特別寄稿|30回目の武生国際音楽祭に参加して|柿木伸之
30回目の武生国際音楽祭に参加して
A Report on the 30th Takefu International Music Festival as a Participant
Reported by 柿木伸之(Nobuyuki Kakigi)
Photos by タイナカジュンペイ/写真提供:武生国際音楽祭推進会議(写真にキャプション)
堀井竣介/写真提供:武生国際音楽祭推進会議
幼少の紫式部が一時期を過ごし、『源氏物語』にもその名を残す武生。福井県のほぼ中央に位置し、越前打刃物でも知られるこの街の旧市街には、古い寺社が数多く建ち並び、栄華の名残を伝えている。そのように過去の影が色濃い武生の街が、初秋の一時期は新たな音楽が生まれる場所に変わる。毎年9月上旬を中心に開催されている武生国際音楽祭には、内外で活躍する気鋭の演奏会とともに作曲家が集って、過去と現在を照らし合わせるかたちで作品を響かせている。
武生国際音楽祭は今年、その前身として1990年から二度開催されたフィンランド音楽祭武生から数えて30回目を迎えた。9月8日から15日にかけて開催された今回も、越前市文化センターを中心に、25を超える演奏会が繰り広げられた。音楽祭に先立っては、越前市内のギャラリー叔羅で、「30年のあゆみ」を写真や印刷物で回顧する展示も行なわれた。
この音楽祭の最大の特徴をなしているのが、若い作曲家を育てるワークショップが毎年開催されていることである。2001年に細川俊夫が音楽監督に就任してから本格的に始まったこの国際作曲ワークショップも、今年で19回目を迎えた。今回も世界各地で作品を発表し続けている作曲家が講師として招かれ、内外から25名を超える受講生が集まっていた。
このワークショップに、一昨年からゲストとして招かれている。今年は「芸術のなかの批評」と題して、批評を内在させたものとして芸術を捉え返すヴァルター・ベンヤミンの美学を紹介するレクチャーを行なった。それは参加者に、歴史的な文脈のなかで音楽を書くことへの問題意識を喚起する試みでもあった。これを含めて音楽祭に参加できたのは9月11日からの5日間だったが、そのあいだに接した演奏会やレクチャーはいずれも刺激に富んでいた。
国際作曲ワークショップでは、教師としても知られるイヴァン・フェデーレ(Ivan Fedele)をはじめとする招待作曲家が、自身の作曲家としての歩みと、主要作品に用いられた作曲の手法を惜しみなく語るレクチャーが続いた。それに加え、演奏家が現代の音楽と結びついた技法の実際について、演奏経験にもとづいて語るセッションもあった。これらは受講者の今後の作曲活動にとって、この上ない刺激だったにちがいない。このようなワークショップの内容が、演奏と有機的に結びついているのも、武生国際音楽祭の魅力的な特徴と言える。
音楽祭の終盤では、「新しい地平コンサート」および「細川俊夫と仲間たち」と題された現代の作品による演奏会が続く。そこでは先に挙げたフェデーレをはじめとする招待作曲家の作品が取り上げられるが、とくに彼の音楽に関しては、動機を緊密に展開させる短い断章に特色が表われると思われる。この点を顕著に示すピアノ・トリオのための《15のバガテル》では、凄まじいまでに音が密に連ねられていたが、9月14日の演奏会ではそれがダイナミックに響いていた。
今回の音楽祭にワークショップの講師として招待された作曲家で、その作品がとくに魅力的に感じられたのは、フェデリコ・ガルデッラ(Federico Gardella)とニーナ・シェンク(Nina Šenk)の二人だった。ここでは、作品が日本ではまだほとんど紹介されていないと思われるシェンクの作品に触れておきたい。
スロヴェニア出身のシェンクは、非常に繊細な響きを紡ぎ出す。その特徴は、9月13日の「細川俊夫と仲間たち」で披露された木管五重奏のための《シルエットと影》でも発揮されていた。ただし、微かな響きとその影が応え合うように連なりながら奥深い空間を出現させるこの作品以上に感銘深かったのが、サクソフォンとパーカッションのための《スクラッチ》である。打楽器奏者はカホンだけを用い、それを手やマレットのみならず、さまざまな小道具も使いながら、さらに工夫された身体の動きも交えつつ、叩いたり、表題にあるように引っ掻いたりする。
それによって生じるリズミックな動きが、サクソフォンによって提示され、展開されるモティーフに応えるわけだが、両者の呼応が互いを模倣し合うように繰り返されるうちに、響きが野性的ですらあるような強度を帯びてくる。その過程はきわめてスリリングで、すっかり魅了されてしまった。これを実現させたサクソフォン奏者の大石将紀と打楽器奏者の葛西友子の演奏は、今回の音楽祭の白眉と言っても過言ではない。
そのように高い水準の演奏で、作品が誕生する瞬間に接することができるのも、武生国際音楽祭の魅力の一つである。今回世界初演された作品では、二人の若い日本の作曲家の作品が印象に残った。まず、神山奈々のピアノ連弾のための《機織り──明日天気になあれ》は、ピアノの蓋で楽器本体を、ドアをノックするように叩くといったパフォーマティヴな要素と、響きの推移との緊密な結びつきが、現代のコミュニケーションのなかにある近さを響かせていた。また、前川泉の《レンブラントとして笑う自画像》で、アイロニーを込めた自己省察が、緊密さのなかにユーモアを感じさせる音楽の展開に結びついていたのも忘れがたい。
