クセナキス『形式化された音楽』監訳者に聞く/メールインタビュー第2回| 野々村禎彦&齋藤俊夫
クセナキス『形式化された音楽』(筑摩書房)監訳者に聞く/メールインタビュー
第2回「日本現代音楽における同時代人と後継者」
text by 野々村禎彦 (Yoshihiko Nonomura) & 齋藤俊夫 (Toshio Saito)
(齋藤)
1962年の仏語版後書き部分の本書211頁では、「実際、形式化と公理化は、現代の思考にこそ相応しい手順上の道しるべなのだ。現代の思考があればこそ、ちょうど古代の偉大な文明の時代にそうであったように、音響芸術を星や数や人間の脳の豊かさと同じレベルに近づけることができる」とあります。
「星や数や人間の脳」というのは中世ボエティウスの音楽美学のムジカ・ムンダーナ(宇宙の音楽)とムジカ・フーマーナ(人間の音楽)を踏まえたものと思われますが、音楽を歴史的に遡ることで近代以降の音楽の「人間性のドグマ」を解体しようとする彼の姿勢を表しています。その人間性を超えた音楽を作りだした数学的理論について前回はお話を伺いました。
しかし、1973年の『エヴリアリ』以降、彼の作曲法に直感的要素が多くなってからその音楽がより「人間的」になったということが前回の終わりに出てきました。
ここで連想されるのが、日本の武満徹がそれまで方法論を語らずに「人間性のドグマ」から離れた音楽を書いていたのが、1975年の『カトレーン』以降、数を方法論として語るようになってより「人間的」になったことです(例えば『地平線のドーリア』1966と『鳥は星形の庭に降りる』1977を比べれば明らかなように)。
個人的な交流もあったこの2人の作曲家のこのパラレルかつパラドキシカルな同時代性について野々村さんはどうお考えになるでしょうか。
(野々村)
表面的な図式化には慎重であるべきだと思います。クセナキスの作曲技法が変わったのは『エヴリアリ』からですが、「旋律」は既に60年代後半から現れており、第7章で説明されているような手法で音階ないし旋法を構成しています。それがSTシリーズの時期とは歴然と違った推進力を生み出しており、この時期の彼の音楽を「傑作の森」たらしめていました。
武満も方法論は語ってこなかったものの、例えば『リング』(1961) はケージ、『環礁』(1962) はブーレーズのあからさまな模倣であり、同時代の前衛音楽ないし実験音楽の方法論を参照していたことは明白です。『地平線のドーリア』はこの「前衛時代」の頂点ですが、その直後に『グリーン』(1967) のような調性的な曲を書き、しかしそのまま『カトレーン』以降の作風に向かったわけでもありません。
クセナキスと武満は、アカデミズムないし戦後前衛の本流からは離れたところでキャリアを始め、国内で認知されたのは60年代に入ってから、国際的に認知されて最初のピークを迎えたのは60年代後半というあたりも一致しており、キャリアの転機も一致していたのでしょう。ただし武満の場合、変化の方向性は世界的な「新ロマン主義」の潮流とも一致しており、数の方法論で独自性を主張する必要があったのでしょう。70年代後半は彼の創作歴のひとつの底で、80年代前半に室内楽、80年代後半に管弦楽で再びピークを迎えた時期には、数の方法論はあまり強調していなかったと思います。
(齋藤)
確かに武満自身によって方法論は明確には開陳されてませんね。方法論と作風についてクセナキスとの(逆方向の)同時代性を語るのはただの連想の域を越えないかもしれません。
ところで、70年代に武満が新ロマン主義へと傾斜していく一方で、『クロノプラスティック』(1972) や『オーケストラの時の時』(1975/77) などの管弦楽曲をものした湯浅譲二は方法論的にクセナキスと近しい関係にある作曲家だと思われます。また音楽的にも、この2曲は私の中では湯浅の最高傑作なのですが、クセナキスの影響を見ることはかなり容易だと思われます。
その湯浅譲二による武満徹の追悼文中に驚くほど厳しい評価がありました。
「僕は彼の音楽がタケミツ独自の世界をつくりだしたとは言え、それが単層的時間性の上に展開されているという意味では、伝統的ヨーロッパ音楽の性質を出るものであったとは言えない」(湯浅譲二、『人生の半ば』、慶應義塾大学出版会、1999年、131頁、1996年執筆エッセイ)
