Menu

ウィーン留学記|ホームレスと浪費家――ピグマリオン劇場とリンツ州立劇場から|蒲知代

ホームレスと浪費家――ピグマリオン劇場とリンツ州立劇場から
Der Stadtstreicher und der Verschwender: die Inszenierungen des Pygmalion Theater Wien und des Landestheater Linz

Text & Photos by 蒲知代(Tomoyo Kaba)

私は中高と大阪の天王寺区にある学校に通っていたので、通学路でホームレスの人たちをよく見かけていた。内心ちょっと嫌だったが、特に怖い思いをしたことはない。あるとき政経の先生から、ホームレスの人たちは空き缶を集めて生活費を稼いでおり、自尊心を持って生きていることを教えられた。一方、ウィーンにもホームレスは沢山いるが、その多くは物乞いで生活している。ホームレスではない物乞いもいるので、どの程度困っているかを判別することは難しいが、物乞いが路上や駅のホームでひざまずく姿を見ない日はない。場合によっては地下鉄の中でお金を要求してくる強者もいるくらいだ。そのたびにどうするのが正解かと考えさせられるが、薄情な私は今まで何もしたことがない。いったいどうするべきなのだろう。

*****

パリのセーヌ川の橋の下。そこで寝泊まりしていたホームレスが、見知らぬ紳士から200フランのお金をもらうところから始まる物語がある。オーストリアの作家ヨーゼフ・ロート(1894-1936)の短編小説『聖なる酔っぱらいの伝説』(1939年)だ。
どうして酔っ払い?それはもちろん、主人公が酔っ払いだからだ。アンドレアスという名の主人公は、貴重なお金を何度もペルノーというお酒に換えてしまう。
「ペルノー!ペルノー!」

ピグマリオン劇場の前の通り

1月10日にウィーンのピグマリオン劇場で行われた公演では、ギターの生演奏に合わせて、原作には登場しないホームレス役の若い女性が、「ペルノーの歌」を切なく歌い上げた。歌い終えると、他のホームレスの仲間二人(彼らも原作には出てこない)と共に、アンドレアスがフラン硬貨を「ペルノー」に交換するのを止めようとするが、アンドレアスは聞く耳を持たない。
そんなアンドレアスにも「誇り」というものがあって、お金を与えてくれた見知らぬ紳士に対し、200フランはもらうのではなく、バティニョルのサント・マリー礼拝堂の小さな聖女テレーズさまに必ず返すと約束する。
――次の日曜には200フランを返しに行かなければならない。
アンドレアス役の俳優は洗面器に水を張って、一番前に座っていた私の方へやってきた。ピグマリオン劇場は小さな劇場ということもあって、舞台と観客席との境界があってないようなもの。私に洗面器を差し出し、いきなり「俺って、醜いだろ?」と聞いてくる。まさか絡まれるとは思っていなかったので戸惑ったが、とりあえず頷いてみた(俳優がハンサムでないということではなく、ホームレスの役だから顔が汚れているという意味だ)。アンドレアスは悲しそうに舞台に戻って行ったが、洗面器の水で顔を洗い、財布を買いに出かけた。
それに続く運不運。昔の恋人に会って散財しお金を返せなくなるが、買った財布の中には幸運にも1000フランの紙幣が入っていた。また、有名なサッカー選手になっていた昔の友人から服をもらい、泊まったホテルの部屋で久しぶりに風呂に入って、若い女と恋もする。しかしその女にお金を抜き取られてしまうので、またもやお金を返せなくなる……。
本当にどうしようもない男だ。1000フランもあったのだから、200フランなんて楽々返せたのに。とはいえ、そんなにしっかりした男だったら、この作品はこんなにも面白くならなかっただろうけど。

