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音の始源を求めて NIPPON電子音楽70周年記念・第5弾 諸井誠 × 黛敏郎 ― 永遠のライバルが開いた未来の扉|齋藤俊夫

音の始源を求めて NIPPON電子音楽70周年記念・第5弾 諸井誠 × 黛敏郎 ― 永遠のライバルが開いた未来の扉

2025年11月27日 Artware hub KAKEHASHI MEMORIAL
2025/11/27 Artware hub KAKEHASHI MEMORIAL
Reviewed by 齋藤俊夫(Toshio Saito)
写真提供:大阪芸術大学音楽工学 OB有志の会

<スタッフ>
サウンドスーパービジョン 大石 満
サウンドディレクション 日永田 広
サウンドエンジニア 磯部英彬
サポートスタッフ べんいせい
主催:大阪芸術大学音楽工学 OB有志の会
協力:株式会社スリーシェルズ
助成:公益財団法人かけはし芸術文化振興財団

<曲目>
(アンコール曲以外すべて電子音楽作品)
諸井誠&黛敏郎:『7のヴァリエーション』(1956)
黛敏郎:電子的音響による音楽的造形 『葵の上』(1957)
諸井誠:狂言と電子音による『くさびら』(1964)
黛敏郎:電子音響と声による『まんだら』(1969)
諸井誠:電子音響による5つの断片『ヴァリエテ』(1962)
(アンコール)
諸井誠:『竹籟五章』(1964)
尺八:志村哲

 

「日本における電子音楽黎明期の記念碑的作品」(プログラムノートより)たる1956年の諸井誠と黛敏郎の合作曲『7のヴァリエーション』の時点でこの「永遠のライバル」二人の相反する音楽的性格、イズムがぶつかり合って創造の場が現出していることが聴き取れる。今回の上演では電子技術の革新により電子音の輪郭が実にくっきりとした芳醇さを備え、かつ謎の説得力(これが電子音楽の醍醐味である)を秘めている。その本作前半の諸井制作のパートでは電子音はかたくなに数理秩序に従って動き、響く。対して後半の黛制作のパートでは電子音は自由奔放多種多様にその姿を変えて現れる。諸井の〈論理性〉〈主知主義〉、平たく言えば〈生真面目さ〉と、黛の〈感覚性〉、平たく言えば〈サービス心〉というイズムのぶつかり合いがこの現代日本電子音楽の祖たる作品に内包されているではないか!

『7のヴァリエーション』から1年後、早くも黛が数理秩序に従うことをやめて〈感覚的〉に日本の能楽と向き合った『葵の上』では前作とはガラリと色彩が変わって、電子音響は禁欲的で、能楽の謡と囃子というものをいかに現代音楽において新たに活かすべきかを手探りで探求した跡が聴き取れる。湯浅譲二の同名作『葵の上』が1961年作と書けば黛のこの作品がいかに当時の最先端を走っていたかが知れようと思えるが、黛の〈感覚性〉は本作では能楽への〈情緒的共感〉という形で現れていると筆者は捉えた。能楽を批判的=クリティカルに異化するのではなく、なるべく素材そのままの姿でそれをいかに〈現代〉の美へと変奏させるか、に作曲家の眼目があると思えたのだ。湯浅の『葵の上』の方が方法論が過激で現代音楽人の耳目を喜ばせるものかもしれないが、黛の本作の静謐な美しさはやはり傾聴するに足るものだと思われた。

能楽に向き合った黛に対して狂言に向き合った諸井の『くさびら』では黛の〈情緒的共感〉を生ぬるいものとしてバッサリと切り捨てている。静かな囁き声による序奏の時点で静かに狂っており、その「狂」が、「狂言」の「おどける」という意味ではなく「気がふれる」の意味へとエスカレートして言語と音楽を異化し尽くし、声とそれの電子変調と電子音による異形の轟音が吹きすさぶ終曲まで、鬼気迫る音楽とはこのことだと心底怖気震う心地がした。〈日本〉の伝統音楽への黛的〈共感〉と対極にある諸井の〈論理性〉は、自走機械的に〈日本〉を狂わせることに容赦がない。大変な傑作だと筆者は評価した。

黛『まんだら』、鳥の鳴き声を思わせる「ピッ」という音がまばらに、やがて群れて飛ぶ序盤は『7のヴァリエーション』、それも諸井のパートを思わせるような主知的な雰囲気を漂わせていたが、やがてやはり黛的奔放な音の流れ――チベット仏教の砂で描かれた曼荼羅図が空気中に散布されていく様のようだ――が溢れ出し低音のクラスター音に至る。そして様々な笑い声、うめき声、あえぐ吐息、嬌声、絶叫、さらには演説の大声と観衆の熱狂する声などなど様々な声が重なり合い時間空間が入り乱れて⋯⋯低音のクラスター音で了。黛の〈感覚性〉の極みとしての痛快至極な作品であった。

黛『まんだら』の〈感覚性〉と対極的なイズム、諸井の〈論理性〉の結晶たる作品が『ヴァリエテ』であった。『7のヴァリエーション』の諸井パートをさらに論理的に推し進めたトータル・セリエリズム(総音列技法)による、ごく短い5章全てが完璧に彫琢された無駄のない構築性を得ている。しかし電子音楽によるトータル・セリエリズムというものへの先入観たる〈人間性の欠如〉などは筆者にはほど遠いものと思えた。電子音楽によるトータル・セリエリズムであっても、あるいはそれゆえに、創作者の〈人間としての心〉が響き、聴こえてきたのだ。

今回の演奏会、諸井&黛『7のヴァリエーション』→黛『葵の上』→諸井『くさびら』→黛『まんだら』→諸井『ヴァリエテ』と並べることにより、諸井と黛の出発点から、能楽と狂言を扱った2作品、諸井と黛のイズムの極点を示した2作品、と作曲家を対にして組み立てるプログラムであったが、これを再構成して、年代順に56年『7のヴァリエーション』→57年『葵の上』→62年『ヴァリエテ』→64年『くさびら』→69年『まんだら』と並べるとまた異なった様相が見えてくる。
制作年が下るにつれて、一次元的、単線的描線から三次元的構築へと作品の構造が発展し、無機的あるいは鉱物的感触から有機的あるいは生物的感触へと音のきめが進化していったように筆者には聴こえた。諸井と黛、この二人のライバルの音楽的性格、イズムがコマのように回りつつぶつかり合うことによって音楽シーンが発展・進化していった様を今回我々は聴き届けたのではないだろうか。それはなんと悦ばしき出会いであったことか。

サプライズのアンコール、諸井『竹籟五章』の尺八の厳粛な響きに身を任せつつ、達成感と幸福感に包まれて本演奏会の終わりを迎えた。今回携わった全ての人に心よりありがとうと言いたい。

(2025/12/15)