パリ・東京雑感|アメリカの暴君の心が変調をきたすとき、私たちはどうやって身を守るか|松浦茂長
アメリカの暴君の心が変調をきたすとき、私たちはどうやって身を守るか
Text by松浦茂長(Shigenaga Matsuura)
「わたしには国際法なんていらない。」と豪語するトランプ大統領、『ニューヨーク・タイムズ』の記者に「世界で権力を行使するうえで、ここまでという限度がありますか?」と質問されると、「一つある。私自身の道徳。私自身の心だ。それが私を止められる唯一のものだ」と宣言した。
でも、ちょっと待って! 国際法で一番トクするのは覇権国家ではないの? 国境を変えたがる不満国家に対し、国際法を掲げて叱りつけるのは、現状維持が覇権国家にとってトクだからではないの?
国際平和は支配的強国に特有の既得権となっている。過去においてはローマおよびイギリスの帝国主義が「ローマの平和Pax Romana」とか「イギリスの平和Pax Britanica」という装いのもとに世界におしすすめられた。(E.Hカー『危機の二十年』)
支配的強国は、世界システムを自国に都合良くつくりあげたのだから、不満国家が現状を変えるのを許さない。「国際法」は支配的強国の利益のためにあるのだ。ところが、トランプは現状に不満がある――「アメリカはもはや世界を支配するスーパーパワーでなくなった。これからは、ロシアを見習って、国境を書き換える不満国家に仲間入り」という身も蓋もない告白だろうか?
それにしても、「わたし自身の道徳」とは、ずいぶんささやかな規範を持ちだしたものだ。
アメリカは、人権と民主主義の高邁な理想を説いては、大方の国を、説教臭さで辟易させたものだが、理想を説くのは、理想が覇権国家の利益につながるからだ。「人権」と「民主主義」は、世界支配の「武器」でもあったのに、トランプはその便利な武器を捨ててしまった。なぜ、アメリカを、現状変更を求める不満国家の一つに格下げしたがるのだろう?
いや実際、アメリカはもう一流国家ではないのかもしれない。GDPや軍事力では中国と並んでダントツだけれど、実際の生活の質を比べる「社会進歩指標Social Progress Index」を見ると、アメリカは171カ国中32番目。ポーランドやリトアニアやキプロスより劣っている。(日本は14番目でイギリスやフランスより上)。
「社会進歩指標」を統括するマイケル・グリーンは、アメリカの凋落ぶりをこう語る。
アメリカの生活の質は、ひとにぎりの北欧諸国に劣るだけでなく、G7の中で最低です。共産主義国だったスロベニア、リトアニア、エストニアにさえ追い抜かれ、韓国のように、民主化からあまり時間のたっていない国にも負けてしまいました。
かつて、アメリカは経済超大国、社会進歩超大国として冷戦に勝ったのに、30年あまりの間、社会進歩の面は放ったままだったのです。(ニコラス・クリストフ『生活と自由と不幸追求』〈ニューヨーク・タイムズ〉1月14日)
何が悪いのだろう?
――まず「安全」。パキスタンやニカラグアより下の99位だ。
「安全」といえば、ソ連が崩壊したあと犯罪が激増し、モスクワは女性が夜でも一人で歩ける街だったのに、ニューヨークより危険になった。プーチンが登場してモスクワに安全が回復すると、右も左もほっとした。自由が少々犠牲になっても、「安全」な毎日をよろこぶのが人情なのだ。ちなみにロシアの「社会進歩指標」は77番目である。
――アメリカは幼稚園から高校までの「教育」も、ぱっとしない。ヴェトナムやカザフスタンより下の47位。そういえば、アメリカの大学で教えていたフランス人哲学教授から「アメリカの大学は世界一だけれど、初等教育はなってない」と聞かされた。
――「健康」も45位。アルゼンチンやパナマより下というのには驚かされる。医療技術で世界をリードし、世界一多額の医療費(GDPの18パーセント)を費やしながら、先進国(OECD)の中で一番寿命が短い、しかも近年さらに短縮傾向にある。出産で亡くなる女性の割合が他の先進国の2~3倍とは!