シュティフター像

ホームレスの作品をもうひとつ。オーストリアの劇作家フェルディナント・ライムント(1790-1836)の魔法妖精劇『浪費家』(1834年)である。1月25日に、私はオーストリア・リンツへ観に行った。リンツは去年一度訪れていて、インフルエンザに罹って帰ったことがあるので(2019/4/15号「ウィーン留学記」参照)、今回は必要最小限の動きしかせず、昼過ぎに現地に到着してオーストリアの小説家アーダルベルト・シュティフター(1805-1868)の家を見学。画家でもあったシュティフターの絵や、ビーダーマイヤー様式の家具に癒やされたが、なんだこれは、と思って顔を近づけて見たのが芋虫の標本で(シュティフターは自然描写が得意な作家だ)、前夜からの頭痛がひどくなった。外は寒いし、そのまま近くのカフェに直行して、ほんの少しうとうと。オーストリア名物のアプフェルシュトゥルーデルを食べ、劇場へ向かった。

アプフェルシュトゥルーデル

会場はリンツ州立劇場だが、前回オペラを見たのとは別の場所にある、演劇専用の劇場だった。通常より早めの17時からの公演で、客の入りはそれほど良くなかったが、着飾った人たちが多く、とても華やか。オペラを観に来たような気分にさせられた。その印象は舞台に引き継がれることとなる。
舞台序盤、お金持ちの主人公フロットヴェルの屋敷で、派手な格好をした招待客たちが倒れている。夜通し飲みまくってそのまま寝てしまったらしい。わざと音を外したピアノ伴奏に合わせて、使用人の男女がステップを踏みながら、眠り込んでいる人たちから札束や財布を華麗に抜き取っていく。
主人公は一階席の後方から姿を現した。トランクス一枚という出で立ち。ああ、嫌だ。私は二階席にいたからよかったが、裸同然の毛むくじゃらのおじさんが、客席の椅子の背もたれを足で踏んづけて、観客の肩越しに、だんだんと舞台の方に近づいていく。もはや猿か何かのようで、びっくりしている観客に声をかけながら、ひょいひょいひょいっと。そして一番前まで来ると、目の前の老婦人にキスを迫り、ほっぺに口づけてもらう始末。舞台に上がると、トランクスに挟んでいた札束をばらまいて、本当に調子に乗っていた。
そんなやりたい放題の主人公の前に現れるのが、乞食の男性だ。乞食は主人公に付きまとい、会うたびに金銭を要求する。もともと大盤振る舞いだった主人公は、乞食にも気前よく施すが、いくら恵んでも乞食は満足しない。主人公が不気味がって乞食を刺し殺そうとしたあとも、乞食は長年にわたって主人公をつけ回す。
そして二十年後。主人公は色々あって、彼自身が乞食の身になり果てる。最後は賭けで全部すってしまったらしい。もはやこれまで、そう覚悟を決めた彼の前に現れるのが、かつて恵んでやった乞食。彼の正体は妖精で、主人公が今まで彼に与えたお金や宝石を、そっくりそのまま主人公に返してやる。なんとも良く出来た話だ。
むかし自分が施したお金が、施した分だけ自分に戻ってくるとしたら、ホームレスにお金をあげる気になるのかもしれない。裏を返すと、ホームレスにお金を渡す気にならないのは、自分は将来ホームレスになることはないという、思い上がりがあるということだろうか。
さて、リヒャルト・シュトラウスのオペラ『ばらの騎士』(1911年)にも物乞いの場面がある。父親が戦死した三人の孤児が、元帥夫人のもとを訪れ、慈悲を請う。
はたして元帥夫人と三人の孤児、すなわち、お金を渡す側ともらう側には、どれほどの差があるというのだろうか。
ウィーンで物乞いの姿を見るたび、私は思う。私と彼らの違いは何?ああ、日本人でよかった。私は難民ではない。でも、それは単なる偶然。たまたま日本人の両親のもとに生まれただけのこと。ただ、将来の保証なんて何一つない。自分で稼がなければ。私はそのために今こうして留学しているのだ。正直、今は自分のことだけで精一杯だが、自分ができることを考えていきたい。

(2020/3/15)

————————
蒲 知代(Tomoyo Kaba)
兵庫県神戸市出身。京都大学文学部卒業。同大学大学院文学研究科修士課程を経て、現在は京都大学及びウィーン大学の博士後期課程に在籍中。専攻はドイツ語学ドイツ文学。主に、世紀末ウィーンの作家アルトゥル・シュニッツラーを研究している。