Menu

ウィーン留学記|バイロイト音楽祭|蒲知代

バイロイト音楽祭
Die Bayreuther Festspiele

Text & Photos by蒲知代(Tomoyo Kaba)

リヒャルト・ワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』。私にとっては、いわくつきの作品だ。ビデオで観ている最中に目がまわってバタンキュー。単にちょっと疲れが溜まっていただけなのだが、しばらくオペラを見る気になれなかった。それから3年後。ウィーンに留学することが決まり、少しはオペラを予習しておいた方がいいという気持ちになった。途中放棄した『トリスタンとイゾルデ』にリベンジ。今度は夢中になって最初から最後まで観た。それ以来、鑑賞作品を自分用に記録しているが、オペラだけで100作品になろうとしている。オペラって面白い、と気付かせてくれた『トリスタンとイゾルデ』。今回その作品をバイロイト音楽祭で鑑賞することができたことは、とても感慨深い。

*****

2019年7月31日。私はウィーン留学中の日本人の友人と、ウィーンからドイツのニュルンベルクへ向かう電車に乗っていた。その1ヶ月前に、その友人からバイロイト音楽祭に一緒に行こうと誘ってもらったのだ。バイロイト音楽祭のチケットは、2015年からネットで応募できるようになって、以前より入手しやすくなったと言われてはいるが、それでも抽選。私は最初から諦めて申し込んですらいなかったのだが、優しい友人がバイロイト行きの夢を叶えてくれた。とても感謝している。
当初は公演当日にウィーンを出発する予定だったが、電車の遅延で16時上演開始に間に合わないと困るので、前日にニュルンベルク入りすることにした。ニュルンベルクでは名物のソーセージとビールを堪能して、21時前に就寝。翌朝電車でバイロイトに移動した。前夜熟睡したので、車内ではお喋りに花が咲いたが、友人からきわめて真面目な質問が飛び出した。
「イゾルデみたいに、剣も毒も使わないで人が死ぬ文学作品は他にあるかな?」
はて、そんな作品が他にもあっただろうか、いやあるはずだ、としばらく頭を悩ませた結果、そういえば、最近そんな舞台を観た気がしてきた。演劇だっけ、オペラだっけ。そうこう考えるうちに、3月にリンツで観たオペラ『ペンテジレーア』(2019年4月号のコラム「リンツ州立劇場」参照)の最後の場面が頭に蘇ってきた。
そうだそうだ、妙な死に方をするものだ、と原作を予習した時から思ったんだった。彼女は愛するアキレウスを噛み殺した後、アキレウスの自分に対する愛情を知って、剣も毒も用いず意志の力だけで自殺する。

