評論|今、愛に救いを求めることの虚しさ―『ナターシャ』と『果てしなきスカーレット』を巡って―|齋藤俊夫
今、愛に救いを求めることの虚しさ―『ナターシャ』と『果てしなきスカーレット』を巡って―
Text by 齋藤俊夫(Toshio Saito)
※映画『果てしなきスカーレット』の内容に触れています。
2025年8月、新国立劇場で世界初演された細川俊夫作曲・多和田葉子台本のオペラ『ナターシャ』は賛否渦巻く話題作となった。また同年11月に劇場公開された細田守監督・脚本のアニメーション映画『果てしなきスカーレット』(以下、『スカーレット』と略)も物議を醸し出した作品である。両作品はオペラとアニメーション映画とジャンルも異なり、完成度も『ナターシャ』の方が『スカーレット』を遥かに凌ぐと筆者は評価するが、これらを「寓話」として捉えることにより見えてくるものがある。
『ナターシャ』と『スカーレット』が「現代の寓話」たらんとしていたことは容易に首肯されるであろう1)。共通する「地獄」という劇中の舞台2)、これも共通する「日本人青年」のアラトと聖という登場人物、そして劇における「救い」としての「愛」。これらが現代の、「現在の現実世界」の寓喩的モチーフを目指して用いられていたことは間違いないと筆者は捉えた。そしてこれらの寓喩がことごとく作品中で「現代性」を取り逃がすことによって、両作品を「現代の寓話」たらしめることに失敗していたことを本稿では批判的に論じたい。また、その批判を通じて現代の我々が直面している、あるいは直面しなければならないのに目を逸らしている現代的課題を浮き彫りにすることが本稿の眼目である。
「地獄」という劇中の舞台、これが「現在の現実世界」を寓喩的に表したものであることは大多数の人に是認されるであろう。COVID-19のパンデミックから、世界各地を襲う異常気象とそれの人間由来説を否定する反知性主義的権力者たちの存在、東西冷戦ではない東西熱戦たる第三次世界大戦の前哨戦となるのかもしれないウクライナ戦争、中東において「西欧先進国」がもたらした100年以上の捻じれの結果としての最悪の新たなるナクバ・ガザの虐殺、米国の自由民主主義国家体制を完全に否定する全体主義王政への雪崩、世界各国で広まる排外的ナショナリズムの高揚と植民地主義時代への倫理的逆行、今の世界を見てそこに現実化した「地獄」を見出さない者は人間として大切な何かを欠如した者だけであろう。
問題は、その「地獄」たる現実世界に対して、両作品が示した「地獄」の様相である。『ナターシャ』で巡られる7種の地獄は類型的なありふれた姿にとどまっている。『スカーレット』では世界はこの世と「地獄」のような「死後の世界」の2層構造になっていて、死後の世界でもう1回死ぬと虚無になって掻き消えるらしいが、この設定はなんらの寓喩的意味も持ち得ていない。
そもそも、我々が今テレビやネットで容易に触れられる「現在の現実世界」の「地獄」の現実化可能だが表現・表象不可能な「ウルトラ現実的リアリズム」は果たして表現世界中に寓喩として表しうるのであろうか?
例えば映画『プライベート・ライアン』『硫黄島からの手紙』のように徹底的に即物的に戦場を描くことによりウクライナ戦争の前線を描いたり、映画『戦場のピアニスト』のように地平線まで延々と連なっている廃墟の静謐で禍々しい美を今のガザの瓦礫しか見えない光景と重ね合わせて描いたりすることは可能かもしれない。だが、そのような(映画的?)リアリズムでは描き、捉えきれない「ウルトラ現実的リアリズム」にもはや現実は達している。
それに対して、リアリズムを捨てて寓話として作劇されたはずの『ナターシャ』において世界の終末的様相を描こうとした7つの「地獄」は、ウルトラ現実的リアリズムに肉薄することを回避した「ファンタジー」の範疇から逃れ出ることができていない。その地獄に見られたのは現代を生き、それと格闘すべき芸術家が取ってはならない、現実の地獄はこれほどであってほしいという現実からの逃避の姿勢、願望充足としての創作姿勢であった。あまりにも愚かすぎ、残酷すぎるウルトラ現実の中で抱くあらまほしき現実の姿を投影してしまったがゆえの現実から芸術世界への逃避、あるいは現実の中であるべき芸術からの逃避である。今見ているはずの地獄をどうにかして対岸の火事として見て、自分が関与している地続きの世界として見ないでいようとする地獄=世界像が表れていた。ただ、その逃避の姿勢、願望の世界像は仮にも「地獄」を描こうとしていた『ナターシャ』より、そもそも「地獄」なんてない、とでも言いたげな結末を迎える『スカーレット』の方が遥かに酷い有り様であったことは一言付け加えておきたい。
作品世界内における現実からの逃避・願望充足の最大の象徴として挙げられるのが『ナターシャ』のアラト、『スカーレット』の聖という「日本人青年」である。
アラトはフクシマからの、つまり2011年3月11日のあの東日本大震災からの難民、それも津波とさらなる原発事故による難民だったと仄めかされるが、果たして彼を「日本人」として見たとすれば、象徴として正当なものであっただろうか? フクシマからの青年、という世界的に見た特権的被害者像は、フクシマの廃炉作業も進まぬままに老朽化した大量の原発再稼働に邁進する「現在の日本人の真の姿」を覆い隠すものではないだろうか?
