読売日本交響楽団第654回定期演奏会|能登原由美
読売日本交響楽団第654回定期演奏会
Yomiuri Nippon Symphony Orchestra Subscription Concert No. 654
2026年1月20日サントリーホール
2026/1/20 Suntory Hall
Reviewed by 能登原由美(Yumi Notohara)
Photos by 藤本崇/写真提供:読売日本交響楽団
〈プログラム〉 →foreign language
プフィッツナー:カンタータ〈ドイツ精神について〉作品28 (日本初演)
〈演奏〉
指揮:セバスティアン・ヴァイグレ
ソプラノ:マグダレーナ・ヒンタードブラー
メゾ・ソプラノ:クラウディア・マーンケ
テノール:シュテファン・リューガマー
バス:クワンチュル・ユン
合唱:新国立劇場合唱団
合唱指揮:冨平恭平
第1コンサートマスター:林悠介
読売日本交響楽団
なぜ今、この作品を日本で取り上げるのか。しかも本邦初演。良し悪しをいうわけではなく、まずはその問いが頭をよぎった。よほど作品の音楽的内容が優れているのか、あるいはそれ以外の理由なのか。ハンス・プフィッツナーが、第一次世界大戦が終結してまもない1920年から21年にかけて書いたというカンタータ《ドイツ精神について》。首席指揮者であるヴァイグレが、母国ドイツの作品を積極的に取り上げている一環であろうことは理解できるにせよ、同国においてもいまだに論争の的となる作品(1)を取り上げるからには、何らかの思いがあると推測するのは自然なことだろう。
何よりも、《ドイツ精神について》というタイトル―原題のVon deutscher Seeleを文字通り訳せば「精神」よりも「魂」が近いという見方もある―が、愛国主義的色合いを醸し出す。実際、彼の中のナショナリズムを先鋭化させることになった要因の一つとして挙げられるヴェルサイユ体制は(2)、その創作の直前となる1919年の講和条約締結とともに始まった。いや、そもそも大戦自体が彼にとって大きな意味をもったのであろう。実際、4年余りにわたって欧州を包んだ激しい戦闘は、人々の愛国熱を以前にないほど高めていった。音楽家もその熱を免れることはなく、フランスではドビュッシーやラヴェルなどが祖国への愛に突き動かされた作品を残している。イギリスのエルガーに至っては、大戦中の1917年、独唱と合唱、管弦楽による3部構成の作品、その名も《イギリス精神》―原題はThe Spirit of England―を完成させている。まさにプフィッツナーの主題にも通じるものだ。ただし、そこに示された愛の対象は大きく異なる。英詩人ローレンス・ビニョンによって書かれたテクストは、故国のために犠牲になった兵士を称え、その行為を「イギリス精神」と称揚する。その音楽は、冒頭から上行音形が繰り返し重ねられ、タイトルになったフレーズ「イギリス精神」で頂点に達する。これこそジンゴイズムとみなせるようなスタイルだ。実際、こうした曲調が災いしているのであろう。第二次世界大戦までは演奏されていたという本作も、戦後になるとその機会はほとんどなくなった(3)。
一方、《ドイツ精神について》の場合、そうした好戦的態度が現れているわけでは決してない。全体は2つの部分からなるが、第1部は「人間と自然」、第2部は「生と歌」で、自然や人生について観照する詩人の姿を彷彿とさせる。このヨーゼフ・フォン・アイヒェンドルフの詞章に基づくプフィッツナーの音楽も、総じて大河のような流れをもち、時に幻想的、時に瞑想的でさえある。あのエルガー作品に見られるような勇壮さやストレートな愛国主義的表現、あるいは合唱全体が一体となって扇ぎ立てる要素はないのだ。とはいえ、「君はこの地で何をしようというのか」「なぜ君はこの地に」(訳:前原拓也)など、土地やそこに生きる人間の存在を凝視する原詩には様々な含みがあり、多義的でもある。あるいは、「郵便御者としての死」や「家の周りで嵐が吹き荒れる」といった表題は象徴的であるとともに、不穏な空気を暗示する。単なる自然愛や愛郷心にとどまるのではなく、むしろ人智を超えた力が静かに、だが確実に迫りくることを感じさせるものだ。実際、第1部を締めくくる最後の詩節は、永遠の高みへと昇る「王」の存在を称揚するものだが、ソプラノ独唱と合唱によって壮大に歌われる最終行「永遠の城壁を登るのだ」は、上へ上へと向かう旋律の推進力によりそれまでにないほどの高揚感を湛えている。その詩句は、何よりも音楽によって絶対的存在へと昇華されているのだ。
