ポリーニ・プロジェクト2018 Ⅰ、Ⅱ|藤原聡
2018年10月12、13日 トッパンホール
Reviewed by 藤原聡(Satoshi Fujiwara)
Photos by 林喜代種(Kiyotane Hayashi)
♪第1夜 10月12日
<曲目・演奏>
シャリーノ
『急激に成長するクリスタル』(日本初演)
フルート:マッテオ・チェザーリ
『三美神が花開かせるヴィーナス』
フルート:マッテオ・チェザーリ
『6つのカプリッチョ』から
1 Vivace
2 Andante
3 Assai agitato
6 Con brio
ヴァイオリン:辻彩奈
『反転した空間』
フルート:若林かをり
クラリネット:金子平
ヴァイオリン:辻彩奈
チェロ:岡本侑也
チェレスタ:中川賢一
『地平線の壁』
フルート:若林かをり
イングリッシュ・ホルン:吉井瑞穂
バス・クラリネット:山根孝司
シューベルト:弦楽五重奏曲 ハ長調D956
ハーゲン・クァルテット
チェロ:堤剛
♪第2夜 10月13日
<演奏>
ハーゲン・クァルテット
ルーカス・ハーゲン(第1ヴァイオリン)
ライナー・シュミット(第2ヴァイオリン)
アイリス・ハーゲン=ユダ(ヴィオラ)
クレメンス・ハーゲン(チェロ)
<曲目>
ウェーベルン:弦楽四重奏曲(1905)
ウェーベルン:弦楽四重奏のための5つの楽章 op.5
ウェーベルン:6つのバガテル op.9
ベートーヴェン:弦楽四重奏曲第14番 嬰ハ短調 op.131
(アンコール)
シューベルト;弦楽四重奏曲第13番 イ短調 D804『ロサムンデ』~第2楽章 アンダンテ
前回来日時の2016年に続き、今年の来日でもポリーニはリサイタルを行なうのみならず自らの名を冠した『ポリーニ・プロジェクト2018』を開催した。周知とは思うが、本プロジェクトにおいてポリーニ自身は演奏せず「プロデューサー」となる。この音楽家は自身のリサイタルにおいて例えばシュトックハウゼンとベートーヴェンを、あるいはシェーンベルクとショパンを、つまり古典と現代作品を並列したプログラムをしばしば組む。これと同様、このポリーニ・プロジェクトでも上記のようにコンサートの前後半で大きなコントラストを生むような作品をチョイスしている。異化効果と相同性のどちらを見出すのかは聴き手1人1人の問題だとして、聴き手はポリーニに礫(つぶて)を投げられたのだ。ここに未だ衰えぬポリーニの倫理性を見る(当然だろうが2夜共ポリーニ自身も奥様と来場されて熱心に耳を傾けていた)。
第1夜はシャリーノ作品集。以前の『ポリーニ・パースペクティヴ2012』でもこの作曲家の作品が取り上げられているが(それ以前にも演奏された気がする)、近年ポリーニが最も注目している作曲家の1人なのだろう(余談だがポリーニが録音しているモーツァルトのピアノ協奏曲第24番ではシャリーノのカデンツァを用いている)。
ここでは日本初演曲を含んだ5作品が演奏された。1曲目の『急激に~』と2曲目の『三美神~』でマッテオ・チェザーリが披露する超絶技巧には感嘆しきり。通常奏法はほとんどなく、まるで尺八のように強烈に吹き込まれる空気の混ざった鋭角的な「ノイズ」音・破裂音、強くアタックされることでキーそれ自体から発せられる音程を伴った打音、これらがまるでフリーインプロヴィゼーションのような趣で徐々に立ち現れてはまた消えて行く。静寂と「ノイズ」のコントラストの妙。表面的にはある意味でラッヘンマンの音楽と似ている部分もあるが、ラッヘンマンの静寂とノイズは音楽内の楽しみで完結しない「意識の変革」を目指しているのに対しシャリーノの音楽は彼流の「自然の模倣」だという気がする(あくまで音楽から受けた印象だが)。
