浦部雪作曲個展|齋藤俊夫
2025年12月19日 トーキョーコンサーツ・ラボ
2025/12/19 Tokyo Concerts Labo
Reviewed by 齋藤俊夫(Toshio Saito)
Photos by 伊藤竜太・伊藤厚光(©︎Studio LASP)
<演奏>
指揮:浦部 雪
フルート、アルトフルート:内山貴博
オーボエ、イングリッシュホルン:大木雅人
クラリネット、バスクラリネット:西村 薫
ファゴット:坪谷 陸
ディジュリドゥ:石井宏宗
ヴァイオリン:田中里奈
ヴィオラ:永田 菫
チェロ:北嶋愛季
コントラバス:山本昌史
パーカッション:安藤 巴、岡田満里子、沓名大地
<曲目>
全て浦部雪作曲
『光よ、灯火の息吹よ』(2025) Venne la luce, un soffio della luce
イングリッシュホルン、ヴィオラ
『フルヴィオの日記―戦時1940年から1945年の少年の日記より―』(2021) Il diario di Fulvio
打楽器3名
『レインボー・サーペント』(2022)Rainbow Serpent
ディジュリドゥ、バスクラリネット、コントラバス
『ゲンブリ奇想曲』(2024) Capriccio guembrese
チェロ
『リラ』(2025)Lila
フルート、アルトフルート、オーボエ、イングリッシュホルン
クラリネット、バスクラリネット、ファゴット、カルカバ3名
ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバス、指揮
今回の浦田雪個展において、筆者は未だに蠱惑的かつ危うい魅力を湛えたニーチェの評論『悲劇の誕生』における芸術の2分類、「アポロ」的なものと「ディオニュソス」的なものの対照を想起せざるを得なかった。
『光よ、灯火の息吹よ』、イングリッシュホルンとヴィオラの2人が同旋律(あるいは音のパターン)をタイムラグを入れて交互に、奏で・途切れを繰り返す。その旋律はやがてかすれて灰色の世界の中に埋もれていく⋯⋯と思いきや、その灰色の世界に灯火がともるように2人の音が投げかけられる。安らかでおおらかな旋律――(プログラムノートにある)アンブロージョの讃歌か?――を奏で、また音は途切れ⋯⋯投げかけられ、途切れ⋯⋯薄明の中に消える。眠りにつくように。神秘的で厳粛なアポロ的夢想にいざなわれる音楽体験であった。
また、『ゲンブリ奇想曲』(ゲンブリとは、モロッコのグナワ民族の弦楽器)の、チェロの全ての音がピチカートで奏でられる――筆者は中国の「ピパ(琵琶)」の音のように感じた――オスティナート音と旋律音が交錯し合う万華鏡的音世界もまた夢のよう。どこまでも、いつまでも聴いていたくなる。
この2作品がアポロ的なる所以は、その音楽世界が慎ましやかで穏やかである、ということと同時に、音楽の表現対象〈他〉と表現主体〈自〉にまだ〈別〉があるということによる。音の輪郭は〈他〉と〈自〉を〈別ける〉境となり、音楽と、それを演奏する者と、聴く者はそれぞれ〈別〉の個体のまま、喜びに安らう。
そこで聴け、オーストラリアの先住民の神話「ドリームタイム」の1つ『レインボー・サーペント』をタイトルに冠した音楽を。ディジュリドゥ、バスクラリネット、コントラバスの3者が猛烈に絡み合う様を。
冒頭3人ユニゾンでのロングトーンの反復で始まるが、すぐにディジュリドゥがグニャグニャと〈蛇化〉する。他の2人もディジュリドゥのように〈蛇化〉して、擦って吹いて軋んで叩いて歪んで、それでもディジュリドゥの強烈な引力により「核音」は保持される。バスクラリネットが自在に変奏しているようでも、コントラバスが左手を使いまくり、バルトーク・ピチカートなど連発しても、ディジュリドゥの「核音」に捕らわれたまま。その〈音の虹の蛇〉がジリジリとグニャグニャと聴き手の心を呑み込んでいく。グニャグニャすぎて時間感覚がふっとび、音楽に心が翻弄されるがままになり、音楽の〈他〉はこちらの〈自〉と一体化する。
知恵というもの、ほかならぬディオニュソス的知恵こそは、自然にさからう悪逆であり、その知識によって自然を破滅の淵につきおとす者は、自分の身にも自然の解体を経験しなければならぬということなのだ。1)
さらに聴け、モロッコのグナワ民族の儀式をその名とした『リラ』を。チェロとコントラバスの低弦グループと、フルート2種、オーボエとイングリッシュホルン、クラリネット2種、ファゴットの管グループと、ヴィオラ、ヴァイオリンの高弦グループと、モロッコの民族金属打楽器「カルカバ」(その音は馬の歩く音をもっと硬くしたようなもの)3人が延々と応唱を繰り返す。じわじわと音量と応唱の音型が単純化されつつ高揚していき、カルカバに先導されるテンポも八分音符四打が八分音符三連符へ、さらに十六分音符四打へ、と高速化していく。全員カルカバの音で忘我の域のごとく音を掻き鳴らす。管の下行音型、弦の下行アルペジオが積み重なり、舞台はまさに白熱し、遂には全員「ピーポーピーポー」と音の源流にまで辿り着いてしまい、カルカバは矢鱈滅鱈に連打され、全員で痙攣、カルカバ3人拍打ち、痙攣、で了。会場の誰もが〈自〉と〈他〉、〈我〉と〈彼〉の〈別〉を失って融解していた。なんと恐ろしくも崇高な恍惚体験であったことか!
しかし、『フルヴィオの日記』の、日記内容を客観的に描写した様は、筆者には「良く書かれている」以上の感銘を与えなかったことも正直に記したい。あえてニーチェにこだわるならば、アポロもディオニュソスも棄て去った「ソクラテス」的な、題材をあくまで他者的に描く本作は浦部の音楽呪術が発揮されていないように思えたのだ。
だが、小賢しくもニーチェなど持ち出して評したが、浦部雪という作曲家の持つ可能性は存分に味わわせてもらった。聴け、ここに現代音楽の「今」がある。
(2026/1/15)