また、他のエッセイで「[武満の音楽は:引用者註]西欧的意味でのヒューマンな音楽から、質的に隔たるものではない」(前掲書123頁、1991年執筆エッセイ)とも断じています。
そして「音楽上のナラティヴィティ」の「新天地」を開いた作曲家の1人としてクセナキスを挙げています(前掲書、122頁、前掲エッセイ)。
クセナキスと武満の間には新旧、そして「人間性」の隔たりがある、という論はかなり説得力があります。しかし80年代以降の湯浅譲二も、「新ロマン主義」にはなびかずとも、直感的な作風に流れていったと私は評価します。あるいはここにこそクセナキスとの相似関係があるのかもと思いますが、いかがでしょうか。
(野々村)
湯浅は武満には時に厳しいですが、日本には松平頼則・頼暁父子、篠原眞、小杉武久、近藤譲をはじめ、この二人以外にも重要な作曲家は少なくないのに、彼は専ら武満のことしか語っていないわけです。実験工房の同志でありライバルでもあった武満は特別で、芸術音楽における達成では勝るとも劣らないという自負があるのに、世間的評価には差があるので複雑な想いがあるのでしょう。
武満音楽は「ヒューマンで単層的」だから、電子音楽が発想のベースの多層的な湯浅音楽よりも世間には受け入れられやすいと彼は考えたのでしょうが、武満は芸術音楽・映画音楽・音楽プロデュースを三本柱に、音楽著述でも新潮社から全集が出るほどの多才さが本質で、その総合評価の結果に過ぎません。またプロデュース活動において、武満の「クセナキス推し」は一貫していました。
音楽を周波数と時間の二次元グラフと捉えるという発想の根幹を湯浅はクセナキスと共有しており、二人の音楽の近さは言うまでもありません。特に私は、クセナキスの最高傑作は『ペルセポリス』(1971) と『エルの伝説』(1977) 、湯浅の最高傑作は『イコン』(1967) と『スペース・プロジェクション・アコ』(1970) という、いずれも音響の空間性を重視した電子音楽だと思っているので、なおさら近く感じます。
この二人の70年代半ば以降の変化は、電子音楽のデジタル化と関係があると私は思います。クセナキスの場合は、第13・14章で説明されているような、波形を一から描く(正弦波の加算ではない)音響合成が「形式化された音楽」の中心になり、器楽曲は「形式化」せず直感的に作るようになったのに対し、湯浅はコンピュータ音楽に関わる中で、ホワイトノイズのフィルタリングと空間配置では得られなかった「音色」を発見し、『芭蕉の情景』(1980) 以降の作風に向かったのではないでしょうか。
(齋藤)
やはり野々村さんも監訳者解説で「新しい技法の賞味期限は高々20年」と書かれたように、新しいものを追求していくと同じ作家でも音楽が変わっていくということが一般的な事実なのでしょう。クセナキスも武満も湯浅もその例外ではなかった、と。
今回の終わりに、監訳者あとがきでクセナキスの後継者的存在として挙げられていた秋田昌美(メルツバウ)とズビグニエフ・カルコフスキーについて伺いたいと思います。
ネットで聴ける範囲でこの 2人の(ソロと共作の)ノイズ音楽、ノイズ・エレクトロニカ作品を聴いてみましたが、たしかにクセナキス『ペルセポリス』『エルの伝説』のようなミュジック・コンクレートの噪音・轟音が連なっていて驚きました。クセナキスはこれらの作品でチャートを作って作曲しましたが(*)、秋田とカルコフスキーも同じ方法を用いたのでしょうか(カルコフスキーはクセナキスに師事したそうですが)。それともクセナキスとは別ルートでこの音響に至ったのでしょうか。
また、ノイズ音楽の始まりから音響的即興に至るまでに、クセナキスの電子音楽はどのような音楽史的位置にあり、あるいはその指針となったのでしょうか。いささか時代的スパンが大きすぎるかもしれませんが、お答え頂けるでしょうか。
(*)参考文献:James Harley “Xenakis His Life in Music”,NewYork and London, 2004,p69,p113.
