ウィーン留学記(最終回)|ウィーンの森の物語――終わり、そして始まり|蒲知代
ウィーンの森の物語――終わり、そして始まり
Geschichten aus dem Wiener Wald: das Ende ist der Anfang
Text & Photos by 蒲知代 (Tomoyo Kaba)
「ここはヴァッハウの庭、
ドナウ川がとても青く流れるところ、
ぶどう畑に建つ一軒家。
中から僕の恋人が見ている。
血のように赤い唇をして、
上手にキスができる。
彼女の目はすみれ色、
ヴァッハウの少女の瞳。」
『ウィーンの森の物語』(1931年)という戯曲がある。オーストリアの劇作家エデン・フォン・ホルヴァート(1901-1938)によって書かれた。あらすじは次の通り。肉屋の婚約者を捨てて、ヒモ男との恋に走ったマリアンネは、生活に困窮して仕事を紹介してもらおうとする。そこでウィーンの歌を歌うように言われ、「ヴァッハウの庭」を歌うが、あまり上手ではない。結果、キャバレーの踊り子として、ステージ上で裸を見せて稼ぐほかなく、そのうえ売春を持ちかけてきた男性の財布の金を抜き取ってしまい捕まる。最後は、ヒモ男とのあいだに生まれた赤ん坊が病死し、サディスティックな元婚約者のところに戻っていくという話だ。
題名から想像されるイメージとはかけ離れているが、作品の随所でヨハン・シュトラウス2世(1825-1899)のウィンナ・ワルツ「ウィーンの森の物語」(1868年)が演奏され、他にもウィーンの有名な音楽が二十曲以上流れる。また、修羅場シーンにおける登場人物たちの正直すぎる発言の数々にはツッコミを入れずにいられない。よりにもよって婚約披露の日にヒモ男への愛を告白するマリアンネと、お金がないから結婚はできない(=君とは遊びだ)と答えるヒモ男。父親は娘の失態をもみ消そうとし、婚約者はそれでもマリアンネを愛し続けると言う。それぞれ言いたいことを言うが、言い争いにならないのが面白い。この作品は映画化され、2015年にはアン・デア・ウィーン劇場でオペラ作品(HK・グルーバー作曲)として上演された。
冒頭に引用した「ヴァッハウの庭」(1921年)は、オーストリアの作家エルヴィン・ヴァイル(1885-1942)が作詞を手がけ、エルンスト・アーノルト(1890-1962)が作曲したシュランメル音楽、オーストリア民謡である。シュランメル音楽は、19世紀後半のウィーンで広がり、ヴァイオリン・コントラギター・クラリネット・アコーディオンなどで演奏された。今でも「ホイリゲ」と呼ばれるウィーンの居酒屋などで、生演奏を聴くことができる。
ちょっと感傷的な気分になっているのも、今回でこのコラムを終えることにしたからだ。ちょうど二年前の六月、本誌でコラム「ウィーン便り」を連載していた佐野旭司さんから引き継ぎのお話をいただいた。佐野さんとはウィーン国立歌劇場のコルンゴルト『死の都』公演(2017年1月15日)を訪れたさい、一緒に居合わせたコルンゴルト研究者の友人に紹介してもらったのが縁。それ以来、オペラ座や大学の学食で顔を合わせるたびに、楽しいお話を聞かせてもらっていた。
佐野さんをはじめ、ウィーンで知り合った日本人留学生は少なくない。こちらに来て間もないころ、同じくウィーンに留学していた京大の先輩の紹介で、日本人音大生が集まる持ち寄りホームパーティーに参加させてもらった。その先輩は日本哲学を専攻していたが、クラシック音楽の愛好家。楽友協会などに足繁く通っていたので、日本人の音大生たちと知り合ったそうだ。私はその先輩の案内で、ウィーンに到着して三日後に、楽友協会のアルゲリッチのコンサートに行かせてもらっている。
ホームパーティーは、音大の指揮科出身で、当時はウィーン大で音楽学を学んでいた女性宅で開かれた。先に来ていた二人の女性のうち一人は指揮者で、もう一人はオペラ演出を研究している大学院生。その後、声楽家の男女やベートーヴェン研究者の女性、さらにメキシコ人の男性や、私と同じくドイツ文学を専攻している男性も加わり、とても賑やかな会になった。
