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日下紗矢子 ヴァイオリンの地平4 近現代|藤原聡

日下紗矢子 ヴァイオリンの地平4 近現代

2019年2月24日 トッパンホール
Reviewed by 藤原聡(Satoshi Fujiwara)
Photos by 林喜代種(Kiyotane Hayashi)

<演奏>
ヴァイオリン: 日下紗矢子
ピアノ:ビヨルン・レーマン(除バルトーク)

<曲目>
ウェーベルン:4つの小品 Op.7(1910)
バルトーク:無伴奏ヴァイオリン・ソナタ Sz.117(1944)
シュニトケ:ヴァイオリン・ソナタ第2番『ソナタ風』(1968)
ジョン・アダムズ『ロードムービー』(1995)
(アンコール)
ミヒャエル・フォークト:Genoveva v.St. für Sayako Kusaka
J.S.バッハ:ヴァイオリン・ソナタ ホ短調 BWV1023~第2楽章 アルマンド

 

2014年(バロック)、2015年(古典)、2017年(ドイツ・ロマン派)と開催されてきたトッパンホールにおける日下紗矢子の『ヴァイオリンの地平』シリーズ。そして今回はその第4回目にして最終回、テーマは「近現代」。前3回のプログラムを眺めれば容易に気が付くことだが、単にその時代の有名名曲を取り上げるのみならず、中にはあまり演奏されない、こう言ってよければ「通向け」の曲もまぎれている。例えばバロックの回ではヴェストホフやピゼンデルが、古典の回では敢えてベートーヴェンのソナタ中では相対的に親しまれていない第4番が、そしてドイツ・ロマン派ではメンデルスゾーンのヴァイオリン・ソナタやレーガーの無伴奏ソナタなど。

また、第1回では1曲目のビーバーからバロックを集大成した最終曲の大バッハまでの流れを俯瞰し、第2回では真ん中にパガニーニのカプリースを置き、それを挟む形でモーツァルト、ベートーヴェン、シューベルトを置くことでパガニーニの特異性と古典の差異が浮き彫りになり、あるいは第3回では言わずもがなのブラームスとクララ・シューマンを並べ、ブラームスの保守本流路線を継承したレーガー、そしてクララとつながりの深いメンデルスゾーンをも組み込む、などそこには聴衆がコンテクストを見出す愉しみがある。

そして今回の近現代ではアトーナリティを駆使し今もってアヴァンギャルド以外の何者でもないウェーベルンと、あくまでトーナリティに立脚しながらウェーベルンに匹敵するモデルニテを発揮したバルトーク(ちなみにウェーベルンは1883年、バルトークは1881年生まれで亡くなったのは両者とも同じ1945年)。後半では第二次世界大戦を経たのちのポスト・モダンの作曲家2人が取り上げられ、そこではそれまでのクラシック音楽史はメタ的視線に晒される。こう見ると、1回1回のプログラムの中にストーリーを読み込め、さらには全4回を俯瞰するとさらに大きな「歴史」が形成される。これはありきたりな演目ばかりではなくアクセントあるいはスパイスとなる曲目が入ることによってもたらされる効果とも思えるが、ともあれこの興味深いシリーズも今回で完結。

1曲目のウェーベルンでは、ことさらに鋭利さを際立たせない演奏で、いわば「温かみあるウェーベルン」。しかし切っ先が鈍い訳ではない。誠に巧みなボウイングによる音色変化の妙を堪能した。しかし、上にも書いたが100年も前によくこのような言葉の真の意味で「新しい」曲を書いたものだと驚嘆する。今聴いてもウェーベルンの音楽は聴き手に異物性を突き付けるが、この音楽は恐らくいつまでも誰にも馴染まない絶対的な恒星のような存在であり続ける。