次のヴァイオリン・ソロによる『6つのカプリッチョ』では左手による撥音やスル・タスト、スル・ポンティチェロ、ハーモニクスなどおよそ考えられる多彩な奏法と音色の追求が行なわれているし、木管楽器をメインとした『反転した空間』や『地平線の壁』でも普通の音が出て来ない(前者ではチェレスタが使用されているが、ここまで暴力的なこの楽器の使われ方を聴いた試しがない)。
この5曲を聴いて連想したのは、同じイタリアの作曲家ジャチント・シェルシと共通するシャリーノの単独性・唯一性だ。作品は全く似ていないが、何かその存在のありようが似ている。筆者にとっては実演初のシャリーノ、これは非常に面白かった。
そして後半はまるで趣が変わりシューベルトの弦楽五重奏曲(正直に言ってこの対比の意味は今一つ分かりかねるが。シャリーノ作品とシューベルト作品、いずれも未曾有の領域に到達した音楽ではある)。
プログラムに挟まっていたアナウンスでハーゲン・クァルテットのヴィオラ奏者であるヴェロニカ・ハーゲンが腕の負傷のため来日不可能となり、代役としてアイリス・ハーゲン=ユダが参加、と告げられる。チェロには重鎮・堤剛。
これを聴くと、一時期の尖がりまくっていたハーゲンも随分と落ち着いて来たなという印象。旋律をレガートで濃厚に歌わせることをせず、鋭角的かつ神経質なフレージングで短く分節するかのような音の配置をしていた彼らが実に美しいシューベルトを奏でている。第1ヴァイオリンのルーカスの音程が怪しい瞬間があったり、第2チェロの堤の音色がやや浮いていたり呼吸が僅かにずれるということがありつつも、総じて聴き応えある演奏だったと言える。しかし当夜は何と言っても前半にとどめをさす。
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第2夜。先述したヴェロニカ・ハーゲンの降板に伴い、プログラムは当初演奏が予定されていたベルクの弦楽四重奏曲からウェーベルンの同名曲及び6つのバガテルに変更となった。個人的にはベルクを楽しみにしていたので残念ではあったが代役の手の内に入っていない曲なのだろう。そして、そのウェーベルン作品ではハーゲンの特質が万全に生かされた名演奏が繰り広げられた。彼らの細身でシャープな音と音色に対する鋭敏な感覚、反射神経の良さがウェーベルン作品での音とその合間の沈黙を全く効果的に生かしていたのが忘れ難い(この「音と沈黙」、これは第1夜のシャリーノとの相似形を描いてはいまいか)。それでいて無機的にもならずにその表情には血が通っている。ヴィオラ代役のアイリス・ハーゲン=ユダはいまいち主張に乏しいが、それもヴェロニカと比べての話であって大きな不満はない。
後半のベートーヴェンでは第4楽章までが意外に大人しく安全運転と言うかセーヴしている感、どことなく彫りが浅い。しかし第5楽章のプレストに至ってその表情には大きな起伏と表現性が増したのが分かる(1度目の主題回帰前でのルーカスの「フライング・ピチカート」には苦笑したが)。終楽章はさすがに大団円だが、彼らの得意なベートーヴェンの14番にしては平板でやや物足りなかったのはやはりヴェロニカ不在のためという気がしないでもない。アンコールには『ロザムンデ』の第2楽章。この第2夜でのウェーベルンとベートーヴェンの対比、直接的な関係云々というよりもその作品の形式に対する破格な探求において結び付くものがある、といった所だろうか。片方は凝縮へ、片方は拡張へ。
第1節に記したポリーニの倫理性。それは彼自身の演奏にもそのまま当てはまる。それは高潔だが、しかし孤独な哀しみを湛えてすっくと屹立する/し続ける。
(2018/11/15)