大阪交響楽団第226回定期演奏会|能登原由美
2019年2月28日 ザ・シンフォニーホール
Reviewed by 能登原由美( Yumi Notohara)
<演奏>
外山雄三(指揮)
大阪交響楽団(管弦楽)
<曲目>
モーツァルト:歌劇「後宮からの逃走」序曲
ベートーヴェン:交響曲第1番ハ長調作品21
〜休憩〜
外山雄三:前奏曲 (2012)改訂版
外山雄三:交響曲(世界初演)
「平成」がもうじき終わりを告げようとしている今、改めてこの国の音楽界の来し方を実感させられた。大阪交響楽団のミュージック・アドバイザー、外山雄三による自作世界初演の場に遭遇してのこと。その身振りからも音楽からも、堅固な幹の内部に西洋とは異なる水脈の流れが明らかに感じられる。考えてみれば、西洋音楽が本格的に入り始めたのは今から僅か150年前のこと。国際コンクールでの上位入賞の常連になったとはいえ、私たちの中には西洋との違いが確かに存在するようだ。それを良しとするかどうか、今は問わないけれども。外山の作品、そしてその指揮を見て感じたことである。
自らに光を当てる、あるいは当てられることを嫌うようだが、外山のそうした姿勢はそもそも創作に表れているのではないだろうか。コンサートマスターの森下幸路とのプレトークでは、「どんな時にどのように作曲するのか」と、創作の契機にも話が及んだ。それについては「そもそも発想が音楽そのもの」。つまり、音楽外のものから何らかの着想を得ることはほとんどないとのことだった。その手が生み出す音のなかに、音楽以外の意味があるわけではないということか。それは、創作だけではなく、指揮においても同じであるに違いない。
自作の初演がメインとなった今公演、その新作の《交響曲》が予想以上に短い作品(約10分)となったため、2012年に作曲した《前奏曲》の改訂版が新たに加えられた。
いずれも、打楽器による激しい一打を伴う始まり。世界を瞬時にしてその音の世界に引きずり込んでいく。その後は様々な曲調へと変遷してゆくが、とりわけ《交響曲》では下降音型などの短いモチーフの集積が部分を構成し、それらが互いに緊張関係を形作っている。確かに、ここには音楽外の要素を暗示させるものはない。
とはいえ、両作品ともに、中間部に入るとチェロを中心とした低弦が日本の民謡を彷彿とさせるフレーズをかすかに奏で始める。まさにこれだ。民謡を土台にした創作で知られた外山ならではのものである。そして、これこそ唯一、自己や音楽外の事象を持ち込まないはずの外山が、自らの心象を音に表出したものと言って良いのではないだろうか。しかも、民謡旋律を引用していた以前の作品とは異なり、ここでは特定の節が前面に出るわけではない。むしろ、民謡の調子を伴ったフレーズが響きの波間に漂うようであり、そのためにかえって様々な日本古来のイメージを駆り立てるのである。それを「郷愁」と呼ぶならそうかもしれない。いずれにせよ、古き日本への郷愁、これこそ、西洋音楽の語法と奏法を身につけた外山の音楽を貫く一つの柱ではないだろうか。
《交響曲》の方はその後、細かなモチーフを集めた動の部分と旋律的な静の部分を繰り返し、最後に冒頭のモチーフに回帰するとともに突如として終わりを迎える。まるで永劫回帰を思わせるようなその終結に外山が何を託したのか。この後の作品で明らかにされるのかもしれない。
それにしても、作品のみならず、外山の舞台上での一挙手一投足から如実に伝わってくるのは、音楽に対する一徹さである。例えば、指揮台から必ず降りて行うお辞儀や短いカーテンコール、それらの動きやしぐさには、一切の媚も、無駄も見られない。指揮においてもしかり。前半に演奏した2曲の古典派作品では、大仰な身振りや飾り、あるいは余計な情感の投入を排し、ただ音楽の生成に実直に従っていた。テンポやダイナミクスの変化や流動性、あるいは斬新な解釈が話題を集める昨今の演奏から言えば、そのスタイルに新味は感じられないが、そうした「新しさ」には頓着しないのであろう。むしろ、音と向き合い、作品とその作曲家に向き合う。あるいは、聴衆に、演奏者に対しても真摯に向き合う。それは、音楽を成立させる全てのものへの「敬意」の表れとも言えるが、それが外山の音楽に対する一徹さの表れと言っても良いのではないだろうか。
21世紀に入り、時代の流れ、変化は加速度的に速まっているのは誰の目にも明らかだ。音楽のスタイルも嗜好も、その勢いから免れることはできそうもない。けれども、時代の波にのまれることなく、音楽に対する一徹さをもって屹立する大木であるならば、歴史の移り変わりの中でも確固とした存在であり続けるのではないか。実に巨視的な視点を与えられた演奏会であった。
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