特別寄稿|私のフランス、私の音|(4)音響と録音の不思議な世界 |金子陽子
(4) 音響と録音の不思議な世界
Le mystère de l’acoustique et l’enregistrement
Text & Photos by 金子陽子(Yoko Kaneko)
1.
1990年代後半のパリ、出来て間もないシテ音楽都市 Cité de la Musique(今のフィルハーモニー)の大ホールのステージで、私達ガブリエルピアノカルテットはドヴォルジャークのピアノ四重奏曲第2番の冒頭を舞台の上につり下げられた音響パネルの高さや角度を変えながら何度も弾き直していた。ホール内をひっきりなしに行き来して音の変化を観察しているのは、かのピエール・ブーレーズ Pierre Boulez。指揮者、作曲家でもあり、フランスの文化政策、とりわけ現代音楽の発展に大きな貢献をした大御所。この日は、ホールの音響とそのコントロールの可能性を調べるため、私達は師弟関係ではなく、理想の音響を求める『共同探索者』として、氏と時間を共有させていただいた。
2.
大聖堂でオルガンを聴いた人ならば誰でも、体中が音響に包まれて、教会全体が楽器であるかのような神々しい感動に襲われる。古城や教会が演奏会場となる機会の多いヨーロッパは私達演奏家の『空間』への意識を目覚めさせる。音が漏れないように綿密に防音された音楽大学のレッスン室とは対照的な世界である。
3.
1993年秋のイタリア。ミラノから電車に揺られて私達はヴィオッティ国際室内楽コンクールを受けるためにヴエルチェリに到着した。1次予選から本選までの会場は、薄暗い、天井はどちらかというと低めで比較的小さい聖堂。最後列の観客席には警備員とも身寄りのない近所のお年寄りともつかない感じの男性が常に1人ぽつんと座っていた。お風呂場のように響く会場なので、一番奥に座る聴衆に、磨き上げてきた自分たちの演奏を明確に伝えられる事が大切、と感知した私達は、予選で選んだ厚みのあるブラームスの2番や、本選での感極まるショーソンのピアノ四重奏曲に、音響対策としてかなりの工夫をこらして演奏し、光栄にも最高位(1位なしの2位)をいただいた。受賞式の折り、最後列にいつも座っていたあの男性が私達に実ににこやかに話しかけてきたときはたまげてしまった。彼は審査員だったのだ!
4.
演奏家の仕事が楽譜に書かれた音を出来る限り忠実に聴衆の耳に届けることであるとしたら、楽器と聴衆の間に存在する距離、空間とその音響を意識し、聴いて演奏方法を制御することも演奏家の任務なのだ。具体的には、ダイナミック、アーティキュレーション、音のが消えるまでの時間を聴きながら即座に考慮した間の取り方、そしてペダルと音の切り方。
5.
2006年秋のスペイン、音響の異なるそれぞれのホールのステージで、客席に最も良い楽器の響きが届く配置を、納得するまで時間をかけて探求するのは、師匠のインマゼール氏だった。とりわけベルギー2カ所とスペイン6カ所の大ホールでのアニマ・エテルナ・ブリュージュオーケストラと2台のフォルテピアノで演奏したモーツアルトKV356のツアーではそれは多くを学んだ。
2台のフォルテピアノを蓋なしにして演奏者の顔が聴衆の正面になる配置にしたり、微妙に鍵盤が客席から見えないようになるよう斜めにしたり、オーケストラの管楽器と弦のセクションの間を開けたり、ステージの奥の共鳴版の効果を得るために奥に配置したり、決して妥協せず、実に敏感な耳で決断を下すことができる師にはただただ脱帽した。そして、自分自身の楽器と旅行して各国のホールの音響を比べられたことは、鍵盤楽器奏者として大変贅沢な体験でもあった。スペイン、ザラゴザの2000席の近代的なホールでも木製の5オクターヴのフォルテピアノの音が最上階まで聞こえることに驚かされた。又、2013年のツアーで演奏したポーランド、ワルシャワのフィルハーモニーは、古い石造りのために音響はともかく湿度が高く、2台の楽器の調律が常に反対方向に動き続けて大変苦労した。
演奏会自体は大成功で、恐らくこのホールでは初めてであっただろう『ピリオド楽器』でのモーツアルトのコンチェルトに、満員の聴衆から大喝采をいただいた。又、アメリカの著名音響設計事務所が入ったと言うフランス、ディジョンのオペラ座の新オーディトリウムでは、自分の楽器の音が、まるで魔法をかけられたように空間に踊りだした、いや、そのような印象を受けた。興奮した私は、ホールの音楽監督氏に向かって、「あの、、ホールの空気の中に何か特別なガスでも入れられました?」と支離滅裂な質問をしてしまった。ニコリとした氏の弁によると、なんでも壁に使われている、とりわけ白色の木材(写真参照)がヒミツの1つかもしれない、とのことであった。
6.
