ヤメン・サーディ ヴァイオリン・リサイタル|丘山万里子
ヤメン・サーディ ヴァイオリン・リサイタル
Yamen Saadi Violin Recital
2025年12月7日 杉並公会堂
2025/12/7 Suginami Koukaidou
Reviewed by 丘山万里子(Mariko Okayama)
<演奏> →foreign language
ヤメン・サーディ(ヴァイオリン)
ジュリアン・カンタン(ピアノ)
<曲目>
グリーグ:ヴァイオリン・ソナタ第3番 ハ短調 作品45
フォーレ:ヴァイオリン・ソナタ第1番 イ長調 作品13
〜〜〜
アルベニス(クライスラー編曲):組曲《エスパーニャ》より第2曲『タンゴ』、第3曲『マラゲーニャ』
ファリャ(クライスラー編曲):歌劇《はかなき人生》より『スペイン舞曲』
フランク:ヴァイオリン・ソナタ イ長調
〜〜〜
アンコール
リヒャルト・シュトラウス:Morgen
久石譲:ハウルの動く城「人生のメリーゴーランド」
ヤメン・サーディはナザレ生まれ、11歳でウェスト=イースタン・ディヴァン管弦楽団(本拠地はなく毎夏合宿により国際ツアー実施)に入団、バレンボイム・サイード音楽院(ベルリン)で学び、25歳でウィーン国立歌劇場管弦楽団に入り(22/23年)、2025年ウィーン・フィルのコンサートマスターに就任した若手。
ナザレはイエスが幼少から青年期までを過ごしたガリラヤ地方の街で、ナツメヤシの緑と青い空にピンクがかった受胎告知教会が美しいところだ。イエスはナザレ人と呼ばれるが、ヘブライ語でのナザレ人とは「聖別された人」の意。そういう地で生まれ育った少年が、ユダヤ人バレンボイムとパレスチナ人サイードの対話から生まれたオーケストラと音楽院を経て、名門オーケストラのトップになった。
ウェスト=イースタン・ディヴァンの名称は晩年オリエントに憧れたゲーテの『西東詩集( West-Eastern Divan)』に由来する。バレンボイムとサイードの対話は2001年米国同時多発テロ翌年に『Parallels and Paradoxes』として出版された。そこでの楽団創立にまつわるエピソードが、私の脳裏には焼き付いていた。シリアからきた少年(イスラエル人というものにあったことのない)とイスラエルのチェロ奏者(ダマスカスに西洋弦楽器を弾ける人がいることを想像できない)が同じ譜面台を覗き込み、「同じ音を、同じ強弱で、同じボウイングで、同じ響きで、同じ表現で演奏しようとしていた」。互いのことに全く無知で、各々属するグループ(イスラエル、ロシア、シリア、レバノン、パレスチナ、イスラエル国籍のパレスチナ)に分かれ、敵意と友情のはざまにあってぎこちなかった子供たちが緊張を克服、一つのオーケストラに変身する様子を目撃したサイードは、「一組のアイデンティティが別の一組に取って代わっただけ」で、音楽を共有することで彼らは等しくチェロ奏者、ヴァイオリン奏者になったのだ、と述べている。
バレンボイムはここから、「紛争がいつの日か解消されるのであるとすれば、それは争っているもの同士が互いの接触を通じて問題を解決していくことによってしかありえないということだ。」と語るのだった。
音楽が、でなく、一緒に演奏する体験の共有が、分断・無知と無理解を乗り越える道だ、という理念のもとに設立されたオーケストラと音楽院で学んだ若者は、どんな演奏をするのだろう。
サーディは普通の家庭で育ち、8 歳で偶然TVで耳にしたヴァイオリンに魅了されこのオケに入ったという。パレスチナの子たちの現実を思えば、夢を叶えた幸運なユダヤの若者といえよう。
グリーグではクライスラー使用のストラディヴァリの美音をたっぷり鳴らす。弦への弓の吸い付き加減はしっとり柔肌を滑る魔手のようであった。ドラマティックな抉りを奏出するジュリアン・カンタンのピアノにのって気持ち良さげ。ではあるのだが、どこもかしこも美音で軋みなく、半世紀ほど前の国際コンクール覇者の日本の優等生演奏に似る。第2楽章、終楽章での抒情的歌謡部分も薄味。が、アレグロ部分になると相方の煽りで興に乗り、アラブ風の旋回感覚で音楽がいかにも弾むのにやや驚く。フォーレはカンタンの華麗なピアニズムに押され、やはりソロとなると弱いのか、と思ってしまう。
後半のクライスラー編のスペインものでは「持ち味」が発揮されるのでは、と期待したが、とにかく美音一辺倒、音楽が整いすぎ、スペイン舞曲の持つ野生味、沸き立つ熱情、やるせない哀愁がたちのぼらず、アラブ的旋回舞踏感覚も突き抜けてこない。