「アメリカを再び偉大な国にする」Make America Great Again(MAGA)のなら、トランプは、まず中進国なみの健康状態をなんとかしなければいけないのに、医療費をばっさり削った。その結果何が起こるか? 薬物中毒患者のうち101,000人が治療を受けられず、138,000人の糖尿病患者が放置されるなど、結局、年間51,000人の命が奪われる計算だという。
「社会進歩指標」32位に示される、生活の質の低さにうんざりした中流の人々が、「トランプさんなら、私らの品位を取り戻してくれる」と期待して、熱烈なトランプ信者が形成されたに違いないのだが、トランプは彼らの期待を裏切り続けた。暮らしをよくする代りに、何をやったか?
トランプは、「アメリカを再び偉大にする」ため、中国に関税戦争をしかけてみたものの、レアーアースで逆襲され、あっさり敗退。今度は、西半球をアメリカ帝国の排他的勢力圏とする、トランプ版モンロー・ドクトリンをぶち上げ、まずはベネズエラの大統領召し捕りに成功するや、「アメリカの偉大な力を見よ」と自画自賛した。
でも西半球ってそんなに「偉大」だろうか? 人口でみれば、西半球は世界の13パーセントに過ぎないうえ、経済力、製造能力が縮小している。ちっぽけな、衰えつつある西半球に立てこもろうというトランプさん、どうやら縮み志向の持ち主らしい。この百年間、「中南米」がアメリカ政府の最優先課題になったことはなかった。どの政権もアジアとヨーロッパを向いていたのに、トランプ政権は西半球という要塞に「ひきこもり」を決めこんでしまった。
アメリカが西半球にひきこもっている間に、世界で一番人口が多く、もっともダイナミックに経済が動いているアジアの国々は、中国の影響下に入って行くだろう。
アメリカがベネズエラやアラスカにかまけている間に、中国はAI、ロボット、量子コンピューター、バイオテクノロジーなど人類の未来を支える技術で勝利するため、莫大な投資をしている。
エネルギーはどうだろう? 石油にご執心のトランプが、太陽光発電への補助金をカットし、風力発電に宣戦布告したすきに、中国は太陽光パネル、バッテリー、電気自動車の押しも押されないチャンピオンにおさまった。
去年中国で売られた自動車の54パーセントは、バッテリーで動く電気自動車、またはプラグイン・ハイブリッドというタイプだったし、中国のBYD社のE.V.販売台数がアメリカのテスラを抜いた。
2000年には中国の発電量はアメリカの三分の一だったのに、2024年にはアメリカの二倍半の電力をつくり出した。
昔、大英帝国を支えたエネルギーは石炭だった。続くアメリカ帝国は石油エネルギーの上に築かれた。では、AIとロボットがカギを握る、21世紀をリードするエネルギーは電気か? もし、電気エネルギーが、覇者の座に着く条件だとすると、「アメリカの平和」時代が過ぎ去ったあと、中国が世界を支配する「中国の平和Pax Sinica」が訪れるのだろうか?
トランプ大統領の言動があまりに異様、アメリカのためにならないことを次々しでかすので、『ニューヨーク・タイムズ』のコラムニスト、トマス・フリードマンは「アメリカは気の狂った王a mad kingに支配されているのか?」と問いただしている。
トランプがノルウェー首相にあてて、ノーベル平和賞をくれないから、グリーンランドを手に入れようとがんばっているのだ、と赤ん坊がだだをこねるみたいな文句を書き連ねたのを読んで、フリードマンも「いよいよおかしい」と確信したのだろう。
ぼくは、このニュースを読んだとき、トランプは、よほど自我の弱い男なのだろうか?ノーベル賞のお墨付きがないと、自分の行動に確信が持てない。絶えずまわりからほめそやされないと、不安な男なのだろうか?と、人格のもろさに哀れを感じたが、事態は、そんな生やさしいものではない。
わたしは、トランプがその文章を、恥ずかしげもなく、側近に口述している光景を想像してみたくなった。ホワイトハウス高官のなかにだれひとり止める人がいない。「大統領閣下、おかしくありませんか? ノーベル賞という御自分の個人的野心を北大西洋同盟全体より上に置くことはできません。」といさめる人がひとりもいない。そして側近は手紙をノルウェーに送ったのだ。