そして、このような不思議な音響を最新のマイクでキャッチするために録音技師(エンジニア)が登場する。
CDやライブコンサート収録、ラジオの生放送、、どんなに高価で素晴らしい響きの楽器でも、どんな名演奏をしても、響きをキャッチするマイクの位置が違うと、同じ演奏でも信じられない程情けない録音となってしまう。私達ピアノと弦3人のカルテットのCDを何枚か録っていただいた有名なフランスの録音技師は、たった1本のマイクで全部を撮る『ワンポイント録音』の達人だった。録音の知恵とマイクの多様性を最大限に使って、実際にホールでは聴く事のできない『架空の』芸術としてのレコードを作製するアーディストの存在に断固反対し、マイク1本で、聴衆がホールで聴くのに最も近い、ナチュラルな音をCDにして世に紹介することが氏の『信条』であった。とはいえ最適なマイクの場所と演奏者の位置を見つけるまでに、録音の初日の朝にメンバーで話し合いながら様々な配置を試して、決定するまでにかなりの時間をかけていたことを覚えている。
日本で出会ったアメリカ人の天才録音技師でMA Recordings 主宰のタッド・ガーフインクル氏 (Todd Garfinkle) も、世界に一つしかない手製のマイク一式を持って様々な大陸を旅し、ワンポイント録音で素晴らしいアーティストの音を撮り続けてきた方だ。氏によると、録音会場の天井の高さが数メートルあることが理想という。天井だけでなく、床の木の板の状態など些細な事も見逃さないお陰だろう、氏のCD(又はLP)は音だけでなく、『空間』が美しく、自然に録音されているのが素晴らしいと、文字通り世界中にファンが存在する。
7.
音響、マイク、録音に関する沢山の体験を積んだ事によリ、私は『聴く』ということの『意味』と『奥深さ』を学び、音楽院のレッスン、試験、コンクールでは必ずしも学ぶことができない要素、『空間を意識して絶えず聴きながら反応できる演奏』ということが演奏家にとって如何に重要かということを思い知らされた。
音にまつわる話をしてきたが、録音で一番難しいのは、実は『完全な静けさ』を録音することだそうだ。
レコーディングセッションでは、確かに音楽以外の『音』にしばしば悩まされた。それはホールの下を3分刻みに通る地下鉄からの振動(!)やパリ在住の鳩たちの鳴き声、のどかな田舎にある美しい木造の音楽ホールでは、冬の太陽で午後膨張する木戸からの想像もしていなかったきしみ音、遠い畑のトラクターの音、牛の鳴き声、大粒になぐりつける雨や雷、高い空を飛ぶ旅客機や、週末の田舎を低空飛行する軽飛行機。。
決してCDから聞こえてはならないこれらの『騒音』とは反対に、ベルサイユに近いポールロワイヤル僧院跡での私のバッハのCDの録音セッションの時は、周りの森の野鳥達が雨上がりに嬉しそうにさえずり始め、演奏と一緒に録音されてしまったさえずりを、カットせずに故意に残してリリースしてみた。出来上がったそのCDを聴いて、遠方の鳥のさえずりにに気づいてくれる友人(つまり、静かな場所で心を集中して録音を聴いてくれたということ)、が存在したことは、昨今の益々忙しくなった世界を思うととても嬉しいことであった。
https://www.youtube.com/watch?v=Riy9M0rFlH0
https://www.youtube.com/watch?v=XmhPgxtCcw8
(2020/4/15)
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金子陽子(Yoko Kaneko)
桐朋学園大学音楽科在学中にフランス政府給費留学生として渡仏、パリ国立高等音楽院ピアノ科、室内楽科共にプルミエプリ(1等賞)で卒業。第3課程(大学院)室内楽科首席合格と同時に同学院弦楽科伴奏教員に任命されて永年後進の育成に携わってきた他、ソリスト、フォルテピアノ奏者として、ガブリエル・ピアノ四重奏団の創設メンバーとして活動。又、諏訪内晶子、クリストフ・コワン、レジス・パスキエ、ジョス・ファン・インマーゼルなど世界最高峰の演奏家とのデュオのパートナーとして演奏活動。CD録音も数多く、新アカデミー賞(仏)、ル・モンド音楽誌ショック賞(仏)、レコード芸術特選(日本)、グラモフォン誌エディターズ・チョイス(英)などを受賞。
洗足学園音楽大学大学院、ラ・ロッシュギュイヨン(仏)マスタークラスなどで室内楽特別レッスンをしている。
これまでに大島久子、高柳朗子、徳丸聡子、イヴォンヌ・ロリオ、ジェルメーヌ・ムニエ、ミッシェル・ベロフの各氏にピアノを、ジャン・ユボー、ジャン・ムイエール、ジョルジュ・クルターク、メナへム・プレスラーの各氏に室内楽を、ジョス・ファン・インマーゼル氏にフォルテピアノを師事。
2020年1月にはフォルテピアノによる『シューベルト即興曲全集、楽興の時』のCDをリリース。パリ在住。
https://yokokaneko.wordpress.com/