聖は「平和国家日本」を象徴するように、スカーレットの復讐行を諌め、「地獄」で出会う傷付いた人々を自らの介護技術で癒やし、時代と国が異なれば、つまり現代の「平和な日本」であれば、あるいはスカーレットが享受できたかもしれない「平和の喜び」を「渋谷駅前でのダンスシーン」で分かち合う3)。防衛費を急増させ、現総理大臣のタカ派姿勢に喝采を上げ、彼女の支持率が直角的に急上昇し(決まって使われる「毅然と」という単語に怖気を震う気持ちを感じるのは筆者だけであろうか?)、ロシアとの商取引を維持し、イスラエルから殺人兵器を数千億円で輸入し、諸外国への兵器輸出もなし崩しに解禁し、美しき辺野古の浜辺にアメリカへの貢ぎ物のような基地を数十年かけて築こうとしている「今のこの日本」のどこが平和国家であろうか?
この両作品の2人の日本人=自己表象の醜悪さに気づいていないことは致命的、あるいは絶望的な作劇上の欠陥である。西洋からの視点が陥る、日本という「オリエント」に西洋にない美徳を積極的に見ようとする「逆オリエンタリズム」の陥穽を両作品が利用している、とも言えるだろう。フクシマならば、日本ならば非難されない、という傲慢な姿勢がそこに見出だせる。日本人だからこそ、その日本人の口から日本を批判しなければならないという厳しい批判的態度は両作品から完全に欠如している。
そして、両作品が「地獄」からの「救い」として提示するものが「愛」であること、この一見すると現代における希望として捉えられるものの現実における無力さを自覚していないこと、これこそが最も絶望的なことである。
両作品で劇の最後にデウス・エクス・マキナのごとく現れる「愛」は、現実世界においては決して現れない。確かに、「愛」で現実=地獄から救われるのであればそれ以上の悦ばしきことはないであろう。だが、現実にそのようなデウス・エクス・マキナは存在しない。存在するのは愚劣さと傲慢と憎しみによって徹底的に「愛」が踏みにじられる世界のみだ。徹底的に「愛」の力が失われていく現実世界の中で、「愛」を表現・表明しようとすればするほど、その「愛」は空想の度合いを増してゆく。空想となった「愛」は寓喩ではなく、現実世界を見ないように覆われる「仮象」によって描かれた「戯画」に過ぎない。裏切られ続けている世界の愛を今希求することの難しさを無視して現代の「戯画」を描くことは、既に「罪」である。
虐殺の地ガザにおいて、国境なき医師団やジャーナリストすらもイスラエルの銃撃の犠牲となり、グレタ・トゥンベリらの国際的活動もイスラエルの攻撃対象となってしまったという現実世界において、平和な土地で「愛」を唱えることは果たして意味があるのだろうか。その「愛」とは果てしなく空想的な、言わば平和ボケの産物ではないだろうか。必要なのは「愛ゆえの怒り、憤り」ではないだろうか。
さらに言えば、今世界を覆っているのは禍々しき「愛」国心という「美」徳ではないだろうか。この「愛」という語が持つ「美」の仮象をかなぐり捨てて、踏まれても踏まれてもまた立ち上がる雑草のごとき「強さ」を持つことこそが今我々に求められているのではないだろうか。世界を覆う「愛国心」という「権力者の求める美徳」に対して反旗を翻す「美ならざる美」としての「真の愛」、それこそが今探求されるべき人間的精神ではないだろうか。
本稿で掲載した『スカーレット』のキービジュアル、死体が地平線まで延々累々と連なる中に剣を持った血塗れのスカーレットの姿、ここにこそ筆者は「美」をかなぐり捨てた「怒りと憤り」の「強さ」を感じ、そして「救い」への可能性を垣間見る。だが、それは作品で果たされることはなく、現実には存在しない「愛」の虚像によって裏切られた。
それにしても、『スカーレット』と同じアニメーション作品、約30年前の赤根和樹監督作のTVアニメ『天空のエスカフローネ』の最終話、少年少女の愛を結ぶために空を飛ぶ龍の美しさを目の当たりにして戦場の兵士皆が武器を下ろすという「愛」と「美」の奇跡からどれほど我々が遠くに来てしまったのかを考えるとき、筆者はあまりにも悲しく暗い気持ちにならざるを得ない。何故、いつ頃から我々人類はかほどに愚かしく醜く非道な存在に身を落としてしまったのだろうか。そして、人類が果たして救われることはあるのだろうか、人類は果たして救われるべき存在たるのであろうか。
1)『ナターシャ』『スカーレット』の内要については本稿末の関連評・関連コラムを参照されたい。
2)後述の通り『スカーレット』ではこの舞台は「地獄」ではない設定だったようだが、本稿では通常の意味での「地獄」を描いた、あるいは「地獄」を描かなかった、あるいは「地獄」を描ききれなかったというジレンマに重きをおいて、あえて「地獄」と作品中のあの世界を呼称する。
3)個人的な見解を述べさせていただくならば、この渋谷駅前でのダンスシーンは半世紀以上続く日本アニメーション史上最も醜悪なシーンだったと筆者は評価する。
関連評:新国立劇場 オペラ『ナターシャ』|秋元陽平
新国立劇場 オペラ『ナターシャ』|齋藤俊夫
『ナターシャ』をめぐって―人間の可能性をいかに語るのか? | 内野 儀
関連コラム:小人閑居為不善日記|スカーレットの醒めない夢──《果てしなきスカーレット》|noirse
(2025/12/15)