これほどまでに示唆に富んだ作品を、いかに舞台上に現前させるのか。しかも、初めてその実演に触れる聴衆を前にして。
この日のヴァイグレは、決して大仰な身振りをすることなく、むしろ抑制が過ぎるとも思えるほどモノクロームにその精神を描いていった。もちろん作曲家がしたためた楽譜自体がそうであったともいえるが、どれほど音の数が増えてもそれに引きずられることはない。あの王の永遠性を謳った第1部の最終行でさえ、詞と音が引き起こす情動に溺れることなく、冷静さを失うこともない。あるいは、問題含みの楽曲を初めて紹介するゆえあえて余計な色合いを出さないようにしたのかもしれない。が、むしろそれによりテクストが孕む重層性が前面に引き出され、様々な想念を喚起することになった。
独唱者たちも秀逸であった。ドラマ性を抑えつつも、宗教的カンタータが求める清廉さのみに終始するわけでもない。また、いずれかの声部に偏り過ぎることもなく互いに拮抗し、それぞれが言葉と音の綾を紡いでいく。そこには調和や統一感といった、アンサンブルに求められがちな一体化した響きがあったわけではない。むしろ独立しながら時に交わり時に重ねられる声の帯は、決してこちらを圧倒するわけではなく、ただ深い余韻を残していった。
おそらく、奏者によってその演奏解釈は異なるであろう。創作の背景に加え、テクストや音楽自体もさまざまな含みをもち、その受け取り方によって変容する作品なのだから。それとともに、いつ、どこで、どのように上演されるのか。演奏の場がもたらす意味も非常に大きい。それだけに、ヴァイグレによってなされた日本初演は単なる紹介にとどまらない、多様な示唆を与えるものとなった。おそらくそれが、彼の意図したことであり、この日の舞台が我々に提示した答えであろう。
(2026/2/15)
(注)
(1)辻英史による解説によれば、2007年のドイツ統一記念日に行われた再演は、短いながらも激しい論争を巻き起こしたという。辻英史「ドキュメントと同時に警鐘碑―ハンス・プフィッツナーをめぐる論争―」『読売日本交響楽団 月刊オーケストラ』 2026年1月号 24–26頁。
(2) 長木誠司「プフィッツナー カンタータ〈ドイツ精神について〉作品28(日本初演)」『読売日本交響楽団 月刊オーケストラ』 2026年1月号 18–20頁。
(3) 本作の内容と創作の経緯、受容については、拙論「第一次世界大戦期イギリスの音楽にみる戦死兵の英雄化―ヴォーン・ウィリアムズ、ホルスト、エルガーの作品から」『JunCture―超域的日本文化研究』第17号(2026年3月刊行予定)でまとめている。
—————————————
〈Program〉
Hans Pfitzner: Von deutcher Seele op. 28 (Japan Premiere)
〈Cast〉
Conductor: Sebastian Veigle (Chief Conductor)
Soprano: Magdalena Hinterdobler
Mezzo Soprano: Claudia Mahnke
Tenor: Stephan Rügamer
Bass: Kwangchul Youn
Chorus: New National Theatre Chorus
Chorusmaster: Kyohei Tomihira
First Concertmaster: Yusuke Hayashi
Orchestra: Yomiuri Nippon Symphony Orchestra