(野々村)
武満、湯浅と来たら締めは高橋悠治かと思いましたが、メルツバウですか。高橋は『ヘルマ』(1960-61) を委嘱初演し『エオンタ』(1963-64) も初演、60年代には直々に作曲法も学んだ深い因縁の持ち主ですが、結果的に「クセナキスの作曲法を使っても彼のような音楽になるわけではない」と身をもって実証し、以後は良き理解者として独自の道を歩んだので、後継者を求めるのであれば彼は違いますね。
メルツバウは1980年前後に活動を始めた、非常階段、インキャパシタンツと並ぶ日本のノイズ音楽の草分けにあたるグループのひとつです。メンバーは時期によって替わりましたが、常に秋田昌美が中心的な役割を果たし、90年代半ばからは彼のソロになりました。日本の同世代の他のグループは身体性に直結した表現を行ってきましたが、彼らは録音の緻密な作り込みを出発点にしました。
ノイズ音楽はポストパンクの世界的な潮流で、欧米の同世代にはダダ的傾向から出発したグループが多いのに対し、日本のグループはジャーマンロックに影響された音響志向が特徴です。メルツバウはそれに加えて現代音楽側の電子音楽を参照し、それが彼らの個性になりました。なかでもクセナキスの影響は強く、秋田は『ペルセポリス』や『ボホール』(1962) を好きな音楽の上位に挙げています。
90年代に入って海外公演の機会が増えると、ライヴ向けに機材を簡素化し録音作品でも一発録りに向かいますが、それ以前から音選択は直感的・即興的に行っており、クセナキスのミュジック・コンクレートのように組織的方法論に基づいて作られたわけではありません。メルツバウの音楽は、いったん音圧に慣れると対位法的な濃密さに圧倒されますが、基本的には「即興音楽」なのです。
即興で同等の音楽的密度が得られるならば現代音楽の組織的方法論に意味はあるのか、と思われる方もいるでしょうが、最初にやる時には組織的方法論が必要なのです。クセナキスが電子音楽で作風を確立したのは『東洋・西洋』(1960) や『ボホール』の時期、メルツバウがそれに匹敵する強度に達したのは80年代半ば。即興でもテクスチュアは十分継承できますが、先人の達成と相応の年月が前提です。
後期ヴェーベルンとヨーロッパ自由即興、初期カーゲルとNYダウンタウン即興、70年代ラッヘンマンとヨーロッパ音響的即興等々、現代音楽から生まれた新しい音世界は20-30年で実験的ポピュラー音楽に受け継がれて豊かな稔りをもたらしました。「新しい技法の賞味期限は高々20年」は「即興で同等の…」という先の疑問への回答にもなっています。秋田と同世代のカルコフスキーはポーランドの現代音楽畑出身ですが、この状況を踏まえて東京ノイズシーンに活動の拠点を移したわけです。
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(第3回に続く)
(2018/3/15)
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野々村禎彦(Yoshihiko Nonomura)
1966年東京生。第1回柴田南雄音楽評論賞奨励賞を受賞し、Breeze紙やExMusica誌を皮切りに音楽批評活動を続ける。川崎弘二編著『日本の電子音楽 増補改訂版』(愛育社)、ユリイカ誌『特集:大友良英』(青土社)などに寄稿。