ここでハタと私は思った。自分は何を求めているのか。ギトリス(ハイファ生まれ、ウクライナのユダヤ人系譜)の、男の子はみな「手にヴァイオリンを持って生まれる救世主、村のヴァイオリン弾き」という言葉、まさにそのままのユダヤ・クレズマーの悲と愛のゴツゴツ塊みたいな強烈な凄み節、きっとそれを私はサーディに探そうとしていたんだ、と。
そういう色眼鏡を外して、ではフランクを聴こう。
だがフランクはカンタン持ち前のヴィヴィッドなリズム感覚によってフレーズがぶつぶつ切れる。ここは、と私が大きく息を吸い込んで調べに浮かんでいると、バッサと断ち切られ、あるいは落っことされ、まるきり二人の演奏と「息が合わない」。いったいなぜ。
場内の喝采に、アンコール2曲の1曲目、R・シュトラウスの『Morgen』でようやく私は、うっとりとその優雅でたおやかな調べと美音を素直に楽しんだのであった。
何を求めて。いったいなぜ。
この2時間から学んだことはあまりに多く大きく、ここでは到底語れない。
一つだけ、アイデンティティについて触れておく。
上述のサイード、バレンボイムの言葉を反芻するに、私の言う「持ち味」などは、ただの「思い込み」にすぎない。民族性とかユダヤらしさ(ここではギトリスに象徴される)とかアラブ風とか。あるいは20年ほど前のイスラエル周遊旅行で目にしたイスラエルとパレスチナの現実の切れっ端、その貧しい「体験」からの「決めつけ」。これも貧しい経験値が引き起こす「〜のはずだが」という「想像力欠如」。
以下、サイードとバレンボイムの語る「アイデンティティ」を引いておく。
S:アイデンティティというものはひとまとまりの流れ続ける潮流であって、固定した場所や安定した対象に結び付けられるものではない。(p.6)
B:複数のアイデンティティをもつことは、たんに可能というだけでなく、望んでしかるべきものなのだ。複数の異なった文化に属しているという意識は、ひたすら自分を豊かにしてくれる。(p.7)
まずはじめに自分が何者であるかを断定し、そのうえで、勇気をもってそのアイデンティティを手放し、それによって帰還の道を見出す。これが音楽の本質だと思う。(p.62)
一昨年、ひさびさウィーンでウィーン・フィルを聴いた時、私はウィーン・フィル初の女性コンマス、アルベナ・ダナイローヴァ(ブルガリア出身)に吸い寄せられ、ひたすら彼女に見惚れ聞き惚れた。その演奏に「ロマ」の香を感じたからだ。蠱惑的なカルメンみたいだった。この名門楽団は現在4名のコンマスが居る。女性初のダナイローヴァに加え、新任のサーディで新時代到来とのことだ。
まさに、複数のアイデンティティの集合体?
多様性とは言葉や概念で言うことは容易いが、生身の人間一人の中にどれほどの「他」「多」が流れ込み、包摂されているかを感じとるのは本当に難しい。だが、バレンボイムの言う「音楽の本質」とはまさにそこにあるのだろう。
ゲーテにとって「芸術とはとりもなおさず“他者”へ向かう冒険であって、自己に専心することではなかった」(p.14)というサイードの言葉を、今、私は噛み締める。
サーディを聴きに行かねば、こうしたことに思いが及ぶことはなかったろう。
参考図書)
『Parallels and Paradoxes』邦訳『音楽と社会』みすず書房/2004
『魂と弦』ギトリス著/春秋社/2000
(2026/1/15)
<Player>
Yamen Saadi (violin)
Julien Quentin (piano)
<Program>
Grieg: Violin Sonata No. 3 in C minor, Op. 45
Fauré: Violin Sonata No. 1 in A major, Op. 13
Albéniz (arr. Kreisler): Suite “España” – No. 2 “Tango” and No. 3 “Malagueña”
Falla (arr. Kreisler): Spanish Dance from the opera “La Viva La Vie”
Franck: Violin Sonata in A major
(Encore)
Richard Strauss: Morgen
Joe Hisaishi: “The Merry-go-round of Life” from《 Howl’s Moving Castle》