バイロイト音楽祭の会場

ほどなくして電車がバイロイトに到着し、ホテルに荷物を置いて、バスでバイロイト祝祭劇場へ向かった。10時から11時まで、作品解説が行われるためだ。当日の公演のチケットを見せれば、無料で聴くことができる。友人は演出が専門なので、メモを取りながら熱心に聴いていた。私も一応メモを用意していたが、最初の方は作品の成立背景についてだったので、ペンは動かず。ところが突然、解説者が「『ペンテジレーア』という作品はご存知ですか?」と言ったので、はっとした(ビンゴ!)。もちろん、死に方に関する言及。「愛の死」について。しかしながら面白いことに、今回の演出ではイゾルデは死なないらしい。死んで救われるはずだったのに、今回は死なないので「絶望」しかない。他にも演出のポイントを説明してくれたので、本番に向けて楽しみがさらに膨らんだ。
一旦会場を離れて、世界遺産の辺境伯歌劇場を見学。再び祝祭劇場に戻ると、ドレスアップした人たちがそれぞれ記念撮影をしていた。そして上演開始15分前が近づくと、恒例のファンファーレを聴くため、エントランス付近に人が集まって来る。アレッ?思ったよりも短い、とは思ったが、最上階の席なので、10分前と5分前のファンファーレは聴かずに入場した(本人確認のため、パスポートとチケットを見せる必要があった)。
今回もっとも危惧していたのは会場内の温度だったが、気温が上がらなかったので、しんどい思いはせずに済んだ(休憩2回を挟むとはいえ、場合によっては40度近くになると言われる場所で4時間過ごすのは耐久レース)。また、硬いと有名な椅子も悪くはない。そして、何より嬉しかったのは、最後列の席だったが視界が遮られず、舞台がしっかり見渡せたことだった。
上演が始まると、客席が真っ暗闇になった。周りの人の気配が消える。舞台と私の間には何もないかのよう。無の境地になった。
今回の指揮者はクリスティアン・ティーレマン。2ヶ月前にウィーン国立歌劇場で彼が指揮した『影のない女』を聴いていたからかもしれないが、何とも優しい音の響きに思えた。
前奏曲が終わり、幕が開く。舞台上には四方に伸びる無数の階段。マルケ王(ゲオルク・ツェッペンフェルト)の甥トリスタン(ステファン・グールド)は、王の婚約者でアイルランド王女のイゾルデ(ペトラ・ラング)を船で護送している。イゾルデにとって、トリスタンは過去に自分の婚約者を討った敵。しかし、二人は惹かれ合う。イゾルデは侍女ブランゲーネ(クリスタ・マイヤー)に毒薬を用意させるが、渡されたのは愛の妙薬。そうとは知らずに飲んだ二人は愛に溺れ、戸惑う(今回の演出では薬を飲む前にも抱擁したし、薬は飲まず手に垂らした)。裏切り者のトリスタンはマルケ王の部下メーロト(アルミン・コラルチク)に刺され、イゾルデの前で息絶える。
作曲家リヒャルト・ワーグナー(1813-1883)の曾孫、カタリーナ・ワーグナー(1978-)が演出を手掛けた、2015年新演出の舞台(本プロダクションがバイロイトで上演されるのは今年で最後)。
大掛かりな舞台装置に、ダイナミックなオケの音色。ともすれば、歌手は無機質な世界に飲み込まれてしまう。しかし、そこで歌手が歌うことによって、物語が動き出す。そして、演出家は私たち観客に向けて、登場人物の内面を見事に映し出した。とりわけ第三幕で、舞台のあちこちに三角錐が出現し、その中にイゾルデがいてトリスタンが近づくと消えるという、手品のような仕掛けは素晴らしかった。
斬新な演出に対し、ミシミシと床を踏み鳴らして拍手喝采を送る人もいれば、凄まじいブーイングを飛ばす人もいたが、個人的にはとても面白い演出だと感じた。

ヴァンフリート館

公演翌日はリヒャルト・ワーグナーの家「ヴァンフリート館」、(その両隣の)息子ジークフリート・ワーグナーの家とワーグナー博物館を見学した。門を入り並木道を進むと、荘厳な館が姿を現す。そして、その裏の墓でリヒャルト・ワーグナーが眠っている(墓の隣には愛犬ルス君の小さな墓があり、向日葵が手向けられていた)。
ワーグナー博物館は2015年オープン。バイロイト音楽祭で実際に使用された衣装と舞台装置模型が常設展示されていて見応えがあったし、今年はリヒャルト・ワーグナーの孫ヴォルフガング・ワーグナー(1919-2010)の生誕100周年の特別展も開催されていた(ヴォルフガングは兄ヴィーラントと共に戦後の音楽祭の運営を担い、自ら演出も務めた)。

駅のホームから見えるバイロイト祝祭劇場

この日の午後にはバイロイトを発ったが、駅のホームから見えるバイロイト祝祭劇場をカメラに収めていると、彼女が呟いた。
「またここに戻って来たいな。」
音楽や演出の専門家でない私が再訪できる可能性は低いかもしれない。でもどんな形であれ、バイロイトとは繋がっていたいと思った。

 

 (2019/10/15)

 

———————-
蒲知代(Tomoyo Kaba)
兵庫県神戸市出身。京都大学文学部卒業。同大学大学院文学研究科修士課程を経て、現在は京都大学及びウィーン大学の博士後期課程に在籍中。専攻はドイツ語学ドイツ文学。主に、世紀末ウィーンの作家アルトゥル・シュニッツラーを研究している。