Menu

特別寄稿|〈死者〉に向き合うこと―新たな音楽劇は可能か | 内野儀

〈死者〉に向き合うこと―新たな音楽劇は可能か

Text by 内野 儀 (Tadashi Uchino):Guest
Photos by 山口雄太郎 (Yutaro Yamaguchi) 『彼方の島たちの話』(2025)

はじめに

前稿(「『リビングルームのメタモルフォーシス』と『愛と正義』―二つの音楽劇から」)で参照した中野正昭による日本における音楽劇、それも1980年以降に登場してきた音楽劇の定義は以下のようになっていた。

(略)ミュージカルが台詞を歌唱で表現するのに対して、これらの音楽劇では台詞は通常通り発せられ、導入的に劇中歌・曲が多用される。従って、物語そのものは歌や曲を除いても成立するが、ミュージカルとは異なる。作り手が、既存のミュージカルやオペラとは異なる歌や曲の演劇的利用を形式・方法論として意識していることに特徴をみることができる。(377)

前稿ではこの定義に即して表題にある二作品を取り上げた。今回取り上げる額田大志作・演出・音楽の『彼方の島たちの話』は、方法的には岡田利規の『リビングルームのメタモルフォーシス』に近い。すなわち、登場人物はいわゆる歌唱をすることはほとんどなく、マイク越しとはいえ、台詞を語ることがこの上演の基本となっている。しかしそれ以上に、額田は音楽劇というジャンルの歴史性に自覚的であり、「新しい音楽劇をやりたい」(1)としたうえで、「過去の音楽劇の文脈にできるだけ接続しづらいものにした」かったという。なぜなら、三味線やバイオリンなどの弦楽器は、「楽器によってその音色が持っているイメージが、固有の音楽劇と結びつ」くからである(2)

そのため本作では、「比較的匿名性が高い」(同上)ギターが選ばれ、これまでにもコラボレーションの経験がある細井徳太郎(ギター)に加え、ベースの石垣陽菜、ドラムの渡健人が参加した。といっても、いわゆる劇伴ではなく、舞台上に常時可視的に存在し、また、台詞も与えられて、死者が跋扈する本作における「死んでいないもの」(上演台本による)としてである。

そもそも額田は、劇作家・演出家であると同時にミュージシャンでもあり、東京塩麹というバンドの活動でも知られる。「音楽にも造詣が深い」というレヴェルを遙かに超え、同時代の音楽シーンの只中にもいる希有な演劇作家である。したがって、これまでも演劇における音楽あるいは〈音楽的なもの〉の実験と呼べるあり方が追求されてきたのだが、今回上演された『彼方の島たちの話』では、額田が作家的な意味で取り組んできた〈死〉という大文字の主題性を、〈わたしたち〉の同時代に演劇として召喚するための音楽の使用が、一つの頂点に達したと思われる。

『彼方の島たちの話』の物語

どういうことか? 端的に言えばそれは、劇の台詞と劇中音楽の新たな関係の模索を超えた、ある確信をもった方法論の確立であり、確立という言葉とは一見矛盾するようだが、そのことによる〈死〉という普遍的なテーマへのかつてない、だが同時に恐らく反復不可能な道筋での近接である。

舞台には様々な高低の足場的な空間が組まれ、下手のやや高いところにドラムセット、上手の二か所にギターとベースのための空間が別の高さである。アクティングエリアもそれなりの広さはあるが、やはり高低がある。

物語は15年前に父(金沢青児)が飛び降りた海岸を訪れたアイラ(稲継美保)の語りから始まる。その海岸の崖に向かうエイコ(片桐はいり)を見かけて声をかけるが、そこに死んだはずの父ショウイチも現れる。さらには、エイコの娘カオル(原田つむぎ)も加わる。どうやら時空がねじれて15年前になっているようだ。エイコの飛び降りもまた15年前である。ところが、さらに1万年前に生きていたというムー(東野良平)まで加わり、それ以前の場面に登場して海岸を徘徊していたトキサカ(長沼航)は、ムーの飛び降りの原因になったナイフで刺した父親らしいことも徐々にわかってくる。

