Menu

東京都交響楽団【インバル90歳記念】都響スペシャル Tokyo Metropolitan Orchestra: Inbal’s 90th-year-old Special Concert | 内野 儀

東京都交響楽団【インバル90歳記念】都響スペシャル
Tokyo Metropolitan Orchestra: Inbal’s 90th-year-old Special Concert

2026年2月16日 サントリーホール
2026/2/16 Suntory Hall
Reviewed by 内野 儀 (Tadashi Uchino)
Photos by 東京都交響楽団 /(c)藤本史昭

〈演奏〉
東京都交響楽団
指揮/エリアフ・インバル
ソプラノⅠ/ファン・スミ
ソプラノⅡ/エレノア・ライオンズ
ソプラノⅢ/隠岐彩夏
メゾソプラノⅠ/藤村実穂子
メゾソプラノⅡ/山下裕賀
テノール/マグヌス・ヴィギリウス
バリトン/ビルガー・ラッデ
バス/妻屋秀和
合唱/新国立劇場合唱団
児童合唱/東京少年少女合唱隊

〈曲目〉
マーラー:交響曲第8番

 

マーラーの交響曲第8番については、かつてはめったに演奏されない曲だった記憶があるが、近年、「お祝い」がらみで取り上げることが日本では多いようだ。エリアフ・インバルの90歳の誕生日(2月16日)と都響の創立60周年ということもあ り、今回の演奏は、インバル/都響の第3次マーラー・シリーズの第2弾という位置づけだった。昨年11月には、群馬交響楽団(飯森範親指揮)が創立80周年記念に演奏。また、2023年、NHK交響楽団の第2000回目の演奏会曲目として、ファン投票で選ばれて演奏(ファビオ・ルイージ指揮)。日フィルも今年6月、創立70周年での演奏を予定している(カーチュン・ウォン指揮)。「千人の交響曲」なる通称もあるくらいで、たしかに「お祭り向き」であることは、少なくとも外形上は否定しがたい。

長大な2部構成だが、大人数の合唱隊に8人のソリスト、16型編成のオケに、オルガンも加わり、壮大なスケールと音圧で高揚感をもたらす効果的な曲ではある。そのためもあって、初演の成功はともかく、戦後のアドルノによるよく知られた批判(『マーラー:音楽観相学』1960年)以降、学問的・批評的論争が続き、その受容はきわめて複雑な様相を呈している。近年頻繁に演奏されるようになったのは、アドルノ批判への批判的応答と同交響曲の「再評価」だけが理由ではないとも思われるが、「再評価」の諸相については、コンサート評の範疇にとうてい収まらないので、これ以上は追究しないことにする。

周知のようにこの曲は、マーラーの他の交響曲以上に、空間性あるいは「劇場的」空間性が、聴取体験上の大きな意味を持つ。今回サントリーホールでは、舞台上いっぱいに広がるオーケストラ、そしてその後方に東京少年少女合唱隊が配され、舞台背後の通常は客席である部分を、7名のソリストと合唱団が座を占めた。さらに、楽譜指定の倍の人数(トランペット8,トロンボーン6)のバンダが後方左右に、また、ソプラノⅢも後方左手から歌うことになっていた。

わたしがこの曲をライヴで聴くのは2023年ライプチッヒ・ゲヴァントハウスでのマーラー・フェスティバルにおける、アンドリス・ネルソンズ指揮ライプチッヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団による演奏以来となる。そのときは、2階席の左上の座席だったために、合唱とオーケストラの音が左右別々に聞こえてくるような位置だった。同時代を代表する指揮者とオケによる圧倒的な演奏だと思ったものの、聴取体験的に何か決定的なものをわたしにもたらすことはなかったと記憶している。

今回わたしは、1階9列の中央という、音響的にはほぼ正面軸上で聴くことになった。そのため、わたしの個人的な聴取体験としての今回の第8番は、まず弦楽器の圧力が印象を決定づけたと思われる。対向配置ではなく、第1・第2ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロが並 び、その背後にコントラバスが控える近代標準型である。弦は完全に一体化した前面壁を形成し、直達音と初期反射が中央席で合成されることで、音は線ではなく面となって迫ってくる。とりわけ第1部冒頭からコーダにかけて、弦の質量は構造を分節するというより、音楽全体を包み込む張力として機能しているように聞こえた。

その一方で、ティンパニや打楽器の衝撃は思いのほか角が取れ、駆動力というより床鳴りのように後景化していた。第8番は金管と合唱の大きなエネルギーが前景を占める作品だが、今回は第1部及び第2部の終結部において、客席内に配置されたバンダが左右から空間を切り裂くので、聴覚の焦点が横方向へ拡散する場面が訪れることになった。奥に置かれた打楽器のアタックは相対的に丸まり、縦の衝撃よりも横の包囲感が強調される時間があったということだ。結果としてこの演奏は、わたしの座った場所からは、爆発的祝祭というより、ホール全体が、一種の音響建築/構造物へと変貌する体験として記憶されることになった。

インバルの解釈は、基本的にオーソドックスである。テンポを恣意的に揺らすことはなく、盛り上げるべき箇所では徹底して音量を拡張し、静まるべき場面では徹底して引く。第1部のフーガ的展開でも、構造は明瞭に示されるが、強調は過度にドラマティックにはならない。第2部終盤の「Alles Vergängliche」でも、壮大なクライマックスを築き上げながら、テンポの流れは終始安定している。激情的な誇張や主観的な陶酔ではなく、全体の見通しを優先する姿勢である。

そのため、弦の一体化した音塊とインバルの整然としたテンポ設計が相まって、この第8番は過剰な人数の過剰な音圧で圧倒するマーラーというより、豊かな和声層を築き上げるマーラーとして立ち上がった。対向配置であれば見えやすいはずの対位法的応答は、ここでは音の厚みの中に溶け込み、音楽は構造を提示するよりも質量を提示するのである。

独唱陣については、統一的なドラマを形成するというより、それぞれの声質と表現が前面化していた印象が残る。個々の力量は高いが、全体として一つの方向へ収斂するというより、各自が自らの役割を全うする形で並立していた。とりわけ第2部では、合唱とオーケストラが豊かな音響層を形成する中で、独唱の個性は鮮明だった。インバルの統御が枠組みを整えつつ、細部のニュアンスを過度に統合しないで自由に任せるという姿勢の反映かもしれない。

総じて、今回の第8番は、わたしが聞いた位置からは、極端な解釈や奇抜な配置によって新しい像を提示するものではなく、オーソドックスな設計と大きな編成の純粋な力学を正面から提示することで、音楽そのものの物理的・建築的側面、あるいは劇場空間的「特性」を際立たせるものだった。弦の面、左右からのバンダ、後景に退いた打楽器、そして個性を保った独唱陣。それらが一つの分厚い音響空間を形成し、聴き手であるわたしを包囲した夜だったのである。言い換えれば、「過剰な祝祭」にぎりぎりならない微妙なバランスをとりながら、無媒介の高揚感を完全には手放さない一方、細部に耳をそば立てるよう自然に聴衆=わたしを誘うような演奏だったと言えるだろう。

(2026/3/15)