特殊音楽祭2018|齋藤俊夫
2018年7月14日 和光大学学生ホール
Reviewed by 齋藤俊夫(Toshio Saito)
写真提供:後藤天
<曲目・演奏>
リシャール・ブシェ:『灯火観水』(1986)
アラン・アボット:『プロスランバノメノス(最低音)』(1970)
オンド・マルトノ:大矢素子
川上統:笙とエレクトロニクスのための『松藻虫』(2018、世界初演)
山本和智: 笙とエレクトロニクスのための『遊糸の工』(2018、世界初演)
笙:石川高、エレクトロニクス:有馬純寿
即興演奏
電子楽器:電力音楽(木下正道、池田拓実、多井智紀)、エレキギター:コサカイフミオ
磯部英彬:ヴィデオロンと声とマルチチャンネルスピーカーのための『ナポリの情熱の声』(2018、世界初演)
ヴィデオロン:佐藤洋嗣、(映像出演:松平敬)
足立智美:『超人のための音楽 第一番 AとB』(2015)
湯浅譲二:『ホワイト・ノイズによる「イコン」』(1967)
即興演奏
エレクトロニクス:有馬純寿
企画:山本和智
実に熱い音楽祭であった。しかし気候も猛暑だったせいか、最寄りの駅でタクシーが捕まらず、筆者はオープニングアクトとオープニングムービーを見逃してしまった。YMOのパロディであるムービーはYouTubeにアップされたが( https://www.youtube.com/watch?v=c49KuQpUjKk&feature=share )、料理研究家・四分一耕による「エイの吊るし切り」が見られなかったのは実に残念。「電子・電気音楽特集」にちなんで電気エイを持ってきたそうだが、その予想の斜め上の発想はさすが。
しかし、週刊誌の中吊り広告のパロディであるチラシからオープニングと笑いを取りに来たが、音楽祭の内容は本気で音楽に向き合ったものであり、笑いの要素も含まれていても、手抜き、容赦は一切なかった。
まず大矢素子の演奏によるオンド・マルトノ2作品。中音域のドローンが鳴り続ける中、人声に似た音がゆったりと涼しげかつ叙情的にたゆたうブシェ『灯火観水』。最高音域でキラキラクルクルと音が散乱したり、重い最低音が腹の底まで鳴り響いたり、鍵盤を使っての不気味可愛い音型が現れたりと、ブシェ作品の人間的な響きとは対照的に人間離れした音楽のアボット『プロスランバノメノス(最低音)』。猛暑の中の清涼剤、しかも素敵に刺激的な清涼剤としてオンド・マルトノは最適であった。
笙とエレクトロニクスのための川上統と山本和智作品。これらもまた涼しげ。
水面下に生息する(アメンボのように水面上に浮かぶのではなく、水面直下に背泳ぎのように潜む)昆虫・『松藻虫』の、水面下の虫の体が水面に反射して鏡像として映るイメージにインスピレーションを得た川上作品。奥行きと広がりのあるエレクトロニクスの音響に笙が凛として澄んだ音を何本も貫いていくのが喩えようもなく美しい。笙の和音を「本体」として、エレクトロニクスを「鏡像」とした構造も、生物のイメージを音楽として結晶化するという川上の独創的かつ巧みな技量を表していた。
バリトン歌手にさるぐつわを噛ませて歌わせる、オーケストラの会場中に糸電話を張り巡らせる、など「奇想」の作曲家として筆者が認知していた山本和智であるが、本作『遊糸の工』では彼の違った側面が見えた。笙は冒頭から最後までずっと同じ和音を奏で続け(笙は吹いても吸っても音が出るためこのような持続が可能である)、そこにエレクトロニクスが合奏、というより「干渉」と言った方が正確なほど、笙とかすかにずれた(和)音を発する。それらの音の「うねり」に耳をそばだてると、実に心地よく、豊かな音響が心の中に広がっていく。音の動きではなく、響きのみを傾聴させるこの作品も「奇想の系譜」に連なるものかもしれないが、決して「奇妙」ではなかった。
ここまでまるで納涼祭のような音楽が続いていたが、(予想はしていたが)電力音楽&コサカイフミオは中華鍋の中で炒められるような激熱のノイズ・ミュージックであった。
形容し難い轟音に次ぐ轟音。コサカイ、木下、池田、多井の全員が、汗だくになりつつただひたすらに轟音を鳴らし続けた。