ことほどさように、バンドのメンバーが「死んでいないもの」として劇に参加することからしても、登場人物たちは、語りの主であるはずのアイラを含め、全員が死者なのではとさえ思えてくる。この海岸/上演空間は、死者たちの怨念にあふれているのだ。

語りはモノローグが多い印象が実際の上演では残るが、戯曲を読んでみると、対話が占める部分も実は相当あることがわかる。それぞれが、それぞれの死に至る〈事情〉や(勝手な)思い出を語り、時に相手―アイラと父、エイコとカオル、ムーとトキサカーを責めたり、悔恨の情を示したりするが、どこかに落ち着くことはない。〈事情〉や「いま、ここ」で起きている〈事態〉についての、それぞれの理解は、自分勝手というよりも主観的なもの、あるいはねつ造した思い出/想像でしかなく、互いの認識はずれ軋み、それがまた、お互いへの長続きしない連帯感を作ったり、根深い不信感をもたらしたりもする。しかし、過去に何か決定的なことがあって、それが〈死〉や〈死〉についての思いに連なっているらしい、という、ゆるやかな因果関係と時間の連続性の感覚だけは共通する。

『彼方の島たちの話』の音楽と字幕

そうした複雑な言語態が織りなす言語世界とその言葉が直感的にもたらす〈佇み〉から〈痙攣〉までの幅広いレジスターの身体所作に、音楽/音響の要素が加わってさらに劇空間は複雑化かつ輻輳(複層)化する。音楽/音響は、場所の情景描写とも登場人物の心情とも記憶の中の音ともかかわるが、単に説明的であることは稀で、たとえ説明的―例えば、海の音―を連想させる音であっても、俳優の演技やそのときの空気に応じて、位相を変えていく。それに対応するかのように、そもそも口語的であるよりもリズム的ないしは詩的な登場人物の台詞も、リフレインするなど、音楽的な要素が、場合によっては強調される。

音楽にスコアはあるのだが、即興的な要素も強いようで、俳優の台詞/身体所作と三人の音楽家の創り出す音は、どちらが主導権をとるでもなく、ときに俳優の台詞に導かれるように、また別のときには、音が先にあってそこに俳優の台詞が重なっていくように、あるいはまた、相互に干渉し合う/相乗していくように、上演は進行する。

さらに今回特筆すべきは、背後にふたつスクリーンがあり、ひとつには台詞、もうひとつには音楽と音を説明する字幕が表示される(アクセシビリティ監修:田中みゆき)。鑑賞アクセシビリティのための用意だったようだが、直前に全回実施となった。この音情報の字幕が、本作の劇評を書いた徳永京子も言うように「図らずもヌトミック的音楽劇の格好の手引きともなっている」(朝日新聞11月27日夕刊)。

音情報とは、たとえば、「♪頭の中を/かきむしる/ように/躍動する/ギター」、「♪言葉に呼応し/乱反射する/高音のギター」、「♪言葉を支える/ような/図太いベース/ざわざわと/うごめくギター/トンチキな/ドラムのビート」、「♪言葉の奥底から/はい出るように/響き出す/ドラムのリズム」のような字幕である。そればかりか、終盤近くの全員が登場して、ある種の親子間の〈対決〉の極限を迎えて大音響に包まれる場面では、

♪どうしようもなく/こわごわと/高まりを/見せる音

♪うねり出す/荒波のような/音楽 (ドラム)だん だん/だん だん

♪海を渡り/時をさまよう/広大な音楽

♪狂ったように/ざわめきだす/ドラム (アイラ)もしも

(上演記録映像より)

と音のイメージが字幕表示される。ここにあるように、登場人物が歌う場合も、最後のアイラの「もしも」のように、ここで表示がされる。さらに、字幕自体の文字が横揺れというか振動までするため、上演が音響的に伝えたいイメージが視覚化されて表現されてもいる。

