佐藤晴真 チェロ・リサイタル|丘山万里子
佐藤晴真 チェロ・リサイタル
Haruma Sato Cello Recital
2019年12月6日 紀尾井ホール
2019/12/6 Kioi Hall
Reviewed by 丘山万里子(Mariko Okayama)
Photos by 林喜代種(Kiyotane Hayashi)
<演奏> →foreign language
チェロ:佐藤晴真
ピアノ:薗田奈緒子
<曲目>
ドビュッシー:チェロとピアノのためのソナタ
プーランク:チェロとピアノのためのソナタOp.143
〜〜〜〜〜〜〜
ブラームス:
5つの歌曲より“メロディーが導くように”Op.105-1,
6つの歌より“愛のまこと”Op.3-1,
5つの歌より“愛の歌”Op.71-5,
ピアノとチェロのためのソナタ第2番ヘ長調Op.99
(アンコール)
ドビュッシー: 美しき夕暮れ
ミュンヘン国際音楽コンクール21歳での優勝が注目を集めた佐藤晴真のリサイタル。現在ベルリン芸術大学で学ぶ逸材だ。
素晴らしく自然で、当然ながら技量も確か。
アンコールのち、周囲に「ほうっ」とため息のような賛嘆が流れたのも宜なるかな。
筆者も同じ気持ちだが、大切だと思ったのは彼の「詩心」。
それはプーランクに最もよく現れていた、と言ったら少し意外だろうか。
ブラームスでなく?佐藤は歌3曲の訳詞もしていたし。
筆者が感じた「詩心」とはそういう部分の話でなく、「詩に別才あり」(詩才は学問・教養の深浅によらない/『滄浪詩話』:禅思想に依拠する詩論)の意味するところであって、すなわち、プーランクの洗練洒脱を粹にこなすに必要な感応とそれを音に顕現する才のこと。それを生き生きと鮮烈に弾きあげたところに、別才の詩心を見たのだ。
第1楽章冒頭の明確なキレ良い打鍵とともに弾むチェロから一転、身を翻しこぼれ出る水流、その一瞬の反転にすでにプーランク独特の呼吸、色合いが凝縮されている。前曲がニュアンス精妙のドビュッシーであればなおのこと、プーランクの仕掛け顔がズームアップだ。ピアノとチェロの丁々発止の会話、緩急軟硬、ここと思えばまたあちら、めまぐるしく変わる小洒落た攻防をここまで軽々跳ね回る、その語調の素早い切り替えにこそ、「言葉」(音句)の芯をぱっぱ掴みとり音にする別才が光る。
で、全く別世界カヴァティーナ、両者歌う、互いの歌を引き立たせつつ歌う、あえかなささやきから熱い迸りまで小さく大きく胸を波打たせ。はららかな高音から深々たる低音まで両者音色の選定調合(多彩なパレットだ)の息が実にぴったり、最後、弱奏での天界を仰ぐような憧憬の色、ピチカートからアルコの上にピアノの一つ星がちらと輝く。
と、今度はバラビレ、付点音符が踊りまくる。こういう場面でも妙に力まず楽々とした身ごなしが秀逸。ここでは終尾ピアノの宙へ舞う一句の美しさが印象的だ。
終楽章の重量感、高低音域を広範に行き来、大胆かつこまやかな音種の交錯とこちらも変化に富む曲調をぐいぐい彫り進めてゆく。とりわけぴょんと跳んで駆け下るといった音型の扱いの上手さ思い切りの良さと細部への目配り、彩色の細密。終句、ピアノの強奏打ち込みとその残影の中、駆け昇っての弓、しゅうっと虚空に弧を描き、消えた。
筆者、ともども弧先に吸い込まれたくらい。
というわけで、このプーランク、どんなにわくわくしたことか。
若者、お見事お見事、と感嘆しきり。客席はさほどの反応でなかったのが不思議であった。
ピアノ(薗田奈緒子)が終始打てば響く自在の応答、それも筆者賛嘆の一つ。
後半ブラームスこそ、聴きどころだったのだろうし、筆者とてそうは思う。
歌曲のとりわけ『愛のまこと』の母と息子の弾き分け、最後の「O Mutter」から「Meine Treue, die hält ihn aus.」へと昂じ、口を閉ざす切々。
ソナタでのボウイングの無駄なき美しさ(どこの響きもみっしり目が詰む)、スケールの大きさ、たっぷり伸びやかな歌い口、心情の深さ、痩せないピチカートなど聞き応え十分ではあったが、これらは想定内、故にやはりプーランクに軍配を上げる。
詩は別才を再び言うなら、プーランクの語彙の豊穣独特はドビュッシーやブラームスとは異なり、音の連なり組成のあちこちに潜む目配せを読み取り瞬応する感覚が命で、詩心とはその感応力と具現力。
北原白秋20代終わり姦通罪スキャンダルを起こした頃の短歌処女作品集にこんな一文がある。
「新様の仏蘭西(ふらんす)芸術のなつかしさはその品の高い鋭敏な新らしいタツチの面白さにある。一寸触つても指に付いてくる六月の棕梠(しゆろ)の花粉のやうに、月夜の温室の薄い硝子のなかに、絶えず淡緑の細花を顫はせてゐるキンギン草のやうに、うら若い女の肌の弾力のある軟味に冷々とにじみいづる夏の日の冷めたい汗のやうに、近代人の神経は痛いほど常に顫へて居らねばならぬ。」
白秋はプーランクを知らぬが、この作曲家の周囲にあったものへの認識は確かだろう。
自身の短歌を「一箇の小さい緑の古宝玉である、古い悲哀時代のセンチメントの精(エツキス)である。」と言い、「その小さい緑の古宝玉はよく香料のうつり香の新しい汗のにじんだ私の掌にも載り、ウイスキイや黄色いカステラの付いた指のさきにも触れる。而して時と処と私の気分の相違により、ある時は桐の花の淡い匂を反射し、また草わかばの淡緑にも映り、或はあるかなきかの刺のあとから赤い血の一滴をすら点ぜられる。」(『桐の花とカステラ』)
白秋の語るこの二つ、西欧近代と日本古層の言語感覚を身裡とするその「短歌」に宿るもの、それが詩心だと言っておく。
別才は天賦だろうが、陽を浴び水を注がねば干涸びる。
大切に、とはそのことで、いつまでも「常に顫へ」「あるかなきかの刺」から赤い血の一滴を点じてほしいと願うのだ。
(2020/1/15)
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<Artist>
Cello : Haruma SATO
Piano:Naoko SONODA
<Program>
Debussy : Sonata pour violoncelle er piano
Poulenc : Sonata pour violoncelle er piano FP.143
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Brahms :
5 Lieder Op.105-1“Wie Melodien zieht es”
6 Gesänge Op.3-1,“Liebestreu”
5 Gesänge Op.71-5 “Minnelied”
Sonate für Klavier und Cello Nr. 2 in F-Dur, Op.99
(Encore)
Debussy : “Beau Soir”