ピアノのビヨルン・レーマンが一旦袖に引っ込んでのバルトーク:無伴奏で、日下は大変に有機的でしなやか、透明で抜けきったような演奏を聴かせてくれた。高い技術はもちろんだが、それが自らの「個性」とやらを表出する方向に向かわない。そういう意味で日下の演奏はいささかも「個性的」ではないのだが、恐らく日下自らが個性的たれ、と思ってもいないし個性的だから優れているのだとも考えていないだろう。しかし、正にこの点において日下の演奏は唯一無二のものとなる。ここで演奏されているのはバルトークだが、それすらを超えてただ「音楽」だけがそこにあったという印象なのだ。禅問答めいているようだが、この曲でかように透明な演奏を聴いたことがない。それゆえ、細部がどうこうと言い募る気がしない。これをして物足りないという向きもいるだろうが、それは「個性的な凄演」とやらに慣れ過ぎてしまっているためかも知れない。

休憩後のシュニトケでいきなり時代は現代になる。再び登場したレーマンが楽曲冒頭で聴かせた暴力的な打音と言うか音塊。まるでピアノを殴ったかのようだ。ピアノを打楽器のように扱った作品はこれ以前にももちろんあるが、それにしてもこんな音はこの作品で初めて聴く。つまり、シュニトケはここでピアノという楽器を再発見、もっと言えば再発明したのだ。あるいは楽曲タイトル。ヴァイオリン・ソナタにわざわざ『ソナタ風』(quasi una sonata)とタイトルを付けるメタ視線の元はベートーヴェン『月光』ソナタの「ソナタ風幻想曲」(quasi una fantasia)であり、さらにこれをひっくり返したリストの『ダンテを読んで』の「幻想曲風ソナタ」(fantasia quasi sonata)をも意識していよう(作曲家は明確に「ソナタそれ自体に疑義を投げかけることであり、『ソナタ風』はソナタの文脈のなかでその不可能性を巡るひとつの報告である」と述べる)。音楽それ自体もバッハの音名象徴B-A-C-H(♭シ-ラ-ド-シ)やワーグナー、リスト、ブラームス、ベートーヴェンやショスタコーヴィチなどが引用あるいはほのめかされる。

日下の演奏は、これまでの2曲と比べると明らかに音の鋭利さが増している。引用の織物たる本作、前衛的な書法から(前衛的な書法のパロディ?)何だか妙に抒情的な音楽も出現したりと意図した錯綜を演出しているこの曲に対し、過分な読み込みを排してひたすら正確に演奏しようとしている印象(この距離の取り方は好ましい)。しかし、それが単に機械的でギスギスしたものになっていないのが日下の特質ではないか。出過ぎず引っ込みすぎず、常にその音楽はしなやか、潤いがあって自然。これは前半プログラムにも共通していよう。

最後には今までの緊張をほぐすかのようなアダムズの『ロードムービー』。アダムズの曲をある程度追って聴いている方は分かると思うが、この作曲家はミニマルとは言っても作風が変化している。初期の純然たるミニマルから管弦楽曲や協奏曲、オペラなどで前衛寄りになったり複雑な構成を採用したのち再度ミニマルに復帰、とは乱暴な見立てではあろうが実際そういう印象はある。そしてこの『ロードムービー』はまさに「ミニマル・ミュージック」回帰後、後期ミニマル(勝手に考えた言葉だが)のエッセンスが詰まったような作品で理屈抜きに楽しめる。ここで日下はいかにもノリの良いグルーヴ感を披露、ピアノはやや生真面目ながらそれが逆にいい味を醸し出す。ビーバーの『ロザリオのソナタ』で始まった全4回のこの長い旅がジョン・アダムズで終わるとはちょっと心憎いですね。

こののち「ベルリン・コンツェルトハウス管の同僚であるチューバ奏者が私のために書いてくれた曲で、これが世界初演です(笑)」との日下のスピーチ後に先に掲げた作品を演奏(「別に委嘱した訳ではないのに」というのには笑ってしまった)。難技巧をふんだんに取り入れた快速調の楽曲で聴き映えする佳品。そして本当の締めはバッハ(やはり)。平凡な物言いかも知れぬが、この作曲家はアルファにしてオメガ、ということの象徴たるアンコールだろうか(日下は「ここでバッハに戻ります」という意味のことを喋ったような)。この4つの「旅」に同行した聴き手であれば、様々なコンテクストに思考を巡らせたのちの最後のこのバッハをそう捉えて何の不自然さもないだろう。トッパンホールには今後も日下紗矢子の継続的なツィクルス開始を期待したい。

(2019/3/15)