顔を真っ赤にして目を瞑っているのか白目を剥いているのかトランス状態に陥ったのか足元をふらつかせ、終わり近くには歯でエレキギターの弦を掻き鳴らすコサカイ。Tシャツを着替えつつ器具の端子をあれこれ差し替え続ける木下。淡々とした動作で金物(普通の楽器ではなく、様々な金属性の「モノ」を音の発信源としている)を叩き、擦り続けてスピーカーからとんでもない圧力の音を出し続ける池田。筆者の背後で演奏していたのだが、終盤、他の3人のステージ前でダンボールの筒の中にマイクらしき物を入れて、轟音をピックアップするか何かしていた多井。
繰り返すがとにかくひたすらに轟音に次ぐ轟音。しかも約30分間という長時間。筆者の席はスピーカーの近くに位置していたため、それに近い左耳の鼓膜が危ないと思って片耳を押さえていたのだが、終わってみたら押さえていなかった右耳がひどい耳鳴りを発していた。治ったのは一晩寝てからである。凄い、凄まじい、が、筆者としてはここまでの轟音ではないし、それぞれの音をよく聴いてアンサンブルさせる、いつもの電力音楽3人の即興演奏の方が好みであったことは正直に記しておきたい。
30分間の休憩で特製電気ブランやエイの麻辣丼、ホッピー、ラムネ、それにTシャツやワッペンの物販などを楽しみ、後半へ。
山本和智が考案・製作した、映像を演奏する楽器「ヴィデオロン」、作品の前にこの楽器について説明すると、チェロに似た形状で、主に弓と2本の弦で出来ている。弓に映像と音のデータが入っており、チェロを弾くように受信機をこすると弓の位置に合わせて映像と音が再生され、2本の弦の抑える場所、ヴィブラートなどで音を変調させることができる。
では、そのヴィデオロン独奏曲『ナポリの情熱の声』であるが、スクリーン下方から次第にバリトン歌手・松平敬の映像がせり上がってきたのにまず笑ってしまった。そしてシュヴァンクマイエルの映像作品のようにカクカクとした動きで松平が動きつつ、彼の「オー・ソレ・ミオ」の歌が変調され、断片化されて再生・演奏される。松平の顔芸(スクリーンに大アップされた顔は笑わずにいられようか)と動作、奇妙に変調された歌声が可笑しくてたまらなかったが、このヴィデオロン、笑いを超えた楽器としての潜在的能力があると思えた。
長かったがあっという間の音楽祭、最後の登場者は日本におけるエレクトロニクスの第一人者・有馬純寿である。
まず、足立智美作曲『超人のための音楽 第一番AとB』であるが、これは馬鹿馬鹿しいまでに知的な冗談音楽。電子的に発することが可能だが、人間の可聴領域を超えた超高域の周波数で作曲された、従って現生人類には全く聴こえない2つの作品、演奏時間は曲間入れておよそ4秒。「一万年後のわれわれの子孫がこの音楽を聴き、読み解く力がないと誰がいえよう。また今日の聴衆のなかにその能力を持った物がいないと誰が断言できるだろう」(プログラムの作曲者の言葉)、残念ながら筆者も他の聴衆も超人ではなかったのでただ笑うしかなかった。だが、こういう作品(?)は個人的には大好きである。
1967年制作の湯浅譲二『イコン』、磁気テープからの修復作業に当たった有馬も「半世紀以上前に作られたとは思えない」とコメントしていたが、全く同感である。ホワイトノイズが 5チャンネルのスピーカーを使ってダイナミックに会場中を動き回るその音響はまさに宇宙的スケール。人間性の軛から音を解き放ち、音自体の生命力を創造していた。人智を超えたものを人間が想像・創造できるという奇跡、音楽でしかありえない奇跡を体験できた。
最後は有馬による電子即興演奏。ラジオの生放送を電子的に歪ませ、人の声を徐々に人の声ではない何かに、そしてホワイトノイズへと変貌させる。そしてそのノイズと重低音と超高音の荒れ狂う嵐の中で人の声が聴こえたような気がするのがまた面白い。最後は最初とは逆にノイズから人の声へと戻って終了。見事に音楽祭の終幕を飾ってくれた。
「鋭敏な学生たちの好奇心に応える」(プログラムより)という山本の志は、一見冗談にしか思えないような企画の中にある「本気の力」に支えられている。そしてその志に応える音楽家たち、学生たちがいる。生ぬるき世界に強烈な刺激を与えるこの特殊音楽祭、何かが生まれる、そして未来につながる「音楽の現場」であろう。
(2018/8/15)