全員初めて会う人だったので、自己紹介だけでも話題に事欠かない。そのうえ、料理上手な人が多く、テーブルの上は美味しそうな料理で埋め尽くされた(オーブンで焼いた肉料理やホールケーキなど!)。料理経験が浅く、ハロウィンにちなみ、南瓜の羊羹のような物体しか作れなかった私は、もはや消え入りそうになっていたが、ホスト役の女性に優しい言葉をかけられ、透明人間にはならずに済んだ。会話について行けないと感じたのは、オペラ歌手の名前が次から次へと話題にのぼったとき。それ以来、アンナ・ネトレプコやピョートル・ベチャワといった名前を覚える習慣がついた。
さて、半年ほど前に一時帰国したときのこと。大学卒業以来会っていなかった友人と、京都で再会する機会があった。
「完全帰国したら、僕のところに来ない?」
30歳を過ぎても結婚する気配のない私を心配して、彼は冗談で言った。持つべきものは友。しかしながら、続いて出た言葉がこうだった。
「日本に帰ってきたら、もうオペラは観に行かないよね?」
彼からすれば、私がウィーンでオペラやコンサートに行ったことは、ただの浪費にしか見えなかったのだ。今まで頑張ってきたことを否定された気分にはなったが、彼のような考え方の人も少なくないのではないか。そもそもクラシック音楽には、素人が入って行きにくい雰囲気があるということ、そのことは常に意識しなければならないように思う。
それと同じことが文学にも言えるかもしれない。ずいぶん昔のことだが、彼は文学研究者に向いているが、君は向いていないというような言い方を人にされたことがある。まだ論文を書いたことすらないときの話。その人はかなりの読書家だったから、自分より本を読んでいない人は許せなかったのかもしれない。しかしながら、そういう線引きをしていては、文学のすそ野が狭まってしまう。文学研究者は、文学に興味がない人にも文学の魅力を伝えられる人であるべきではないか。私は、そういう人になりたい。
かつて私は文学少女ではなかった。文学部を選んだのは、宇多田ヒカルに憧れて、英語を流暢に話せるようになりたいという気持ちがあったからだ。この作家のこの本が好きだから、ドイツ文学を専攻したというよりも、外国語を話せない自分を何とかしたかった。留学して五年になろうとしているが、言葉の「壁」は感じたままである。私にとってドイツ語は永遠に外国語。ドイツ語で論文を書いたら必ず、ネイティブチェックをしてもらわないといけない。私は生涯、ドイツ語母国語話者になれはしないのだ。
そんなわけで、私にとって西欧文学とは、第一に外国語で書かれた文学である。自分にとって母語ではない言葉で書かれているから、100%理解することは難しい。だからこそ解読しがいがあるのだ。第二に、西欧文学は自分の世界を広げてくれる。初めての場所に足を踏み入れるのは勇気がいることだが、いちど踏み出してしまえば後は楽だ。第三に、傲慢にならないための戒めの書である。西欧文学を読んでいても、日本のことが頭に浮かぶ。互いの良いところを学び、悪いところは直す。自分が日本人であることを再確認する。
「七年間、ハンス・カストルプはこの上の世界にいた。」(トーマス・マン『魔の山』最終章)
主人公の青年は当初、三週間の予定でサナトリウムにいる従兄弟を見舞うつもりだったが、自らも結核患者になり、上記の年数を過ごすことになった。私も十ヶ月のつもりが、五年になろうとしている。両者に、「青天の霹靂」とも言うべき出来事が起こった。かたや第一次世界大戦の勃発、かたや新型コロナウイルスの感染拡大だ。私にとってウィーンは「魔の山」、第二の故郷である。
(2020/7/15)
——————————————————–
蒲 知代(Tomoyo Kaba)
兵庫県神戸市出身。2012年、京都⼤学⽂学部卒業。2020年、京都大学大学院文学研究科博士後期課程研究指導認定退学。現在はウィーン⼤学博⼠課程に在籍中。専攻はドイツ語学ドイツ⽂学。主に、世紀末ウィーンの作家アルトゥル・シュニッツラーを研究している。