紀尾井ホール室内管弦楽団 第123回定期演奏会|西村紗知
紀尾井ホール室内管弦楽団 第123回定期演奏会
Kioi Hall Chamber Orchestra Tokyo – The 123rd Subscription Concert
2020年9月12日 紀尾井ホール
2020/9/12 Kioi Hall
Reviewed by 西村紗知(Sachi Nishimura)
Photos by ヒダキトモコ/写真提供:紀尾井ホール
<演奏> →foreign language
紀尾井ホール室内管弦楽団(指揮なし、コンサートマスター:玉井菜採)
<プログラム>
グリーグ:組曲《ホルベアの時代から》op.40
マーラー:交響曲第10番〜第1楽章 アダージョ(ハンス・シュタットルマイア編 弦楽オーケストラ版)
ゴリホフ:ラスト・ラウンド~第1楽章
ブラームス:弦楽五重奏曲第2番ト長調 op.111(弦楽オーケストラ版)
各ジャンルの舞台公演が実施されるようになりしばらくになるが、未だにどこも本来やりたかったことが心置きなくやれているというふうからは甚だ遠く、心苦しいばかりである。参加する人員は削られ、予定されていたプログラムは変更を余儀なくされているためであるが、それでも精いっぱい尽力している様が伝わってくる。
改めて「配信で代替可能かどうか」という議論は、この議論の存在自体が誤っていると言わざるをえない。そもそも「代替不可能」などという回答は端から想定されておらず、単なる消費者が発想した議論に過ぎない。金を払うに値する経験を自分自身ができるかどうか考えているだけだろう。公演の実施されるその時に、観客がホールに居るか自宅に居るかなど、芸術活動全体のいよいよ最後の上積みの問題にほかならず、そもそもこうした状況下で公演を実施する者が十全に準備できるのかどうかが真っ先に議論されるべきであったのに。そのくせ少しでも品質が下がれば真っ先に居なくなるのが消費者というものだろう。
準備できるだけの内容でなんとか間に合わせればよい、というのは実のところ問題解決にはなっていない。というのも、アンサンブルだけは嘘を付けない。同じ時空間で過ごす経験が減れば減るほどに、アンサンブルが貧しくなっていく。人員が減り内容が質素になるなら、それだけアンサンブルの技量に依存するというのに。加えて、人々のもっている、アンサンブルに対する感度も鈍ってしまっている。本当にちょっとしたことなのかもしれない。けれども、人と人とのぶつかり合いとその調停という、例えばそんなことを抜きにして、この日のような純粋器楽を聞くのは、実際には難しいのではないだろうか。
爽やかな残響が会場を包み込む。グリーグ《ホルベアの時代から》は、グリーグのメロディーメーカー的才覚が存分に発揮されている。そして、メロディーというのもまた、曲全体の組み立ての中で、特に楽器パートごとの対比を演出するのに機能する一面があるというのがわかる。サラバンドにおけるチェロのソロと合奏には艶があり、他のパートよりも自然と目立つ。ヴィオラのコントラプンクトも効果的だ。
しかしこの曲自体、それほど念入りにそれぞれの音型に機能を与えているように書かれているとも思えず――となると、ちょっとした間合いで楽器ごとの関係性の面白さを演出しないと間が持たない。アンサンブルのパターンが少ないと、途端にそれが露呈してしまうという点で、実はそれほど容易い作品ではないように思えた。
マーラーの晩年の作品である交響曲第10番のアダージョもまた、全体が 凪いだ海のように重たいので、弦楽オーケストラとして編曲されてその曲調が一層強調されるようであった。冒頭ヴィオラソロの奏でる序奏は美しい。安易に泣きの表現に依らないのは、作品に則したことのように思う。それはそうと、楽器の本数が増えていけばいくほど音は重たく流れて消えていくばかりで一向に前に進まない。音圧で圧倒するにしても、コントラバスの努力に頼る以外に無さそうである。最後のピチカートもタイミングがあまり合わない。
その分、ゴリホフの〈ラスト・ラウンド〉はバンドネオンによる演奏を模したようなタンゴ調の作品で、躍動感そのものではある。コントラバスとチェロを中央にし、左右にヴァイオリンとヴィオラが配置される。最初は左右の先頭にいる、第一ヴァイオリン、第二ヴァイオリン、ヴィオラの各3名が、交互に対決するようにして演奏する。次第にそれぞれ本数が増え、アッチェレランドし、変奏し……音楽が高潮していく。
だけども、この日の他のどの作品も、メロディーメーカー的センスといい、重たくなりすぎず躍動感につなげるようなメトリークやコントラプンクトといい、音楽の高潮感のつくり方といい、ブラームスの弦楽五重奏曲に勝るものはなかっただろう。
第一楽章の、チェロとコントラバスによる第一主題を再現部でヴァイオリンが演奏したとき、泣きそうになった。コロナ禍で失われたものは、すべてブラームスの譜面に書かれているのではないか、と思ったくらいだ。
どの楽章でも、一つ一つの音型を部品として見たとき、どれもありふれたクリシェに見える。けれどそれは血の通ったクリシェだ。絶えずどこかのパートの間で行われるフレーズの受け渡しが、主旋律を輝かせている。ほどよい重量感の刻みが、前へ前へ音楽をドライブさせてくれる。
転調が訪れるタイミングも、コーダの長さも、すべてがちょうどいい。でも、完全に予測できるというのでもない。動機が緻密に、ひとりでに這い出てくるようで、楽節の長さはその結果に過ぎない。
こういう組成に今しばらくは、ずっと身を浸していたい。演奏中そう思っていた。
アンサンブルが聞きたい。一瞬の間合いや目線の高さ、ふとした瞬間の小競り合い。そういう、ともすればどうでもよいものも含めて、一瞬の出来事に一喜一憂できる状況が、早く戻ってきてほしいと願うばかりである。
(2020/10/15)
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<Artists>
Kioi Hall Chamber Orchestra Tokyo
Natsumi Tamai, Concertmaster
<Program>
Grieg: From Holberg’s Time [Holberg Suite] op. 40
Mahler: Symphony No. 10 – Adagio for Strings (arrangement for string orchestra by Hans Stadlmair)
Golijov: Last Round for string ensemble – 1st Movement
Brahms: String Quintet No. 2 in G major op. 111 (arrangement for string orchestra)