東京都交響楽団 第891回 定期演奏会Cシリーズ|佐野旭司
東京都交響楽団 第891回 定期演奏会Cシリーズ
Tokyo Metropolitan Symphony Orchestra
Subscription Concert No.891 C Series
2019年11月16日 東京芸術劇場 コンサートホール
2019/11/16 Tokyo Metropolitan Theatre
Reviewed by 佐野旭司 (Akitsugu Sano)
Photos by 堀田力丸/写真提供:東京都交響楽団
<演奏> →foreign language
指揮:エリアフ・インバル
ヴァイオリン:ヨゼフ・シュパチェク
管弦楽:東京都交響楽団
<曲目>
ショスタコーヴィチ:《ヴァイオリン協奏曲第1番》op.77
――――(ソリストによるアンコール)――――
イザイ:《無伴奏ヴァイオリンソナタ》Op.27第5番より、第2楽章《田舎の踊り》
ショスタコーヴィチ:交響曲第12番《1917年》op.112
本公演は「弾き語られる<革命>、刻まれる永遠の記憶。」と題した都響11月定期演奏会の第2弾となる。今回のメインの曲目は後半のショスタコーヴィチの《交響曲第12番》だが、ショスタコーヴィチの《ヴァイオリン協奏曲第1番》で幕を開け、そこでは指揮者とソリストの相性の良さが感じられた。
この協奏曲の第1楽章は、楽章内の区分が明瞭でなく、無限旋律的である。しかもその旋律は常に表情が暗く、いわば絶えず闇の中を漂うような音楽といえる。こうした曲はインバルと相性が良いのだろうか。彼の淡々と流れるような曲作りは、この楽章のように形式の区分がはっきりしない曲によく合っている。また、そのテンポの速さから過度に辛気臭い表情になることがなく、むしろ神秘的な性格が強調されていた。しかもそれでいて曲想の変化やメリハリが感じられる。
第2楽章以降は力強い曲調もしくは急速なテンポによる音楽であるが、インバルの演奏では決して暴力的にあるいは重々しくなりすぎることがない。そしてヴァイオリンのソロもどちらかといえば柔らかい音色であった。その特徴は、特に第2楽章やカデンツァ(第3,4楽章の間に挿入される)で際立っている。
これらの箇所では、楽譜からは金切り声で叫ぶような響きが想像できる。しかしシュパチェクの演奏ではそれを過度に強調することはなかった。そういう特徴がインバルの曲作りとうまく適合していたといえるだろう。
ソリストによるアンコールはイザイの《無伴奏ヴァイオリンソナタ》Op.27第5番より、第2楽章《田舎の踊り》。安定感があり、かつ力強い演奏であった。
そして後半はショスタコーヴィチの《交響曲第12番》。筆者はこれまでインバルの演奏の特徴に対し「淡々と流れるような」という言い回しをたびたび用いてきたが(本稿でもAシリーズのレビューでも)、それはこの曲に対しても当てはまる。そしてこの曲においてもまた、そのようなあり方が功を奏している部分と裏目に出ている部分に分かれる。
まず第1楽章や第3楽章のように、テンポの速い楽章では、非常にまとまりが感じられ、また《交響曲第11番》と《ヴァイオリン協奏曲第1番》のそれぞれの第2、第4楽章と同様、過度にグロテスクで暴力的になることなく、節度を守った表現といえよう。こういうところでは指揮者のセンスの良さや優れたバランス感覚が見事に表れている。
一方第1楽章の終わり(第2主題の再現)から第2楽章にかけては、平たく言えばあっさりしすぎていたという印象も否めない。この部分の重要な特徴は、前進する力のない、虚無的で神秘的な響きであろう。それはショスタコーヴィチでいえば《交響曲第9番》の第2楽章に、他の作曲家でいえばマーラーの《交響曲第9番》の両端楽章や《第10番》の第1楽章にも通じる特徴である。この《第12番》ではとりわけ第2楽章の冒頭主題にそうした性格が現れている。またこの交響曲では、第1楽章の第2主題が循環主題としてすべての楽章に登場する。この主題の旋律は、ブラームスの《交響曲第1番》第4楽章の主題に似ているが、第1楽章の再現部と第2楽章では力強さが感じられず、どこか虚ろに響く。
しかし本公演ではテンポの速さが災いしたのか、それらの要素によって生み出される、あてどなく漂う雰囲気が十分に伝わってこなかったのが残念である。
第2楽章は消え入るように終わり、第3楽章で徐々に盛り上がってクライマックスに到達し、祝祭的な第4楽章の冒頭主題へと続く。この部分の移り変わりは非常に巧みで、インバルの優れたセンスが表れていた。
しかし問題はその後である。第4楽章は「人類の夜明け」という標題を伴い、力強く祝祭的な旋律が中心となる。しかしそのような性格を基本としながらも、それを濁らせる要素も同時に現れる。
例えば明るく躍動的な旋律に対し随所で半音階的な対声部がつけられていたり、不協和音による和声づけがなされていたりする。またEs,B,Cの3音動機(第1楽章の終わりから度々さりげなく登場する)がここでは明瞭に提示される。これらの要素は不安あるいは不吉な感情を想起させるもので、それがこの楽章の随所にちりばめられている。それによりこの曲では、ロシア革命を手放しで讃えられない作曲家の思想が見え隠れするようにも感じ取れる。あるいはもっと複雑な作曲家の感情が暗示されているのかもしれない。ただいずれにしても、そのような対立的な要素がこの作品には込められている。
では本公演では、そうした性格をうまく表現しきれていただろうか。この終楽章では、こうした対立的な要素のバランスを如何にうまく取れるかが、演奏の真価を決めると考えられる。明るく力強く表現することにだけ気を取られており、不安な要素が際立たせられなければ、“汚い”響きの、あるいは武骨なだけの音楽になってしまうだろう。筆者が聴いた限りではそうした印象も否めなかった。
しかしそれは、一筋縄ではいかないショスタコーヴィチ特有の音楽の性質によるものであろう。それはこの交響曲に限ったものではない。例えば《第8番》は、戦争のさなかに作られた悲劇的な作品かと思えば突如として滑稽で陽気な表情を見せる。また《第9番》は、戦争の勝利を祝したとは思えないような皮肉っぽさに満ちている。彼の作品にはわかる人にしかわからない、複雑で内面的なものが込められているのだろう。《第12番》にもそうした側面が見え隠れする。そしてそのような作品を解釈し演奏することがいかに難しいことか、いかに工夫を凝らした表現でなければ彼の音楽を伝えきれないか。今回は、まさにそのことを考えさせられる演奏であった。
(2019/12/15)
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<Performers>
Conductor: Eliahu INBAL
Violin: Josef ŠPAČEK
Tokyo Metropolitan Symphony Orchestra
<Program>
Shostakovich: Violin Concerto No. 1 op. 77
――――(Encore by the soloist) ――――
Ysaÿe: Mov. 2. “Danse rustique” from “Sonata for solo violin” op. 27 No. 5
Shostakovich: Symphony No. 12, “The Year 1917” op. 112