兵庫芸術文化センター管弦楽団 特別演奏会|佐藤馨
兵庫芸術文化センター管弦楽団 特別演奏会
ベートーヴェン生誕250年 佐渡裕 音楽の贈りもの
PAC with ベートーヴェン! 第1回
Hyogo Performing Arts Center Orchestra Special Concert
PAC with Beethoven Vol.1
2020年9月12日 兵庫県立芸術文化センター KOBELCO大ホール
2020/9/12 Hyogo Performing Arts Center Grand Hall
Reviewed by 佐藤馨(Kaoru Sato)
Photos by 飯島隆/写真提供:兵庫県立芸術文化センター
〈演奏〉 →foreign language
指揮・芸術監督:佐渡裕
管弦楽:兵庫芸術文化センター管弦楽団
〈曲目〉
ベートーヴェン:交響曲第1番ハ長調 op.21
ベートーヴェン:交響曲第3番変ホ長調 op.55「英雄」
ある曲が好きでない時は、いくつかの場合が考えられる。
まず、そもそも自分の好みでない場合。これは救いがない。一聴して判断できることもあれば、何度か聴けば分かるのではと淡い期待をする時もある。しかしながら、恐らくどれだけ聴き込んでも好きにはなれない。よくても、特に感想のない曲として落ち着く。
次に、まだよく聴けてない場合。世の中には「スルメ」という概念が存在する。第一印象はパッとしないが、その後で二回、三回と聴き込むにつれ、まるでスルメを噛むごとに味が深まるように、その曲の良さがじわじわと出てくる。これはむしろ幸せな出会いのように思われる。だが、初めの印象の薄さで曲を離れてしまうこともあろう。それを避けるためにも、とりあえず何回か聴いてみることは重要なのだろう。
そして最後、まだ良い演奏に出会えていない場合。ある演奏をきっかけに、良さに気づかされるということだ。しかしこれは並大抵のことではない。それがどんな演奏なのかは、出会ってみなければ分からないのだから。本当にただ馬が合わないことだってあるわけで、それでもなお、いつか分かると思って耳を傾け続けるのは、苦行に近い。
私にとって苦手な曲の一つが、ベートーヴェンの「英雄」である。この曲はクラシック音楽史上、器楽の可能性を飛躍的に押し広げた、偉大な傑作とされている。しかし、そうした価値は分かるとしても、私にはこの曲の良さが分からない。この曲に近付こうと色々聴いたが、最後までちゃんと聴き仰せられたことはほとんどなかった。これはどこまでいっても自分に馴染まない曲なのか。あるいは、うま味を知らしめてくれるような美味しい演奏にまだ触れていないからなのか…。勝手な話だが、それでも私が英雄を聴こうという時には、良さを啓示してくれるような演奏との巡り会いを期待しているのだ。
佐渡裕と兵庫芸術文化センター管弦楽団のベートーヴェンに対しても期待を抱いて臨んだ。これはPACの新シーズンの開幕公演でもあり、コロナによって多くの公演を中止せざるを得なかった昨シーズンを経て、定期演奏会に代わるプログラムとして考えられたのが「PAC with ベートーヴェン!」ということらしい。若手奏者育成の使命も負っている同楽団にとって、9月は本来であれば国内外から新メンバーを迎える大切な時期だったが、この状況下で新メンバーの入団を延期する措置も取られた。様々な試行錯誤とイレギュラーの上に、新シーズンの幕が開かれた。
前半は交響曲第1番。この曲を聴くたび、かつて部活の顧問の「ハイドンから続く新進気鋭の若手としての第1番か、後に伸びる偉大な交響曲史の第一歩としての第1番か」という言葉が思い出される。私は今も前者、とりわけエキサイティングな解釈を好む。佐渡は重心低め、安定感あるテンポで進める。初めはこんなものかなと思いつつ聴くが、曲が進むにつれ、どこか痒い所に手の届かない気分を覚え始めた。溌溂と活気ある演奏だが、ちぐはぐしている。お互いが目を合わせずに会話しているような、ちょっとした齟齬が所々にある。思いの方向が各人で微妙に違っている、そんな感じだ。演奏が思いに負けているのだろうか。だとすれば残念ながら、私は「思い」ではなく、「音」を聴きに来ている。これといった感銘なく、釈然としない感覚だけが後に残り、コンサートはそのまま後半へ。
第1番より音楽の振幅が格段に大きい第3番、演奏者も実際増えているというのに、おかしな事だがダイナミックさが薄い。オケがさっきより鳴っていないとさえ思えた。傑作の手前ゆえか、コロナ後の新シーズンという重圧ゆえか、オケが委縮しているのではと勘繰ってしまう。まるで、偉い人の前でいきなり身なりを正したような居心地の悪さだ。演奏の丁寧さも、ここではむしろ牙が抜けたように働いたかもしれない。少々の戸惑いはあったが、それ以外はほぼいつもの「英雄」体験。第1楽章を終えても、次の長大な葬送行進曲に辟易させられる。狂人の妄想を聞かされているような鬱陶しさ、ドン=キホーテの妄言に付き合わされたらきっとこんな感じだ。
しかし思わぬ発見もあった。弱音のパッセージから不意にせり出してくる低弦の咆哮、普段ならスルーしてしまう箇所。生のオケがうわ言のように唸る、その響きに実際身を襲われるに至って、ようやくこの英雄葬送のイメージが、後にベルリオーズに筆を取らせた妄想と同じであることを悟った。
この曲は真の妄想だ。断頭台への物々しい歩みと同様、この行進には非現実さと馬鹿馬鹿しさしかない。そして英雄に捧げられたこの曲全体が、箍の外れた仰々しさに満ちている。このヒロイズムの病的肥大は、シューベルトの最後の交響曲も彷彿とさせる。この気付きは、スピーカー越しでは到底得られぬものだったに違いない。
私としたことが、無意識にこの曲を「名曲」だと思って聴いていた。その曲の良さと「名曲」であることには何の関係もないのに、私は自分の感性を名曲というレッテルにすり合わせようと頑張っていた。これは大変に馬鹿げた曲だ。偏執狂的肥大、その馬鹿馬鹿しさを貫徹したからこそ、音楽史に残る革命なのだとようやく理解した。
ここには私の胸を打つものなどなく、ゆえに私の名曲では全くないが、偉大な才能による埒外の妄想がどれだけの金字塔を打ち立てるか、その様がようやく目に映ったわけだ。
本当に偉大な曲だ、良い曲ではないが。
(2020/10/15)
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佐藤馨(Kaoru Sato)
浜松出身。京都大学文学部哲学専修卒業。現在は大阪大学大学院文学研究科音楽学研究室に在籍、博士前期課程2年。学部時代はV.ジャンケレヴィッチ、修士ではCh.ケクランを研究。演奏会の企画・運営に多数携わり、プログラムノート執筆の他、アンサンブル企画『関西音楽計画』を主宰。敬愛するピアニストは、ディヌ・リパッティ、ウィリアム・カペル、グレン・グールド。
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〈cast〉
Conductor & Artistic Director:Yutaka Sado
Orchestra:Hyogo Performing Arts Center Orchestra
〈program〉
L.v.Beethoven:Symphony No.1 in C major, op.21
L.v.Beethoven:Symphony No.3 in E-flat major, op.55, “Eroica”