しかし、側近がいさめても、聞く耳を持たないに違いない。なぜなら、数世代のアメリカの兵士、外交官、大統領たちが、ヨーロッパのパートナーとの永続的関係を築くために流した血、費やした経費と努力は、トランプにとってなんの重みもないのだから。(トマス・フリードマン『トランプの政治はアメリカ・ファーストではない。それはミー・ファーストだ』〈ニューヨーク・タイムズ〉1月21日)
フリードマンとならぶ『ニューヨーク・タイムズ』の大物コラムニスト、デービッド・ブルックスは、「いま私たちは、四つの破綻のただ中にいる」と警鐘を鳴らす。国際秩序、国内の安定、民主的秩序、それにトランプの心の四つがおかしくなってしまったが、すべての破綻の根はトランプの心の変調にあるというのだ。彼のナルシシズムは歳とともに重症化し、非現実的な優越感、誇大妄想、同情・共感の欠如、侮辱されたと思い込んで凶暴な反撃を加えるなどの症状が急速に悪化した。
ことここに至ると、役に立つのはローマ帝国の歴史だそうだ。ぼくも去年、アメリカの行く末を考える参考にと、ギボンの『ローマ帝国衰亡史』(圧縮版)を読み、ネロをはじめカリグラ、コンモドゥス、ドミティアヌスら悪名高い皇帝たちのおぞましい行状を教えられた。デービッド・ブルックスが注目するのは、タキトゥスなど同時代の歴史家たちが、皇帝個人の道徳と社会の秩序とのあいだに密接な相関関係があり、皇帝の心の堕落は、社会秩序の崩壊を招くことを、鮮やかに描き出していた点である。トランプのインモラルがアメリカ社会を上から下まで腐らせてしまったとしても、驚いてはならない。古代ローマの賢人たちも悩まされた、道徳と社会相関の〈法則〉なのだから。
タキトゥスはとりわけ、暴君が取り巻きの人びとに及ぼす影響を描くのがうまい。
暴君が権力を握ると、まっさきに、〈隷従への殺到〉が起こり、おべっか使いどもの大群が、虫が群がるように権力者にすり寄る。追従はとめどなくエスカレートし、甘ったるさの極みに達し、ついに追随者の品位を奪い去るにいたる。その次に来るのが、〈善〉の消滅とも呼ぶべき状態。まともな道徳を持つ人も生きのびるために、身を隠すからだ。上層部のごますりが深化すると同時に、社会全体が麻酔をかけられたかのような様相をしめす。恐ろしい出来事が絶え間なく襲いかかってくるので、ついには、神経システムの許容限界をこえてしまう。初めはショッキングだった残虐行為も、残酷さが極みに至るころには、目に付かなくなってしまう。
暴政の病が進むにつれ、市民は民主主義の習慣を失う――説得と妥協の技術、人と人との信頼、腐敗を許さない敏感さ、自由の精神、節度の倫理が忘れ去られる。
さらにタキトゥスはこう書いている。「人々の精神と熱意をぺしゃんこにするのは、それらをよみがえらせるよりやさしい。実に、そのようにして押しつぶされた精神は、無気力・不活発状態に愛着を抱く。初めは怠惰を憎んでいたのに、最後は怠惰を愛するにいたるのである」(デービッド・ブルックス『来るべきトランプの変調』〈ニューヨーク・タイムズ〉1月23日)
ローマの歴史家のなんと透徹した観察だろう。麻酔をかけられたような、鈍麻した心という表現は、スターリン時代のソ連、プーチンのロシアにもそのまま応用できる。スターリン時代、だれしも近親の一人や二人は処刑されるか強制収容所送りになっていたのに、全国民がスターリンを信じ、愛し続けた。全国民が「麻酔をかけられ」るか、催眠術にかかっていたのである。
しかし、圧倒的な戦力とGAFAM(Google、Apple、Meta=Facebook、Amazon、Microsoft)によるIT支配力を持つアメリカの暴君の心が変調をきたすとき、何が起こるだろうか。デービッド・ブルックスは、どこで次の破綻が起こるか、自分には想像が及ばないと前置きしながら、政治史家ロバート・ケーガンのぞっとする一節を引用している。
アメリカ国民は、第二次大戦以来もっとも危険な世界に入ろうとしている。それに比べれば、冷戦は子供の遊びにしか見えないし、冷戦後は天国に見える。
(2026/2/15)