武生国際音楽祭では、音楽監督の細川俊夫の作品にも触れることができる。今回はジェラール・グリゼー、武満徹という細川に影響を与えた作曲家の作品とともに聴くことができた。9月12日の「あふれる弦楽器の魅力」では、ヴェロニカ・エーベルレのヴァイオリンが、伊藤恵のピアノと緊密に呼応しながら細川の《リートIV》を歌い上げた。一つの音からの歌の高揚が、豊かな陰翳を伴ったひと筋の線を描いていた。
「細川俊夫と仲間たち」において、大石将紀のサクソフォンによる《三つのエッセイb》とエディクソン・ルイースのコントラバスによる《小さなエッセイ》の演奏が、生気に満ちた、かつ繊細な線を浮かび上がらせていたのも感銘深かったが、何よりも9月15日の「ファイナル・コンサート」で、赤坂智子のヴィオラにより、東日本大震災の犠牲者に捧げる《哀歌》に込められた哀悼が、豊かな歌と明確な意志をもって響きわたったのは忘れがたい。この震災とそれに続く災厄の犠牲者への哀歌として響いた《哀歌》だった。
今回の音楽祭を演奏の面で牽引していたのは、先に挙げたエーベルレとルイース、そしてソプラノのシェスティン・アヴェモだった。細川俊夫のオペラの経験も豊かなアヴェモが、9月11日の演奏会で、シェーンベルクのキャバレー・ソングを披露してくれたのはとくに興味深かった。巧みな節回しと身ぶりから、苦いアイロニーが滲み出ていた。アヴェモは、「ファイナル・コンサート」におけるモーツァルトのレクイエムでも独唱を担っていた。
エーベルレとルイースが加わったシューベルトのピアノ五重奏曲イ長調「鱒」の演奏は、躍動感に富んだリズムのなかに、作品に込められた歌を絶えず清新に響き出させるものだった。この生気に満ちた「鱒」の演奏以上に印象的だったのが、エーベルレと伊藤によるフランクのヴァイオリン・ソナタの演奏だった。旋律を歌い込んでいくことによって情熱が高まっていくことと、音楽の強度が増していくことが自然に合致していた。もしかするとそれは、音の豊かさが音楽の内容の充実におのずと結びつく彼女のヴァイオリンを象徴する演奏だったのかもしれない。
今回の音楽祭では、2001年から参加し続けているピアニストの中川賢一が、上野由恵のフルートともに、作品の内実を深く掘り下げた演奏を繰り広げたのも忘れがたい。三浦則子が田村隆一の詩に想を得て作曲したフルートとピアノのための《空から/窓から》では、空洞と化した場所に回帰する禍々しい記憶が、その気配とともに伝わってきた。また、ピエール・ブーレーズのソナチネの演奏では、一度器楽的に純化された音たちが深淵の上で羽ばたくように歌うなかから、途方もない力が発散されていた。
ブーレーズが1946年に書いたこの作品は、同時代の哲学書と同じように、始まりへの意志が漲っている。例えば、エマニュエル・レヴィナスの『実存から実存者』も、深淵を見据えながら生の始まりを捉えようという意志に貫かれている。そして、その意志が戦争の死者を思うところで抱かれているとするならば、ブーレーズのソナチネは、音楽祭の最後に響いたモーツァルトのレクイエムとも呼応する要素を含んでいることになろう。
今回レクイエムは、鈴木優人による補筆校訂版──ラクリモーザにアーメン・フーガが続くのが特徴である──を作曲家の金井勇が編曲した版で響いた。指揮も担当した鈴木は、澄んだ響きを目指しながら、必然性と清新さを兼ね備えた音楽の運びを示していた。それに応えて武生の愛好家を中心とした合唱も、求心力の高い響きを最後まで持続させた。細川の《哀歌》に込められた災厄の犠牲者への思いと、武生の人々の生活にも染み込んだ死者への思いが共鳴した力強い演奏だった。
このように、いつもにも増して充実した内容の音楽が生まれる場として繰り広げられた30回目の武生国際音楽祭に関して忘れられてはならないのは、これが音楽監督の細川俊夫とコンサート・プロデューサーの伊藤恵の下で音楽家が出会い、密に交流する場でもあったことである。二人が内外から集めたアーティストは、演奏会やワークショップを共にし、リハーサルでは意見をぶつけ合う。それをつうじて互いの音楽を深く知り合うことが、音楽のさらなる創造の契機になることは言うまでもない。
たしかにこの音楽祭も、運営上のさまざまな問題に直面している。しかし、大都市では不可能なかたちで、新たな音楽の誕生に聴衆が間近で立ち会う場としてだけでなく、世界各地での音楽の創造に結びつくアーティストの出会いの場としても開かれる武生国際音楽祭は、かけがえのない意義を30年にわたって示してきた。現代の世界における音楽の可能性を示すだけでなく、その創造の芽をも育む音楽祭が、今後も発展しながら継続することを願ってやまない。
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柿木伸之(Nobuyuki Kakigi)
鹿児島市生まれ。現在、広島市立大学国際学部教授。専門は哲学と美学。20世紀のドイツ語圏を中心に言語や歴史などについての思想を研究する傍ら、記憶とその表現をめぐる問題にも関心を寄せつつ著述を行なう。著書として、『ヴァルター・ベンヤミン──闇を歩く批評』(岩波新書)、『ベンヤミンの言語哲学──翻訳としての言語、想起からの歴史』(平凡社)、『パット剝ギトッテシマッタ後の世界へ──ヒロシマを想起する思考』(インパクト出版会)などがある。訳書に『細川俊夫 音楽を語る──静寂と音響、影と光』(アルテスパブリッシング)がある。音楽や美術に関する評論もある。
個人ウェブサイト:https://nobuyukikakigi.wordpress.com
(2019/10/15)