのでしょう。」
「テレビでかっての名シャンソン歌手、ジュリエット・グレコが話しているのを聞きました。彼女は今でも美しい女性ですがその音楽以上に1950年代のパリの様子を美しく語るものでした。強く印象に残っているのは、昔は若い人たちに対して大人が親切だった、という言葉だった。いまは大人も子供も同じようになってしまったけれども、その頃の大人はもっと毅然としていたし若者も大人を尊敬していたというのです。私もそれに同感しました。」
「ある日、コルトー先生は私をルーマニア生まれの大ヴァイオリニストのジョルジュ・エネスコの家に連れて行ってくださいました。大演奏家の前で私はとても緊張していました。二人の大家は東洋の音楽学生のために弾いてあげると言って、バッハのヴァイオリニストとクラヴィアのためのソナタからラルゴを弾き始めました。その幻想的で静かな強い音楽をきいて私は涙が流れるのを止められませんでした。わたし一人のためにも、お二人は本当に真剣に演奏して下さったのです。二人の大芸術家の愛情がいまの私を育ててくれたと言っても言い過ぎではないと思います。」
「同門のクララ・ハスキルは10歳くらいのときにルーマニアからパリに来てコンセルヴァトワールのコルトーのクラスに入学した。あなたは先生に可愛がっていただいて良いわね。とハスキルに言われたことがある。他の生徒は一所懸命に教えるのに彼女はいつも後回しでレッスンの時間が足りない羽目になったんです。まわりの人はハスキルの音楽性がすごいので先生はあんまり教えることがないと思っていたようですけど。ハスキルはコルトーに自分の演奏を聴いてもらいたいので先生に手紙を書いた。どうか私の音楽会のために時間をつくっていただけないでしょうか。先生に聴いていただきたいと心より願っています、と。ところがコルトーは行かなかった。ただコルトーは、ハスキルのコンサートに行った私に、どうだった?と尋ねた。心にはかけていたんです。ある日レッスンを終えてコルトーと私は車でレマン湖のほとりに行き散歩をしたんです。クララに必要なことは放っておくことだ。クララはバランスがとれないような、孤独な時にもっとも素晴らしいものを生み出す才能なのだ。生涯満足をさせないことが彼女を生かす道なのだ、と。実にずしりと心にひびく話がうかがえた。」

遠山慶子はこのような大きな音楽家のもとで若き日に才能を磨いていたのだ。逢う人を楽しく豊かにしてきた遠山慶子を偲び、彼女のモーツァルトの音楽を聴こうと思う。

関連記事:撮っておきの音楽家たち|小柴昌俊&遠山慶子|林喜代種

(2021/4/15)