こうしてある意味、現時点の劇場テクノロジー的制約内での考えられる限りの方法/ギミックを導入して描かれる世界は、ではいったいどのようなものなのか。

『彼方の島たちの話』は何を為そうとしたのか

ここで注意すべきは、「一万年前の人間」であろうが、「死んでいないもの」であろうが、本作で語られる事情/事態は、あくまでも現代日本の社会関係の具体性を念頭に置いたものであるということである。イギリスに留学している娘や、携帯だからすぐに出られるはずの電話に出る出ない、あるいは、DV(アイラの父は、母に暴力を振るっていたことが劇中、暗示される)や、ナイフによる暴力、そして何より、崖からの飛び降りという方法である。

だからこそ、逆説的なまでに、そもそも本作のタイトルにもある「彼方の島」に行くとか、「人は死んだら星になる」とか、そういう素朴なまでに詩的な死生観が時おり、呼びだされているのではないか。ただし、それは韜晦でも逃避でもなく、額田による距離化の戦略、いや戦略というと意図的に聞こえるので、必然的距離化への希求によるものだ、とわたしは勝手に考えている。

戦略的相対化ではなく、必然的距離化である。なぜなら、死を、あるいは自死を相対化する権利など、わたしたちにはないからだ。死者は、そしてその怨念は、わたしたちとともに、ある。ありつづける。それこそが、同時代のわたしたちが向き合うべき時事的かつ普遍的事実なのである。そのこと(だけ)を言うために額田は、これまで見てきたような「新しい音楽劇」の形式を、リハーサルの共同作業のプロセスを通して、選んでいく必要があった。そう感じさせるのに十分な、輻輳的/複層的でありつつもアプローチしやすい音楽劇の形式を額田は〈発明〉したのである。もちろんそれは、このテーマ、この参加者、このテクスト、この時代、この劇場空間でなければ、使えない、つまりは反復不可能な音楽劇の形式である。

(1)直接そのように言っている文献は見つからないが、横堀応彦による額田へのインタビューのタイトルにそ「新しい音楽劇」という表現がある。また、公演HPにおいても、「日本語音楽劇の新たな地平を切り開く(https://nuthmique.com/post/789828166487293952/kanata)とある。

(2)https://mikiki.tokyo.jp/articles/-/43149?page=2

(2026/1/15)

世田谷パブリックシアター フィーチャー・シアター
ヌトミック『彼方の島たちの話』
作・演出・音楽:額田大志、Playwright/Director/Music: Masashi Nukata
ギター:細井徳太郎、Guitar: Tokutaro Hosoi
ベース:石垣陽菜、Base: Haruna Ishigaki
ドラム:渡健人 Drums: Kent Watari
出演:稲継美保、片桐はいり、金沢青児、東野良平、長沼航(ヌトミック)
原田つむぎ(ヌトミック)
Performers: Miho Inatsugu, Hairi Katagiri, Seiji Kanazawa, Ryohei Higashino, Wataru Naganuma (Nuthmique), Tsumugi Harada (Nuthmique)

―――――――――――――――

内野 儀(Tadashi Uchino)

1957年京都生れ。東京大学大学院人文科学研究科修士課程修了(米文学)。博士(学術)。岡山大学講師、明治大学助教授、東京大学教授を経て、2017年4月より学習院女子大学教授。専門は表象文化論(日米現代演劇)。著書に『メロドラマの逆襲』(1996)、『メロドラマからパフォーマンスへ』(2001)、『Crucible Bodies』 (2009)。『「J演劇」の場所』(2016)。公益財団法人セゾン文化財団評議員、公益財団法人神奈川芸術文化財団理事、福岡アジア文化賞選考委員(芸術・文化賞)、ZUNI Icosahedron Artistic Advisory Committee委員(香港)。「TDR」誌編集協力委員。